仲間内で、ジュール・ヴェルヌと2月8日の話題がのぼった時、ボクはそこに何も意味を探せなかったのだけど、1人が指摘してくれたのでスグ氷解した。
誕生日だ。
ヴェルヌは1828年の2月に生まれたから、もし、今も生きてりゃ183歳。年金もしっかり受け取ってるだろうね。
この国では歴史を、"世界史"、"日本史"、として分けて学ぶから、だから、人物を知覚する時に、「あれれ?」てなコトも起きる。
幕末の日本の舵をとった勝海舟と、ヴェルヌは同時代の人だ。
勝さんは、1823年の3月生まれ。ヴェルヌとは5歳しか違わない。
「あれれ」な感じがとても、濃いでしょ。
少し照らし合わせてみようか…。
勝さんが咸臨丸で米国に出向くのが万延元年。1860年。
勝さんが船酔いに苛まれていた時(インフルエンザにかかったとの説もあり)、ヴェルヌさんは「アルデンヌの宿屋」という脚本を書いてパリのリリック座で上演してた。
シェークスピアをこよなく愛したヴェルヌさんはこの頃は芝居の脚本家としての自立を目指してた。芝居とその環境を大好きなヴェルヌさんはだからほぼ確実に毎夜、自分の芝居がかかるリリック座の楽屋に詰めて、眼を炯々とさせて女優たちの動きを眺めては頬を緩めたり硬直させたりして、後に自分が『SFの父』と呼ばれるコトなど想像もしちゃいないのだった…。
当然ながら、咸臨丸上の勝さんも、自分がよもや"江戸時代にとどめを刺す最重要人物"になろうとは、この時にゃ思ってもいない。
1863年。
勝さんは京都にて3人の暗殺者に取り囲まれるが、坂本龍馬さんの計らいで護衛についていた岡田の以蔵さんが逆に暗殺者の1人を殺害。残り2人はあわてて逃走。一難を逃れる。
この事件直後、以蔵さんの鬼気を見て、「人殺しをたしなんじゃダメだよ」と勝さんがぼやくと、
「でも、そうせなんだら今頃は、先生の首は胴につながってませなんだ」
と返されて、二の句がつけなかったというエピソードがある。
一方その頃。パリではヴェルヌさん著作の「気球に乗って5週間」が刊行されていて、これがパリっ子の話題をさらう大ベストセラーになっていた。
カフェに座れば、テーブルのあちゃらやこちゃらで、
「あれ、読んだ〜?」
「ウイウイ〜、あたぼ〜よ〜」
てなアンバイな話題独占の小説なのだった。
だから、右手に握り拳をつくってガッツポーズ。「やった〜!」てな心境であったろうヴェルヌさんだ。事実、彼は父親宛への手紙やお友達に、
「ボクはまったく斬新な形式の小説を書いたぞ〜!」
と嬉々悠々とした気分を伝えてた。
その5年後。
勝さんは徳川家からの全権を委任され、江戸城の無血開城の場にいる。
胃がデングリ返るような思いの毎日であったろう。
いや…。デングリ返るようではこの大役は務まらない。たぶん、実際、その時の幕僚たちは総じて強度のストレスに押しつぶされていたろうと考察する。そんな中で勝さんは踏ん張った。戦争と平和の狭間、平和の側に足を据えて踏ん張った。
ヴェルヌさんはといえば、この頃はもうパリはおろかロンドンでも名を知らない人はいない人気作家になっていて、ヨット「サン・ミッシェル1世号」を購入。この船上に設けた"書斎"で「海底二万里」を書いているさなかだった。
漁船を改造したヨットで、操縦は船の購入と共に雇った2人の水夫が行う。
盛大に釣もしたという。勝さんが苦渋と苦悶に悶えつつも和平路線で行くしかないと腹をくくって諸々な交渉を行っている頃、ヴェルヌさんは釣り上げたサンマを塩焼きにしてワインと共に口にして、「マイウ〜〜♪」てな歓喜に浸ってた(やや誇張あり)。
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このヴェルヌさんの著作の一つが日本に上陸したのは、1878年。明治11年のことだそうだ。
「新説八十日間世界一周」仏人ジェル・ヴェルヌ氏原著・川島忠之助訳書。
当然に、勝海舟は存命だ。
その頃の勝さんは明治政府の要人でありつつも、徳川慶喜とその"家"を守るべく奔走してた。慶喜からは既に久しく相当に嫌われていながら、かつ倒幕の動力源であり現政府の要人たち薩長の連中にも、「それだけはやめてよ〜」と嫌われつつも、慶喜とその家・徳川家を守り通した。
年齢でいえば、勝さん55歳。ヴェルヌさん50歳。
勝さんがその本を読んだかどうかは判らないけれど、翻訳本が出たコトで二者の距離は、点から線になったような感触を持つ。
思えばズイブンと早い翻訳じゃないか。
ヴェルヌさんの著作は続々入り、明治期では通算して13もの翻訳本が出ているそうだから、これもスゴイじゃないの。
詳しく調べると、英語で記された、すなわち、英国で出版されたものが日本に入ってきて、それゆえ本によっては作家は"英国人"と記されたりもしているらしいのだけども… ともあれ、勝さん存命の明治の人もヴェルヌを楽しんだというコトはマチガイもない事実なのだから… 面白いじゃないか。
明治16年。1884年には「月世界一周」も出てる。
明治の人にとって、この本はまさに「文明開化の鐘の音が」聞こえるような感じではなかったか…。
もちろん、本を読んだ明治の人は、そのわずか84年後に、ヴェルヌが描いた砲弾ロケットの発射場とほぼ同じ場所から月に向けてホンマに人が飛び立とうとは夢にも思わなかったろうけれど。
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※ 動画は1/116スケールのペーパーモデル。アポロ8号とモバイルランチャー(発射塔)です。
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