分福茶釜

前回「ずいずいずっころばし」を持ち出したから、茶バナシつながりで、今回は「分福茶釜」に眼を向ける。
これまた誰もが知る騒動談。
このストーリーを広く頒布し確定的にしたのは、明治の作家、巖谷小波が編んだ「日本昔噺」叢書の第11篇『分福茶釜』だった… と思う。


鉄器が化けるというのは、平安・室町時代の「百鬼夜行」がスタートっぽいけど、その後あれこれバリエーションがもたらされ、たいがい、ヤカンやチャガマが悪さをする。
巖谷小波もそれに準じた。
けども、巖谷が下敷きとした伝承談オリジナルは、そうでない。
ボクは、このオリジナルがかなり好きな方で、ファンタジーとしても出色な出来と… 思う。
今回参照したのは、昭和11年刊の万造寺竜著『旅の伝説玩具』に収録の「分福茶釜」だけども、知ってる人は知り、知らん人は知らんだろうが(ボクは後者だった)、分福茶釜は現存する。



群馬県南東部に位置した、今や日本で1番に暑い日が多い館林市。そこに青竜茂林寺があって、拝観料300円を支払えば、ガラスケースの中、鎮座のそれを見るコトが出来る。


茂林寺(もりんじ)は曹洞宗
すなわち、茶の湯と縁が深い禅宗の1つなのだけど、あんのじょう、はるか昔、元亀元年(1570 - 信長が浅井長政を討ったころ)にこの寺で、「千人法会」なる大規模な法要があって、当然に茶会がセットになっていた。
そこで用いられた釜が、今に伝わる"分福茶釜"なのだった。



寺を開いたのは大林正通。応永33年(1426)とのこと。
この大林が開山の直前、伊香保山(群馬県渋川市伊香保温泉で名高い)でもって、守鶴(しゅかく)という老僧に出会い意気投合、彼を伴い、茂林寺を建立する。
当初は小さき規模だったけど次第に信奉者が増し、寺領も増え、住職が代替わりを続けて7代目のころ、千人法要の儀式を行える寺へと成長する。
千人の僧が集って経文を読む大事な儀式。
が、さて困った。まだ寺はそこまで整備されておらず、大きな茶釜もない…。


その前夜、守鶴がどこからか茶釜を1つ用立ててくる。
守鶴はずいぶんと長寿だ…。
共に寺を開いた大林はなくなって既に144年が経つ。
ともあれ、その釜の湯で法要の茶会が行われることになる。
奇妙奇天烈ながら、茶釜は湯を汲んでも汲んでも尽きることがない…。
皆さんビックリ。
守鶴は、「紫金堂分福茶釜」とそれを呼び、福を分かちあう道具と名告げた。



時がさらにながれ…、なお生きている守鶴を祝う酒席が設けられる。
これまた千人の僧が集い、大いに盛り上がり、守鶴も深酒して眠ってしまう。
さなか、他の僧らが目撃する。
手足に毛が生え茂り、太い尾もある、狢(むじな-この場合はタヌキ)であることがばれてしまう。
それで、もはやこれまでと、タヌキの姿に戻った守鶴は、居合わせる僧侶らに、釈迦の説法をとき、同時に源平合戦の悲壮場面を語ったのち… しずしずと去っていった。
こうして… 分福茶釜のみが寺に残って今に伝わる。


ボクが好むのは、このタヌキの生き方、暮らしよう… だ。
イタズラ者でなく、極めて真摯に、開山した大林正通を支え、彼が没後も寺に留まって代々の住職に従い、僧として踏ん張った… その姿が凛々としてイイな〜というワケなのだった。
おハナシとして、これは1つ抜きん出ているとも感じる。
むろん、嘘話だ(ろう)。でも、その元となった茶釜が現存して宝物となってるトコロが、好もしいじゃないですか。



要は、大規模茶会をこのタヌキは助け、寺の興隆の支えとなったワケだ。
良いタヌキと云わざるを得ない。
でしょ?
察するに、このタヌキめをそこまでにしたのは、伊香保の山中で出逢った大林正通なる禅僧が実に良き人物であったからだろう。
たぶん、その出会いまではタヌキは狐狸としてケッコ〜な悪さをやっていたに違いない。険しい山道で喉を渇かした旅の人に親切を装ってウマのオシッコなんぞを呑ませてはクスクス笑ったりもしていたに違いない。
それが大林との出会いで180度変わった…。物語ではこの出会いで「意気投合」とただの4文字で片付けているけど、ホントはここはポイントだ。
おそらくタヌキは僧がやって来たから、僧に化けてみたに違いなく、そこでの対話で彼に激震が起きた… と読み解く。


後年、茶の湯大好きな徳川家光は、茂林寺に朱印(寺の印鑑みたいなもの)を贈っている。
彼自筆の印を寺で用いよと申し出たか、あるいは、スタンプされた朱印一枚に高額を差し出したかは不明だけど、江戸期の茶道に目鼻をつけた家光をして、何か… このタヌキ話には感じるところが大であったんだろう、とも思う。



現在の同寺は、参道にかなりの数(22体だそうな)のタヌキ像が配され、分福茶釜発祥を示しみせてはいるが、同寺ホームページを見る限りではコトさらにこの伝承談をヨイショしていなくって、また妙なグッズを販売しようとは目論んでいないようで、なかなか慎ましくって良い。
いかんせん… 館林市にボクは出向いたことがないんで現在の寺の実態は知らない。けども、ま〜、行かずとも、タヌキまでが賛助した伝承の中の、"茶会の大事"はしのばれる。
千人もの僧侶が集うけど、サウンドとしては茶釜の湯沸きするシュンシュンシュンと、庭木のほのかな風での松籟のみが聞こえ、実に静かな気配。
ボクの「分福茶釜」は、だからまったく物静かなハナシなワケで、
「あっちちちィ」
と、大騒ぎの化けダヌキ騒動で、ない。



昭和20年刊行の富士屋書店の絵本、この表紙絵はイイ味わい。ただ、分福でなく文福となってるトコロは注意が必要。ここでは既に、福を分かち合うの意味が喪失しているワケだ。


結局オリジナルでは、タヌキが釜に変じるワケでなく、タヌキが変じた老僧守鶴と同一な"属性"ある茶釜が出て来るという次第で、いわば釜とタヌキ、2艘の舟として描かれているのが面白いのだ。
ただ…、150年近く僧としてはげんだタヌキが寺を出てくのは、いささか気の毒ではなかろうか。一方で湯が減らない茶釜は後も重宝されるんだから… エコヒイキというかバランスの悪さを感じないわけでもない。
その時、なぜ、
「行かれるな。たとえ本性がタヌキであろうと… そのまま留まられよ」
と、999人の僧は声をあげなかったのか… いぶかしむ。


けどまた一方、曹洞宗禅宗だから、
仏道成就一切衆生
の"衆生"を"人間"と狭義に解すれば、「出て行くもまた自己の責任」…、彼を人として認め、黙してあえて送ったとも思うと、解釈を二分せざるをえない。
総じて禅宗の目指すところは、個々人の中の仏性の自覚という1点だろうから、寺を出る出ないは、他僧が口出すことでなく、あくまで本人が決めるコト、という結論になる。
だからたぶん、この物語のスゴミとダイゴミは、その999人の僧がどう最終的に行動したか、しなかったかが、ハナシの核心のような気がしてしかたない。
禅の深層真理をば、湾曲に語ったハナシと… とれないこともない。


そう踏まえて、もう1つ、このハナシを外伝的に脚色すると、茂林寺を出た後の守鶴タヌキは、けっして野性に還るワケでなく、その後もまた仏教徒として生きようと務め、孤独に耐えつつ、己のが心の中の仏と対話すべく山野で禅に耽ったような気がするが、どうだろう?
『シェーン』で、深手を負いつつ、不法な牧畜業者のライカー達をやっつけた彼が、
「シェ〜〜ン、カミ〜〜ンバ〜ック」
の、熱望の声を背後に聞きつつも良き農家の方々と別れて村を去っていったのとは… これはかなり違う。
シェーンの前途には善行あったとはいえアウトローとしての孤独死があるきりだけども、タヌキには、孤独を越えた先の光明があるように、思える。
それを"悟りの境地"と云っちゃ〜身もフタもないけど、出ていくことでタヌキは1つ上のクラスの何かに変化(へんげ)したような気がしないではない。
深山にて、座禅をといたのち、密やかに自分用の小さな茶釜を用立て、1人、野点(のだて)する姿を思ったりもすると、愛おしさも増す。
ただこの時のお釜は、分福茶釜のようなものでなく、どこぞで拾った、ごくノーマルで傷だらけな安物だったと思う方がいい。
いっそう、美しげな孤高感が増量する。
茶の湯の不思議は、その滋味追求にあるのではなく、その行為追求にあるワケで、宇治の抹茶を彼が持っているようには思えない。
守鶴タヌキはそこいらの茶葉に似通うもので代用、いわゆる茶外茶で野点てたに違いない。ま〜、煎茶に近くて野点というホドじゃないだろうけど、ただ少なくとも除虫菊や大麻草は使うまい。