いちごいちえ

本朝はチョメチョメ雨が降って室内はやや肌寒いっぽいけど…、今年は暑くなるという。
実際、そう感じてる。
5日前、室内で保護観察中だった2本のパッションフルーツを庭に戻してやった。昨年より10日以上早い。
庭のアレもコレもが、はばたくみたいに一気に繁っている。
一見は良さげだけど…、梅雨を過ぎ7月8月に到来の猛暑を思うといささか溜息がこぼれそう。




ま〜、先の心配より今日の晩ゴハンのオカズを想像したりの方が楽しいし、いまだ土中にあるジャガイモが今年はどれっくらい大きくなってるかしらん…、などと期待に胸ふくらませてるのがイイ。最初に掘り出した大きめなヤツは湯がしてバターじゃな…、とか、去年と同じことを思ったりする。



早期到来の暑さのせいかどうか知らないけど、複数のプランターの中、葉がよくおごり、今年はじめて、イチゴを毎日10ケほど収穫出来ていたりもする。
大小不揃い、かつ、ナメクジにかじられたりもして、見た目は悪いがイチゴはイチゴの一期一会。
(ナメクジめはヒト同様に赤く熟すのを待ってやがる。で早朝の4時あたり、ヒトが庭にいない刻限に美味しいところをかじりムシ。米国は銃規制を我が庭にゃナメクジ規制を… と思うままにならないのがシャク)



ともあれ被害を嘆きつつ、もぎたてを良く洗い、焼酎の野菜ジュース割に浮かせて頂戴する。
イチゴの風味が全体に浸透して、意外や実にうまい。『孤独のグルメ』の五郎ちゃん風に云えば、
「ほ〜、こう来るかぁ!」
と眉間のシワを伸ばすアンバイ。
飽きが来ない。

とはいえ、そうそう甘味ばかりではイカンので、チェーサーみたいにビール(発泡酒)で口を洗う。
このメリとハリが、なかなかよろしい。客人にお出しするような代物でないけど自己本位でこれはコレでイイのだ。
飲み干した後、グラスの底に集合してるイチゴ達をグラス傾け一気に口に運ぶのもイイ。甘味でなく酸味あじわえ、三位一体じゃな…、ワケわからんフレーズを浮かべる。



今年はユスラウメの実りが、薄い。
昨年までの枝々に粒々な実がイッパ〜イに、遠い。なのでビジュアルとしても赤みがなくって、よろしくない。
理由は不明ながら、木としての健康な狀態でないことは薄々に確か。数年前に実が崩れる病気になったのを自然治癒に任せっきりにした弊害かとも疑うが…、どうしたもんか、方策が判らない。


青森の三内丸山遺跡をフッと思う。
集落の周りに栗を植え、その収穫でもって独自な食と文化を構築したことが判っているけど、その安定期間が千年以上続いたというから、すごい。
エジプトやマヤのような石の文化を持ち得なかったけど、じゅうぶん過ぎる程の偉業。



千年の繁栄と平和的安定って…、簡単でない。
なので昨今は、どうやって千年も平和平穏を維持できたか、古文明を研究してる海外の先生がたがジャパンの縄文時代にえらく着目してるって…、そりゃ〜そうだ。
無闇に拡大せず、争わず、程々な幸を大きな幸と見て日々を送っての千年… だったよう思える。
けどもその千年も終焉を迎えている。


今は科学の眼で三内丸山を顧みられるから、数百年に及ぶ栗の継続栽培があまりに近親的交配に終始したゆえにの種の劣化が判っている。
それと気候の変動。日本海が暖流から寒流に転じて栗の植生に適さない寒冷がやって来て、この二重の難渋に同所に住んだ縄文時代の方々が対処できなかったこと…。
去年は200粒は採れたのに今年は25粒というようなアンバイになって、やむなくもリスが喰ってたドングリやトチの実をば拾い集め、皆んなで共同でこれのアクやらシブを除去したり煮たり焼いたりで何とか持ちこたえたものの、遂に対処しきれず、それ以上に生活レベルはもはや落とせないと、村中相談の上、同地を離れていって… 離散。今のところその後の消息不明。
そんな縄文時代の方々の千年に較べるまでもなく、我が庭のユスラウメはまだ、たかが植えて10年も経ってね〜のだから、ひ弱だ。ユスラウメがじゃなく植えたワタクシがっ。
溜息でるね。縄文ビトに較べて創意も工夫も努力も…、随分劣ってまする。



三内丸山に関してごく個人的な感想を書けば、六本柱建物跡の実寸復元は屋根も壁もなく…、これは当時の方々をひどく過小評価しているよう思う。
栗の木の皮を見事になめして編んだオシャレなポシェットを持ち歩いてた方々の美的センスを思えば、巨木利用とはいえ、ただ棒を立てただけの建物って、まずありえない。そんなものを毎日眺める眼がイライラするはずだ。日常の中に美を求める生活であったのはポシェットを見れば判るんだから。



※ 三内丸山遺跡の公式HPより。ポシェットは高さが15センチ程というから、細かい作業が素晴らしい…。


小さなカバンやら、全長にして32m もある住居だか集会所を造れた方々の想像力と技術力をもっと評価して、ヤグラは再構築した方がいい。”見張り台”とかいった無粋じゃなく、柱だけの無骨じゃなく、屋根も壁もある望遠塔として、も一度再考すべきと思う。
今の復元は復元に値いせず、いっそ侮蔑的でさえあるような気がする。。
夜間では最上階には篝火(かがりび)も焚かれたんじゃなかろうか。当時の三内丸山は海のそばに位置しているから、この国における灯台発祥の場と考えてみるのも、ま〜楽しい。はるか遠方の新潟の糸魚川でしか採れないヒスイの勾玉とかを積んで小舟でやって来るヒト達を誘導するランドマークだった可能性も高い。また、そうであるなら塔をオシャレに演出するのが常だろう。