過日、30年越えのつきあいとなるK歯科医のもと、口をあけての治療中、
「土偶を読む、読んだ?」
と問われ、
「ぁぁ~」
と答える。
否定しているワケだけど、口あけたまま、ぅう~ん、とは云いにくいのだ。
というか……、云えない。ウソだと思うならやってみんちゃい。
母音としての“あ”は出るけど、“う”は出ないのにゃ。
その時は思い出せなかったけど、『土偶を読む』は、かつて買ってもイイかなと思っていた1冊で、けどもそのまま忘れてた本だった。
なので翌日、買って読む。
おやおや、あんがい面白い。既に5版となってるから、売れてもいるわけだ。土偶に興味を抱くヒトが多いのかしら?
ま~、土偶に濃く興味がないヒトであれ、内容がセンセーショナルだから、必然に売れてるのかもしれない。
従来にない発想と仮説を、その専門ではない著者が研究した成果が本書で、インパクトが強いし説得+納得させられもする。
専門でないヒトが専門家をかる~く凌駕して新たな地平を見せた、というトコロが素晴らしい。
土偶で何を表現しようとしていたか、太古の昔のヒトにとっての大事なモノ、あるいは生活に密接したモノとの関係性を新たな視点で新たな領域でもって開陳してくれている。
おそらく、その筋の専門家には嫌われ、煙たがられる……、のじゃなかろうか。いわゆる“学会”では無視される可能性も高い。
当方が亜公園のことを調べはじめ、講演でもって徐々にその成果を披露しはじめた頃も、そんな空気が漂ってた。
イノベーダーとして扱われず、むしろアウト・スペースからのインベーダー。ヤッカイ扱い。
本書の成果が果実としてどう実を結ぶかに、だから興味がある。
良い本を思い出させてくれたKに、感謝。
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亜公園を創った片山儀太郎には3人の子供があり、そのうち三男の寿太郎(ひさたろう)は若くして亡くなった。(大正4年没)
儀太郎夫妻はどれほど悲しんだか……。
その寿太郎は慶応大学を出て、社会鍋運動に参加していたという。
これは珍しいというか、当時、希有に属する“行き方”だったよう、思える。むろん、今もそうで……、「社会鍋」という存在を多くの方は知らないであろうとも、思う。
キリスト教プロテスタントの1派、救世軍(Salvation Army)が世界中ではじめた慈善事業で、クリスマスなど年末に行う募金活動などをいう。
募金をいれてもらうために鉄鍋(クリスマス・ケトル)を使うから、日本では“社会鍋”という名で定着した。
日本におけるその福祉事業、社会鍋についてを調べると、山室軍平という明治時代の人物がその基点にあることがすぐに判る。
幸いかな、『山室軍平』という本がある。
教会活動とはいえ軍隊にみたて、イデタチも……、今の眼でみると滑稽で、なにやらくすぐったい感じもあるのだけど、同書を読んでいると、やがてくすぐったくは、なくなる。
極めて真摯、大真面目、かつ清廉。
明治半ばの日本で動き出したこの奉仕活動は、マイノリティ~そのものだったろうし、誤解もされたろうと思われる。
実際に山室は仏教を含む他宗教から非難され、白眼視され、逮捕されてもいる。街頭での歌舞音曲が禁止されていた明治にあって、彼らがその活動で賛美歌を街中で歌ったことで3日間、拘留されたりもした。
なので苦労が多かった。自らの利益を求めないので貧窮にあえぎもした。
意外なことに、山室と岡山は極めて関係が深い。
岡山県哲多郡に彼は生まれ、東京に出て、印刷工をしつつ同志社に学んだ。
同志社大学は新島襄が同志社英学校として設立、キリスト教主義教育を核とする。
それで山室はキリスト教信者になった。
東京に出て8年が過ぎ、「夏期伝導」として岡山の備中高梁に来た。高梁には熱心な信者が少数ながらもいて、その頃に教会堂が建っている(現在は高梁市の重要文化財。建立当時は周囲から冷遇され、明治17年7月には礼拝中に群衆が殺到、石やヘビやカエルを投げ込まれ、ドアを叩き壊されたりして迫害をうけている)。
山室が高梁のそこを訪ねたのは、その「耶蘇退治事件」があった5年後だ。
そこで山室は、順正女学校(現在の県立高梁高校と吉備国際大学)の創設者で校長の福西志計子(しげこ・生まれた家の隣家が山田方谷宅で彼女は漢字などの基礎学習を方谷に学ぶ)と知りあった。年長の福西は、極貧ながら熱情の燃えようがハンパでない山室を心配し、どこぞの資産家の婿養子にでもなって身を落ち着かせてはどうかと提案もしてくれた。
石井はご存じ、岡山孤児院を立ち上げた慈善家だ。医学校を落っこちた後、孤児救済の道を歩んだ。存在が大きい。(山室より7歳年長)
石井とて裕福でない。互いに辿る道はヤヤ違うけども、福祉事業、奉仕事業に向けてのエネルギーは甚大。
2人は生涯の大親友となる。そんな縁もあってか、地方都市岡山での社会鍋活動(総じてキリスト教の浸透)は全国一の規模でもあったようだ。
さて一方、片山寿太郎はといえば、その当時、岡山でも有数なリッチな家を出自とする青年だ。
なぜに彼が奉仕運動に参加していったか……、そこに当方は興味を持つ。
哀しいかな彼は20代半ばで没す。
片山家にも伝承が少ない。
ま~、それゆえ余計、気になっている。
なワケで『山室軍平』を読み、理解の外周を少しでも縮めようとしている。
亜公園という施設探求に関していえば、これは外伝的要素が滲んでくるけど、知っておきたい”史実”ではあろうと思っている。
寿太郎は三男。兄として、信三郎と辰二の2人がいる。辰二は長命だったけど子に恵まれず、長男たる信三郎のみが儀太郎の血脈を後世に残した……。
その信三郎の次女が片山家を相続することになり、婿養子にS・Mが入る。(血縁の方もおられるゆえ、ここではあえて頭文字で紹介するに留める)
彼は上記した高梁の、順正高等女学校の教員である。
没した三男・寿太郎は、社会鍋活動という一点で山室軍平と接点があったはずで、さらには、奇妙なカタチで高梁市という場所も一致してくる……。
そのあたりで興味の度合いがいっそう深まる。突飛に跳躍してケッタイな仮説をたてたくはないけど、妙な符合があって、ひっかかる。
まっ、そんな次第で同書のページを興味深くめくっている。同書に寿太郎の名は出てこないけど、山室の極く近くに彼がいたであろうコトはマチガイないだろう。
短い生涯の最後のあたりで寿太郎さんは社会貢献の道を選択し進んでった。その重みをしっかりとした重量として感じたくページをめくってる。
おそらくは父親の儀太郎もそうであったろうと……、思うゆえ。
亜公園内のプロムナード部分。
幼い頃の寿太郎はきっと父親の儀太郎に連れられて、亜公園を歩いたはず。園内の玩具屋で足をとめ、アレコレのオモチャに眼を輝かせつつも、傍らの父に、欲しいと申し出るかどうか、ハートをせつなく揺さぶられたろう、きっと。