庭と茶室 ~重森三玲記念館~

重森三玲が産まれ育った吉備中央町に、彼の庭園と茶室がある。
見学に出向く。


あえて最初に苦言を申せば、吉備中央町のオフィシャル・ホームページはよろしくない。
重森三玲記念館」で独立したページを設け、一見判りやすいが、実はこれがトラップだ。
そこに記載の緒施設は、1つ場所にない。
出向く直前に気づいて、
「あっれ〜〜」
眼を丸くした。



たとえばホームページ・トップの写真「夕琳の庭」は、これは吉備中央町役場にあり、重森三玲記念館とは10Kmばかり、離れているのだった。
ホームページ上では1カ所に全てがある、としか読みとれない。

一家に遊女も寝たり萩と月


ではなく、萩なるはヒトツヤにいないんだから、さてさて、もっと丹念に"情報"を発信して欲しいと願わずにはいられない。
三玲が生まれ、諸々を残してくれているんだもん…、もっと堀り込んで、
「えっ、これが行政のホームページにゃの?」
ビックリするほどの飛びっぷりを発揮してくれなきゃ〜、イケマセン。
町(加賀郡)にとって資産だよ…、もったいない。


明治に生まれ、昭和の前半に躍動した重森三玲は33歳で「いけばな宣言」を出し、やがて独学で日本庭園を研究しはじめる。
停滞しきった日本庭園のカタチを再呼吸させ、やがて自ら多数を造園する。
『日本庭園』などとボクらは4文字で書いて一括りにしてしまいがちだけど、一括りで語れない歴史がそこにはうずくまる。
平安期と室町期では庭はまったく違うカタチをみせる。三玲はそれを丹念に分類整理し、かつ新たな息吹をふきこんだ。



彼をおぼろに意識したのは、シャープのCM、吉永小百合の背景として京都の「重森三玲庭園美術館」が使われていた頃だから、も〜、だいぶんと前になる。
その頃のシャープは、文字通り、尖ったところのある企業だった…。


こたび訪ねたのは、岡山は吉備中央町の「重森三玲記念館」など。
公民館をかねたそこには資料を収集した舘と「天籟庵」がある。
「天籟庵」は三玲が19歳の時に設計し自宅に設けた茶室。
籟(ライ)とは風がものにあたって発する音だから、天の音が聞こえる茶室ということになる。
ひょっとすると三玲は、この作品を"解説するため"に生涯に渡って作庭をし続けたのかも知れない。
庵の手前には晩年になって露地として造った庭。
今や重要文化財の指定を受け、写真撮影禁止とものものしい。



写真で見ていた限り露地は平坦な感だったけど、実際は、凪いだ海面のように、一面うねるように大小の起伏がある。
処女作の茶室と晩年作の庭の響宴。
最初と終わり、1人のアーチストのカタチが円として閉じてくような様相を感じてしばし息をのむのじゃあるけれど、庭南面の腰掛待合の背後にでっかい電信柱と無数のライン。



※ 垣の向こうが庵(左)と庭。右手の電柱と伸びたラインがすべてを壊している…。


これは庵が移築された後に出来たものらしいけど、行政と電力会社とNTTの無粋が極まる。
せっかくを台無しにしている。というよりメチャだろう。
寄り添うようにして解説してくださった同館の学芸員さんにそのむね告げると、
「でしょう…」
苦笑ってたが、ボクとしては、
「笑ってる場合か…」
じゃ〜あった。
借景となる山も遠く広がる田舎の光景。狭少な場所じゃない。埋設させることは容易なはず。この無粋に今の日本の悪しき本質が横たわってる。



さてと、「友琳の庭」。
これは「重森三玲記念館」にはない。
10Kmほど離れた、吉備中央町役場にある。
昭和44年に京都に造られ、後、この役場に移設されたもの。
近代日本庭園の傑作、という。



いまだボクは…、正直な感想をいえば、重森三玲の良さが判っていない。
かねてよりコンクリートやセメント造りに拒絶がおきる方なので、傑作です、と云われてもそのまま呑み込めない。
なので、はじめて役場の中庭(それが夕琳の庭)に接して、けっこ〜揺れた。


自分の中で既成化され固まっている茶室や庭園のカタチに、融通のない保守をおぼえさせられた。
この浅い水のある庭を、例えば自宅に持ってきても、ボクは愛でるかしら? そういう声がお臍のあたりから湧いてでた。
でも同時にまた、茶ー茶室ー庭、3つ揃いの意図的限定空間を最上に意識しての心の置き方を研ぐなら、むろん役場なのでお茶はないにしろ…、これこそが現代のそれなのか…、とも思わなくはない。



ま〜、さほどそれほど、アチャコチャの庵にも庭にも接したことがないんで、迷妄がうずいてグラつくのはあたりまえなのだけど、そんな気分を味わうということは、利休や宗二たちが"運動"した革新精神が三玲作品にはみなぎっている…、というコトにもなるんだろう。
燃焼と昇華、そして加速の度合いが三玲は、デッカイ。


例えばかつて…、利休の茶室を夜明けと同時に秀吉が訪ねるというコトがあったさい、利休は庭のアサガオの花を全部刈った。
秀吉は早朝の花の華やぎと勢いの中での茶湯を求めに利休を訪ねたというに、アサガオがない。
しかし茶室に案内された秀吉は、竹筒にさされたアサガオのただの一輪を見て、
「あっ」
と、息をのまされる。


三玲の作庭は、そこだ。
奇をてらうものではなく、セメントという素材が新規だったのでもない。核となるものをどう抽象し極めるかに、かかってる…。
だから余計に判らないとも云える。
デザインをするというコトと、事物を抽象化しようとするコトの2つの点がここで溶融しているとは判るような気もするけど…、その真髄をボクのような入門者にはまだ解けない。


本質は、「幽玄」なのだろう。
暗くて、かすかで、静かな…、とかな今風な"幽玄"ではなく、14世紀の南北朝時代にまで遡っての「幽玄」。
世阿弥は、

「幽玄の風體(ふうてい)の事 諸道諸事に於いて幽玄なるをもて上果とせり」

と云った。



"優雅な美こそが最上"
とでも訳したらいいのかしら? そこを三玲は三玲の感性ではこうだと、極める作業をおこなったと思える。
世阿弥のそれは具象から抽象へと進化すべきな方向を示唆しつつアレコレを含有して単純でなく容易でもないけども、たぶん、三玲はそこの深い部分で共振をおこしてらっしゃる。
能の舞台装置、茶の湯、花…、それら要素中の時空を越える消息に共振してらっしゃる。
いや、だからこそ、借景を含む空間そのものが作品と思えば、あの電柱とラインは冒涜以外のナニモノでもない、ひどい障害物。


次いでゆえ付け加えるが、役場中央に置かれた「友琳の庭」の、センサーで自動的に再生される解説アナウンスの、そのバックに流れる琴の音は、やめていただきたい。
日本庭園イコールお琴の調べという陳腐な使いようは、正直、辟易なんだ…。
アナウンスは許せても、安易に邦楽を使ってはいけない、それは音楽に対しての冒瀆でもあろう、とそう感じる。
安直なイメージを押しつけないで欲しい。
ほぼマチガイなく、こういう音楽使用を当の三玲は、イチバンに忌避したはず。
むしろ、いっそ、彼の作庭の根幹理論では、たとえば80年代のセックス・ピストルズのような、あるいは、その80年代後半のコミックス「アキラ」を原作とした映画の芸能山城組サウンドのように、ブッ飛びこそが合致するよう、思える。


車を駆けらせ、生家跡にも出向く。
信号がほとんどなく、駆ける車がメチャに少ないのもいいけど、吉備中央町はとにかく広い。
やや判りにくい場所。
我が車にはカーナビというチャーミングな機器を搭載していないんで、同行者が農作業のおばさまに、
「あの〜、スイマセンがぁ〜〜」
と、尋ね、やっと判る。
記念舘に「天籟庵」が移築され、そこには広い屋敷跡と19歳当時造った茶庭が残る。
ちゃんと整備されている…、のだけど案内の掲示がないんで道が判らなかったわけだ。



見るに、なるほど、若く、荒く、シロウトの眼でも傑作とはいいがたい。
が、原点だ…。ビックバンはここから生じた。
2017年の今も、そこは…、な〜〜んにもないド田舎。いったい、どうやって三玲は三玲として自身を跳躍させたろう…。
このビッグバンは無からはじまったワケはない。
その大爆裂の元となったのが、生家に近い吉川八幡宮だったろう。
幽玄が何であるかを、おそらく幼少の三玲は、ここで遊びつつ自然学習したのじゃなかろうか?



10月1日から丸ヒトツキを費やす、古代から今につらなる「当番祭」の神事にも充分馴染んでいたはず。
平安期から今に至る時空のつらなりも大きく意識したろう。空間概念と時空概念を、ここで彼は意識し、独自解釈したよう思える。
ご神木たる巨木にも圧倒を見いだしていたろう。
その木は、三玲の頃よりさらに背丈を伸ばし、1枚の写真に納めきれない。



その上でもって、ただの伝統的延長ではなく、三島が『近代能楽集』で今の能表現としてそれらを書いたと同様、三玲は擬古的でなく、今だからこその活花を考え、茶室を考え、庭を考え続けた。
ったくもう、眩い存在の三玲さん…。
三島由紀夫重森三玲は同時期に同じくして、「美しい日本」を幻視していたと思えるが、美しい、というのは難しい。
『近代能楽集』の一篇「卒塔婆小町」に倣うなら、少なくとも100年の単位でそこを見た方がいい。
100年先にもう1度、吉備中央町に出向いて三玲の庭で、どのような感じを受けるか…。
2人の対談がもし可能であったら、日本文化の有りようを示唆する大きな収穫だったろう、とも密かに惜しむ。



山間を車で移動。
宇甘川の近くの片山邸へ。
三玲とは関係はないけど、昔日の豪商宅。
一見は平屋だけど総2階の構造。
ここはもう何10年も前から見学可能だと…、存在は知ってたけど、通過するのみだった。
食事をとれるとも、思ってもなかった。
はじめて探訪。



とても凝った食事という程じゃ〜ないが、味のしみたアミダイコンやボリュームあるが淡泊に味付けのチキンの揚げ物など、プライス含め素朴の程が、とても良かった。
無愛想じゃ〜ないのだけど、こちらとは距離を置いた同館同店の女性スタッフの対応も、商売っケがないと云えばそれまでだけども、初探訪の印象として悪くはない。
気兼ねなく、ユッタリする。



同屋敷の、江戸時代後期のお風呂。
ユッタリには遠いサイズだけど、お江戸の昔も今も、湯につかって「ホッ」は同じだったろう、な。
蝋燭の灯りの中で淡く揺れる、おじさんの背中をこっそり想像した。
10年前なら女性の背中を思い浮かせたろうけど、あれまっ…、枯れたもんだ。