ノーチラス-02


次回の続き。
ノーチラス号のことです。
ヴェルヌの記した文中で特徴的なのは、このノーチラス号には通信の手段となるべく装置も部屋もないという一事です。いっさい描かれていませんよね。
外界との連絡を完全に断ってしまっているワケなのだから、壮烈です。
もはや携帯電話が身体の一部と化した今の我々には、情報の謝絶こそ恐怖に思えます。が、ネモはあえてそこに身を置きます。
電話はおろか手紙すらでも通信しない。出さない。受け取らない…。
謝絶というよりも、遮断ですね、人との関わりを。
この決意の壮絶を、読者として肌で感じられるかどうかで「海底二万里」の醍醐味が増量されたり減少したりします。
携帯電話も電話帳も捨ててしまえますか?
ボクには出来ない。でも、ネモはそうしました。
ネモがかつて、妻子を軍の攻撃でもって失った事は確実です。ゆえにノーチラス号は、それに対する報復としての武器であったかというと、必ずしも、そうではありませんね。
妻子を失った彼は、ラテン語で誰でもないという意味のNEMOと自らの名を変える程に、厭世な人間になったようです。厭世"的"ではなく、完璧な厭世。
ゆえにノーチラス号で深海に潜るワケです。
が、一方で、ネモは浮上のたびに、副官をデッキに立たせます。
"敵艦"が目視出来るかどうかの探りをいれます。
攻撃を自ら仕掛けるコトはないけど、そうやって浮上のたびに確認はしていますね。
ネモは人との接触を断ったつもりでいて、けれど海面の軍艦に関しては、それがどこのものであるか? 確認しにいきます。
ただ単に復讐を目的とするなら、その軍艦が帰属する軍港なり近隣を探査すればいいのですがネモはそういった行動をとっていないですね。率先して仇敵を探索しているワケではない…。
万が一、仇相手に遭遇したらという想定の上で、浮上のたびの日課として敵としての軍艦の影に探りを入れているという感じです…。
したがって、この想定には、場合によっては攻撃あるいは反撃が出来るだけの能力がノーチラス号に裏打ちされてなきゃいけません。
ヴェルヌが描き出したネモという人物は、単純ではないんですな。
明らかな復讐の怨念があるが、復讐したい自身と、そうしてはいけないという自身が、常にせめぎあいます。そういった心理のままに軍艦と遭遇しちゃうと、つい近寄ってしまう…。
これが結果として、相手方の攻撃を招くコトになります…。
相手にとっては不可解な未知の生き物として、危険と判断をされるんですな。
なので撃たれる。
やむなく、ノーチラス号の唯一の武装たる"衝角(しょうかく)"でもって相手の船の一部を破壊しますが、それで今度はノーチラス号は本当に危険視され敵としての烙印を押され、逆に追われるコトにもなる…。
人間との関係を断とうとしたのに、結果としては、その嫌悪している者らに追われるという、いわば"縁"が切れない関係性の輪の中にはまってしまうワケで、それによるネモの苦闘というのが、ま〜、この小説の中心たる命題であり、ネモという人物のカタチの面白みです。
したがって本質のところではノーチラス号は軍艦じゃないんですね。『海底軍艦で』は断じてない。
それを模型として表現する場合、そのカタチに、武器としての要素を誇張するのは避けたいと感じます。

武器となる船の先端・衝角の造形は、あくまでも防御に重点を置いたものとしなければいけません。
絶妙なのですが、その絶妙なライン(カタチ)が重要に思えます。
よって、船の先端部の形状には一番に注意を払わないとイケナイ… ですね。
初稿として、ペーパーで作ったコレは… いささか攻撃的なカタチに見えます。
コレはダメですな。も少し小さく作った方がいいようです。
小説を読むと判る通り、ネモはただの1度も自ら率先しての攻撃という事はおこなっていませんね。
たえず、遭遇相手からの攻撃による対抗としてのみ、刃(やいば)が抜かれます。
ノーチラス号は軍艦であってはいけないし、けれど単なる海洋探査船であってもならず、かといって趣味の遊覧船でもいけないワケです。
その辺りの消息を実に優雅にまとめたのが、前回にも記した通り、デイズニー映画の、あのノーチラス号ですね。
今回の試みは、小説「海底二万里」に徹底して則したものを目論んでます。
デイズニー版の呪縛から解放され、原典においてのカタチを模索します。
ネモはその仲間(正しくは家臣ですね。それは続編たる「神秘の島」で明らかにされてます)と共にノーチラス号を作って、人間世界から逃避します。
いや。
ここが誤解の元なんですけども… ネモは逃避したんじゃないんですね。
あくまでも『離別』したのです。
厭世ではあれど、人が紡いだモノの良さは捨てたワケでなく、それが証拠としての、ノーチラス号内の図書室であり、絵画で満たされた展望サロンです。
人を嫌いつつ、人を好んでいる… といった、いわゆる『絶対的自己同一矛盾』を体現しています。
そのあたりの消息を141年も前に描いたヴェルヌという小説家は、すごいです。
いかんせん、残念なことに、ネモのこの複雑にして実に魅力的な姿カタチというものが、今のところ、映画などの二次使用としての創作物では表現されていませんな。
原作を活かしきった映画はないといってイイ…。
ディズニー映画のあの素晴らしいジェームズ・メイスン演じたネモですら、原作のネモとはやはり乖離します。
海底二万里」と「神秘の島」は幾つか映画になってますが、そのどれもが、ネモの描き方がよろしくないです。
いびつに歪んだ、自閉な、狂気が滲んだような人物としか描かれていないのが… 残念です。
実はそうじゃないわけで…。
小説「海底二万里」は、あくまでもノーチラス号に救出されて二万里に及ぶ旅を行わざるをえなくなったアロナクス教授の、いわば一人称としての、彼の眼でみたネモが語られているだけなんですな。
この小説手法は正しかったけれども、ネモの真相を書くにはヤヤ難がありました。
そのことを一番に判っていたのは作者のヴェルヌだったでしょう。
きっと本を出した後にも不満があったろうと感じます。
ゆえに「神秘の島」にてネモとノーチラス号を再登場させました。
そこではじめて、ネモの口から、本人のコトバが出てきて… 彼というカタチの理解が我ら読者には深まるワケです。
英国に虐げられ隷属させられ、その過程で家族を奪われた痛みと共に、母国のインドをその隷属下から抜けださせたいと願う独立への希求と、そして、人間への尊厳やらやらがネモの中にあったわけです。
アロナクス教授には狂気に満ちた復讐と映った事態は、この「神秘の島」のネモの告白でやっと理解の糸がうまく編まれていきます。
それは原作が書かれた77年後に現実となるガンジーやネールといった存在の、"不屈さ"にも繋がるでしょう。その意味で、ヴェルヌはインド独立の機運を既に予見したとも云えるでしょう。

…………
さてと。
今回は、前回で紹介した3Dでの作図を元にしたペーパーモデルの『初稿』を披露しています。デジタルからアナログへの転換ですな。
だいたいが、こんなカタチになります…。アップル・キーボードとのサイズ比較でもって概ねの大きさが判ると思います。色や部分のモールドは無視してくださいね。あくまでも検討用の彩色でありモールドです。まだスクリューなどの装置はついてません。
どうすか、70mのコンドームは? (笑)
ヴェルヌの頭の中にあったカタチは、概ねでこのようなものであったろうと思います。
…………
続く。