このまえ、静岡の浜岡原子力発電所の運転を管首相は停めさせましたね。
もしも今もって自民党が政権を担っていたら、これは出来ないコトだったろうし、な〜んだかんだと批判の矢面に立たされてはいるけど、今、民主党が政権を担っているコトが、この件に関しては幸いだったと感じますな。
あんのじょう、今回の震災でメルトダウンしていたワケですからね。
それも極めて早い時期に。
これ、たぶん、当初から判ってたんじゃないかしらと強く訝しんでます。
米国が80Km圏内での避難を早々と促しましたけど、たぶんに米国やフランスは最悪を既にその時点で想定したんでしょう。
事実、かの80Kmが持ち出されたと時期同じくして、この岡山においてさえ、来岡中のフランスからの演劇チーム(フランスの公費で来てたんです)が本国からの指示で急遽に日本を離れてます。
過剰の反応だという見解もありましょうが、むしろ、自国民、それも国費で派遣した人材を手厚く守ったと、これは見るべきでしょう。
ところが我が国ときたら、な〜んだか、良いように良いように、それほどじゃないダイジョウブ… みたいな一見は安堵を誘う方向でもってアナウンスを繰り返すばかりで、いわば、その時その時における不満や不安のガスを抜くコトにのみ終始してますね。
ある意味で、今回のフクシマはチェルノブイリを上廻る程にヒドイ状況であるよう思えますけど、そうやって不安の昂ぶるガスが抜かれつつある時期に発表されるもんだから… 実に… いやらしいですな。
怒りやら憤りの電圧が上がらないよう… 実にいやらしくコントロールしてるような感じ。
哀しいかな、日本のマスコミも、その流れに結果として荷担していて… もはや、何事かを納得させてくれる存在ではないですね。
…………
ともあれ、今回の震災で、日本が地震大国だというコトをボクらは再認識したワケで、それに伴う原子力発電所の脆さと危なっかしさを目の当たりにしたんだから、首相の采配はまちがっていないでしょう。
むしろ、もっと、積極的に大胆に、
「脱原発に舵をきります」
と云えばよろしかろうに… そこまでの決意をなさっていないようなのが、ボクには不満ですけどね。
自民党時代にエネルギー政策の柱として、2030年までにさらに14基以上の原発を増設するというコトになってたらしいし、そうすると、今すでに54基もあるから、あわせると70基に近い数の原発がズラ〜リと海辺に並んじゃうことになります。不安定極まりない活断層直下にあって、いざ実際に被災しちゃうと避難したり代替えの家を建てるスペースもない… この国にですよ。
広大な土地を持った米国でさえ、あるのは100基ちょっとなんだから… これはもう異様じゃないですか。
なんでそこまで電気を必要とするのか? という問いが当然に出てきますがな。
雪ダルマを転がし続けるみたいな今の経済という活動を、これを契機に見直ししないといかんのじゃないかと愚考しますね。
経済大国、だなんていうアホらしい幻想はもう止した方がいい。
いや、ホントはね、80年代に他国から「エコノミック・アニマル」と揶揄され嘲笑された頃に、自身の姿カタチをもっと真摯に見詰めなきゃいけなかったような… 気がしますが、いかんせん… もう、そんな嘲笑も揶揄も忘れてますわな。
例としてあげるのは気の毒ですけど、例えば、コンビニのヤマザキは、1ヶ月に10数種のパンの"新製品"を出すそうです。
1年じゃないですよ、1ヶ月にです。
これはやはり… おかしいでしょ?!
そこまでしなきゃ… 生活が出来ないと飢餓している、この心理というか、形態はやはり変えた方がいいと思います。
そこまでしてお金を稼がなきゃいけないカタチそのものを見直さないと、きっと、ダメだと思いますのですが… なんか、今の民主党より自民党にまた政権を担って欲しいと思ってる人の方が多くなってるようなので… ボクはまたぞろ少数派の夢想家みたいな立場になるんですけどね。
…………
原発がらみじゃないけど、今回はノーチラス号のエネルギーについて書きましょう。
ボクが子供の頃に読んだヴェルヌは、当然に完訳ではなくって、ジュヴナイル的に… 翻訳者が大幅に縮めたり解釈を変えたりしての小説だったように思えます。
なので、ノーチラス号の動力は"海水"でした。
海水を取り込み、その中の有効な成分を分離吸収するような装置をネモが発明したという感じで、まるで永久機関です。
なので、子供の頃には「すげ〜」と思いましたぞ。
その後に、小沢さとるの著作の中に"ノーチラス号は原子力発電を予言していた"との記述があるのをみて、
「おんや〜?」
と首を傾げたもんです。
ヴェルヌの小説の実際はどうか?
ズバリ申せば、ナトリウム電池による電動船です。
そうハッキリ書かれてますもんね。
正しく云えば『ナトリウム・硫黄電池』なのでしょう。
ヴェルヌの時代には鉛蓄電池が既にありました。
ナマリ・チクデンチ。
今も自動車に使われる、あの箱形のいわゆるバッテリーですな。
その鉛蓄電池に優る発明品として当時出てきたのが、ナトリウムを主剤とした電池でした。鉛のそれに較べて大きさは1/3くらいなのに出力や持続がはるかに大きい。
そこにヴエルヌは注目しましたね。
原料としてのナトリウムは海水に溶けてますから、これを分離するワケですな。
ヴェルヌのリアリティーの醸し方は巧みです。
ネモがはじめてアロナクス教授に船内の発電装置を見せたさい、
「ナトリウムを取りだすために、生産量を上まわるナトリウムを消費することにならないか?」
と、アロナクスに問わせます。対してのネモの答えは、
「ナトリウムの生成には石炭の熱を使うのですよ。海底の石炭を」
「海底の炭坑を採掘できるんですか?」
「それは今度お見せしましょう」
と、大いなるウソ話ながら、さも有りなんな感じをうまく紡いでます。
なので、ノーチラス号は確かに海水に徹底的に依存しますが、けっして、船体のみで完結するものではないんですね。
燃料源の補給、その製造としては、エッサホイサと海底の炭坑を掘っちゃ石炭を取り、これを燃して熱エネルギーを作って、それでもってナトリウムを作るという、意外や、手間がかかってるワケです…。
生成されたナトリウムに水銀を混ぜて合金状にして電池を作るのだと、けっこう細かくヴェルヌは説明しています。
そのあたりの詳細をジュヴナイル版では省かれて、『海水を原料とする』の一語で要約されてしまってたんで… いたいけな美貌だった少年のボクは、その夢のような未来的発明の感覚に酔わされていたんですな。
でも、実態としてのヴェルヌの構想のカタチは、乾電池なワケです。
ナトリウム電池がどれくらいに日持ちするものなのか、1回の充電でどれだけの期間、船を維持できるのか… そういうコトはあんまり描かれてません。
ヴェルヌの興味の主体は、当時、まったく新規なものであった"電気"というものの可能性でした。いわば巨大な乾電池をヴェルヌは念頭に置いてたワケで、原子力潜水艦を予見したワケではないんですな。
ただ、海水に依存するという点においては、現実に建造された初の原子力潜水艦ノーチラスがそれを実現させてますね。
いわゆる電気分解でもって海水から酸素を取り出すのですな。
なので、この1954年に就航した潜水艦は浮上して空気を取り入れる手間から解放されました。
ヴェルヌはそこまで予見していなかったんで、ネモのノーチラス号には空気貯蔵室があり、フレッシュな空気摂取のために定期的に浮上もします…。
…………
今回の掲載写真たちは、機関部です。
検討用として作ってるんで、これが最終の模型のカタチではありませんが、カタチとしてスクリューのみが良いか、スクリューの外周にちょいと古風なガード(整流器)を設けるか… あるいは、その後方にある舵の在り方について… 悩む所です。
ヴェルヌは、このあたりの造形についてはやや簡単に書いてるんで、ちょっと想像を膨らませなきゃいけないワケです。
作った直後は、「イイじゃんか〜!」な面持ちなんだけど、数日寝かせておくと、またチョット感想が変わるんですよ。
要めはスクリューそのものの大きさかしら?
小説上のノーチラス号はすごくパワフルなんで、その強靱さを表すスクリューの大きさは、けっこう難問なのですな。