いっぷく

お彼岸。坊さん来たりて仏前へ。
来なくていいとはツユっとも思わないが、先月のお盆法要とは間隔が狭いからね〜。
事前にハガキにて到来予告はあるし、だから、断っていい余地もあるけれど、そうも出来ない性質を帯びてるワケで。
仏教に興味を持ってる方じゃあるけども、車検制度同様な慣習化は、なにやらシステマチックな集金システムに組み入れられているような気がしないでもない。
けどまた、そうでもしなきゃ〜、亡き親族を偲ぶ集いというのも年数が経つと希薄になって…、なかなか悩ましい。



ちなみに、2年にいっぺん高額費用がかかる車検制度は、他国じゃどうかと云うと、あらま…、あまりの違いにここに書くのもイヤになる。
車検という制度がない国の方が多くって、ドイツに至っては車検はあれども費用は1万とちょっとで、その場で検査完了。30年乗り続けて変な改造なんかしていない車に関しては、「工業文化遺産」を所持しているとされ税が軽減されたりもする。
日本は高額な上に罰則ありの強制だから、ね〜〜。
ある意味、”良く出来た徴収システム”の典型だけど、システムというよりカラクリだな、これは日本独自な。
このお手本となったのは、お江戸時代に確立された寺と檀家というカタチ上での上納的取り立て縛りの制度だったかも、と邪推する。本題じゃないんで書かないけど。
読経終えて茶をすすり、ちょいと世間話して、お坊さん袈裟をゆすらせ次の檀家さん宅に、GO〜〜。



さてと近頃、コーヒー食滞気味。
朝イチの2杯くらいは良いとして白昼何杯もオカワリする気がしなくなった。
米国映画に見られる艦船の士官みたいに、たえず身辺にマグカップを置き、時に部屋から部屋へ移動したり庭に持って出たりもしたけど、飽きというか停滞というか、なんだか飲み続ける気が失せた。
それで夕刻前あたりからは煎茶を、呑むようになった。
もちろん、そのへんのスーパーで売ってるやつだよ。



茶器に凝ったりも、しない。
湯呑はあえてダイソーの100円とセリアの100円だ。
ま〜、それで「いさぎ」を自己演出というワケでもあるけど…、なんで2つかといえば、手持ちの急須が2杯採れる分量なので、湯呑〜みフタツなんだ。
1杯は熱いのを、も1つはやや冷めちゃったのを。
で、二番煎じ作って、またフタツ
トータル4杯呑んだら急須を洗い、あとはアルコール・アワー。


茶は変化が大きいのがイイね。
すぐに渋くなっちまうのが欠点でなく利点に思えだした。
茶の湯的なおすましは今のところ不要。ガボガボ呑んじゃう日常な茶。



聞いたハナシだと、急須のない家庭がこの頃はかなりあるそうな。若いカップルとかだろね。
茶はペットボトルという次第が定着しちまってるんだろね。
良くは…、ないな。
炭酸飲料じゃないんだから、ペットボトルのはあくまで代用でしょう…。
それでナルホドと思ったのは、茶筒を売ってないんだよ、この頃。
むろん専門店にいきゃナンボでもあるけど、ちょいっとした大型なショッピングセンターでも、ひどく品数が少ない。あっても変に民芸っぽいデザインのものだったり、おせっかいにもTEAの三文字ロゴをでっかく入れたのとか、デザイン面においてもハリとツヤがないの。チカラが入ってないんだね商品としては。
100円ショップのダイソーにはないし、セリアでは僅か1種だったよ。
それっくらい需要が今はないのだね。



でも一方でスーパーじゃ各種の茶葉が並んで、それはけっこう賑やかじゃね。
皆さん、買った袋のまま使ってるんだろうか? それともかつて誰かから贈られたりした静岡の天竜茶とか京都利休園の高そうな茶が入ってた筒を流用して、安い茶葉をキモチ高そうに見せる努力をば、なさってるんかしら。
ま〜、よそさまはどうでもよろしい。流用大いに結構だ。



1つ面白いのは、そうやって煎茶を呑むようになってからね…、なにやら夕刻の4時頃が待ち遠しくなったことだよ。
茶葉の分量のサジ加減を密かに愉しんで(すなわち悩んで)たりもする。
変ですねっ。
たかがお茶、されどお茶。茶の時間が自分の中に生まれたのが嬉しいような…。
幼年期の終わり」をもじっちぇば「老年期のはじまり」という変化の時なのかもしれないっチャ。