神秘の島 ~ネモの描き方~

海底二万里』と、ネモの晩年が描かれる『神秘の島』。
どちらがよりたくさん映画化されたかというと、後者の方。
ドラマに仕立てやすいからだろうし、そも『海底二万里』はディズニーの名作があって、これを越えるにはJ・メイソン級のカリスマ的卓越の役者や、かのノウチラス号より素敵と思える秀逸デザインを打ち出さなきゃいけないし…、気づくと1つの規範みたいに立ちはだかる。常に比較されもする。
その点で『神秘の島』は島1つが舞台で狭い艦内というワケではないから脚色しやすいし、膨らませ方次第でパンにでもケーキにでも転用出来る。
なので、『SF巨大生物の島』みたいな1時間半の映画も作れるし、『ミステリアス・アイランド』みたいなTV用の連続シリーズも組み立てられる。若年向きな『センター・オブ・ジ・アース2 神秘の島』のようなバラエティっぽいのも造れちゃう。



でも、どの作品も皆な、ネモに不幸をあたえているのはどういうワケか?
神秘の島』を原作とした長編TVシリーズは、ネモをパトリック・スチュアートが演じた『ミステリアス・アイランド』と、カナダと米国のタスマンフイルム&テレビジョン共同製作でNHKだかで放映された30分全43話の『ミステリアス アイランド』があるけど、いずれもネモはヤッカイな人物のうえ、何やら悪役に近似の位置で描かれているようでもあって、描かれ方もステロタイプにして平坦、魅力的とはいいがたい。しかも、最後は悲壮…、およそ合点がいかない。
ディズニー版とても、メイソン演じる彼は撃たれて致命傷を負い、さらに大渦巻きの中に沈むノウチラス号を描いて、結末は苦い。
まるでもう、社会に順応しない奴の末路はこうなるんだ的な物語りの閉じよう。ただの1作品も、ネモを好意的に描かないから、不満がくすぶる。



なるほどたしかに、ネモはメンド〜な人物に違いない。
気難しく、いっさい自己流で偏執のさいたるカタチを取り続けるし、"国家からの独立"を主張する反社会的存在、アウトローである。
けどもそれらはあくまでも体制側大勢な立ち位置からの視点なのであって、作者のヴェルヌはそこに軸足を置いていない。むしろネモの傍らに寄り添っているのじゃなかったか。
あえて孤独の渦中に身を投じ、それゆえ苦悩が次第に嵩むネモに"人間"をみている、のではなかったか。
ネモが文化の破壊者でないのは原作を通読すればすぐ判る。
2万冊を越える蔵書、数多の絵画、数多の楽譜…、「人類が作り得た良品」の数々をノウチラス号にアーカイブし、大事にする。
人に嫌悪しつつ人を愛する、その自己矛盾を抱えたままに、原作の『神秘の島』でのまことに静かなネモの臨終は、ヴェルヌのネモへの愛情と憧憬が交ざっているようでもある。
その消息が…、どの映画でも描かれない。
常に対立する人として描かれ、ま〜、そこは了解出来るとしても、彼は主人公らにとってのヤッカイな巨壁、ときにマッド・サイエンス、ときにテロリストのごとき有り様で、往々にわざわいの元凶と描かれるに終始する。その挙げ句として彼の破滅が結尾に置かれる。
これは、歯がゆい。
そうじゃないだろうと…。


ヴェルヌが描いたネモは、皮肉の嘲笑はたえず自身にも向かい、他者を嘲るほどに彼は自傷に苦しむのではなかったか。その孤独なエゴイズムがエゴイストとしての自身を造型し、ついにその繭から手足を抜け出せなくなったと思われた刹那、彼は、
「もう充分だ…」
と、荒れ狂う波頭にノウチラス号を委ねるままに兇猛な苦痛をついに吐露したのではなかったか…。
ヴェルヌの描きたかった核たる部分、人としてどう生きるかをネモという人物に託し見せたそこを、いまだ映画は表現していない。



シェーン・コネリーのほぼ最後の主演作となった『リーグ・オブ・レジェント』ではネモとノウチラスが重要な役として出てくるけれど、ここでのネモはなるほど原作通りに彼をインド人に設定したものの、カースト的悪しき身分制度の頂点に君臨するただの戦闘潜水艦(しかも原子力船)の艦長でしかなく魅力に乏しい。乏しいというよりも…、"使い方"をまちがっている。
目くじら立てるような作品ではないけれど、キャラクターの本来の芯を抜きとって、ただの名義使用じゃいけない。



マイケル・ケインがネモを演じた『海底二万里 ディープ・シー20000』は、原作を大きく脚色して別種の色合いも混ぜこぜているけれど、意外や脚本に1本スジが入って、数多あるノウチラス号ものの中ではやや上位に置いてもいいようなところがある。
ケインはこの作品でもまた強烈に好演。でもノウチラス号デザインはダメだ…。
この作品ではネモの父性を最大のテーマにする。
従来なかった企てゆえ、これは評価する。
でも…、これとて、その最後を暗く閉じる。


※ マイケル・ケインのネモ

※ 同映画でのノウチラス船内


偏屈で卑小な海洋学者の父親に徹底して嫌われた、不幸な、けれどやはり海洋学者として生きようとする若き主人公がノウチラス号に救われ、船内でのネモとの確執と反撥の末に片腕を潰されもするが、血縁でもないネモに大きな父性を見いだすという顛末は…、かなり面白い結末が紡げるはずなのに、なぜか…、破滅でドラマを閉じてしまう。ネモも主人公もがノウチラス号ともども炎に包まれる。
「ぅうう… 救われね〜〜」
と、なので、期待が沈んでガックリ呻いてしまう。



※ ジョン・パーチ演じるネモ


1995年の30分全43話の『ミステリアス・アイランド』でネモを演じたのはジョン・バーチだけど、彼は上記の、1997年の『海底二万里 ディープシー20000』では若き教授のその父親を憎々しげに好演していらっしゃる。
連続でヴェルヌものに出た俳優は、たぶん彼だけだろう…。
海底二万里 ディープシー20000』では、なぜに我が息子をそのようにサディズムのターゲットとしているか…、はは〜ん、なるほど、再婚相手の若いレディが我が息子の方へホントは興味を濃く抱いてるという描写が添えられているから、先に書いた父性をテーマとするにこれは逆説な意味でも合致して、なかなかホントは面白い。



※ ジョン・パーチ演じるアロナックス(父)教授


バーチはアクの強い個性があるから、良い脚本があれば、それを活かす監督に技量さえあれば、実によさげなネモになったかもしれないと思うと、メチャに惜しい。
彼が気の毒になるくらい…、キャラクターとしてのネモの造型が際立ってよろしくないのが、この『ミステリアス・アイランド』。ジョン・バーチという良い役者をいかせず、全編を通し観る価値もない…、というレベル。ただもうグッタリの凡作。



※ 原作『神秘の島


という次第で、ボクは、ある種のハッピーな終わり方のネモの物語を観てみたい。
いやハッピーでキャッホ〜♪、でなくていい。
ネモは常に全てにおいて悩む人じゃ〜あるけれど、少なくとも原作者ヴェルヌはネモのその晩年に善なる人を見いだしているのは顕かだし、ネモに寄り添っている。
そのあたりの"人間"としてのネモを描いて欲しいな、映画でも。
いや、映画だからこそ、ネモの眼を通したネモの主観を味わいたいんだな。そうすると当然に短絡なゼンダマ人間なんて描けるワケもなかろうし、より複雑味をおびたネモの輪郭をトレースすることになろうけど、今のところ、彼を描ける監督は少ないだろう。
古典を現在と結べる人はそういない…。
ごく個人的感想では、オール欧米の俳優で、大道具小道具の類から特撮部門に至るもすべて欧米スタッフ。その上で監督は原田眞人を推薦したいけど、ネ。
イーストウッドが『硫黄島からの手紙』で、E・ズウィックが『ラスト・サムライ』で日本人を描けたように、原田なら…、ネモを描けるような気がしないではない。
あるいは、『エリザベス』と『エリザベス ゴールデン・エイジ』のシェカール・カブールだな。ネモと同じインド出身というのは偶然だけど、『リーグ・オブ・レジェント』のようなマチガッたネモ像を、彼は造ったりはしないと期待する。



もう1人、監督候補にしたいのは石井聡互かな…。
今は石井岳龍と名を変えてるようだけど、彼の『GOJOE 五条霊戦記』を観るに、真摯さに驚くばかり。ボクはこの作品を、ボクが観た範疇でのベスト20位の中にいれている。
時代考証のうまさ(平安時代の装束がキチンと描かれていて素晴らしい)、話の巧み、色の使い方、リアリティとファンタジュームの合わせ方、観るたびに新発見のある映画はそう有るもんじゃない…、ので、それで彼も候補。