チョイっと修復

 

 コロナ以前、岡山シティミュージアムの鉄道関連イベントや自身の講演などで展示した模型。

 ほとんどの車輌はまだミュージアムに保管されているけど、数輛は手元にある。その内の1輛をば修復。

 破損しているワケでなく、製作時に手抜きしていた部分をば、レストア。

 ペーパー・モデルゆえ、ノリとハサミだけで概ねの作業が進む。

 

 戦中戦後(1945年前後)岡山市内を駆けていた岡山電気軌道の100型路面電車の、この模型塗装は、まったくヨロシクない。なのでこれは1度だけ展示に使ったきり。

 ほぼ、真っ黒にペイントすべきだったと、今は概ね判っているんだけど、製作時にはそのカラーリングがいまひとつ、了解しきれていなかった。

 製作時に参考にした当時の資料に、

「空襲に備えて路面電車はすべて、目立たぬよう、くすんだ色に塗り替えた」

 という記述があって、カモフラージュ的迷彩みたいな色が念頭に固着してしまった。それと、戦後の泥のような荒廃にも気をつかい過ぎ、結果として、ダメな彩色車輌になっちまった。

 

 ペーパー・モデルは、作図+カラー彩色をパソコン上で行い、それをプリントし、切ったり貼ったりで立体物にする流れゆえ、ボディ・カラーはもはや変更できない。

 これがヒリヒリする嫌ぁ~な気分を沸かせるけど、しかたない。というよりも、失敗作ゆえに逆に愛着と執着が入り交じった気分もあって……、そうでなくば修復したいとは思いもしないでしょう。

 

 本模型を作ってから、ちょっと後に入手した資料写真があって、それは米軍が岡山を空襲する1ヶ月ほど前、事前に岡山上空を偵察飛行して撮影したもの。〔1945年5月13日撮影)

 路面電車がくっきり映っている。この当時、この路線を駆けていた車種は判っている。100型という二軸車輌。

 上写真の通り、おそらく屋根まで真っ黒にペイントしていたのだろう……。けど、どのように色を変えようが、ダメね。空から地表を眺めりゃ、電車だと即行で判っちまう。

 逆に、真っ黒にしたがゆえ、夜中はいざ知らず、白昼だと目立ってしまうワケだ。

窓ガラスは近所のスーパーで買ったお弁当のフタ部分を流用。工作用プラ板より薄くって適度な透明さなので重宝する。工作用のそれはクリア〜過ぎて逆に使えない。昔のガラスは均一性に欠けて景色がちょっと歪んで見えるんで、そこを考慮してのお弁当のフタ……

 

 一方で、この100型は戦後に改装され、カラフルに塗装され直し、なが~く使い続けられているのも承知している。

 戦後は驚くほどに、色彩が戻るんだ。ヒトの衣装も路面電車も、皆な一様、色が復活するんだ。

 戦争さなかは華美を避けざるを得ない空気が圧倒し、黒や紺のみの着物で過ごしていたのが、敗戦と共に、タンスに横たえていた赤や青や黄……、自慢の着物を引っ張りだして袖を通し、町にでた。路面電車にも明るい色がつけられた。空気の組成が激変したわけだ。

 

 戦後に塗装が変わった番町線の100型電車。マックロからホワイトと淡い空色のツートンカラーに大変身。戦時でなく戦後となった空気感が見事に反映している……

 

 昭和30年代半ば頃からはカラー撮影も出始める。1965年(昭和40年)頃のカラー撮影の普及率は10%程度ながら、5年後の1970年にはそれが40%にまで上昇したのは、同年の大阪万国博覧会の影響だ。

  なんせ6500万人近くのヒトが吹田の会場に出向き、一生の思い出にと、一家に一台のカメラに高額なカラー・フィルムを入れて持ち込んでるんだもの。

 我が宅もそうで、ボクが映ったカラー写真の最初は、万博会場内でのものだ。

 模型製作の資料としてカラー写真は申し分ない情報があって、色彩に関してはほぼ、変にアタマをひねらずとも、忠実に再現できるんだから、ありがたい。

 

 今はもう、知ってる人の方が少なくなったけど、岡山には「番町線」という路線があった。

 岡山駅から城下に向かい、そこを左折し、就実高校の端っこまで駆けてまた左折、裁判所のある交差点近くまで進んで、そこが終点。(上の米軍が撮った写真を参照されたし・新鶴見橋は番町線廃止で出来たんだよ)

 番町線は、日本のみならず、世界でイチバンに短い鉄路として、鉄道マニアには有名な路線だった。(城下交差点から番町まで900m弱の路線が番町線。岡山駅から城下までは東山線東山線にとって城下交差点は途中の駅でござい)

 

 ボクはマニアでも鉄道オタクでもないけれど、資料を収集したさい、意外にも、昭和40年代頃には、関東方面の高校の修学旅行先には、岡山・広島というコースがあって、その頃に鉄道マニアであった関東圏のごく一部の高校生にとってはヨダレものの、萌え萌えの岡山旅行だった……、らしい。

メインは広島原爆ドームの見学で戦後の平和教育ゆえのコース設定だったんだろう)

 そんな方々が年とって、インターネットの時代になって、若き頃の岡山旅行で撮った写真をネット上に公開してくれている。

 これが、とんでもなく素晴らしい資料になるワケだ。

 地元のニンゲンは、毎日、眼にしている路面電車なんか、誰も撮影しない。だって、あまりに日常のモノだからね。撮る対象にならないんだ。

 で、番町線が廃止されると、県外の方々が撮った写真が、途方もなく価値ある、

1級資料

 として輝くワケじゃね。

 おかしなもんです。

 

 ↑ 昭和43年(1968)に修学旅行で岡山にやってきた方(当時高校生だね)が撮った番町線の100型103号車。左背景は岡山東警察署。現在は岡山県立美術館でございます。

 

 同103号車を再現した模型。赤色マットの上で撮影のこの車輌模型たちはミュージアムに保管されているので、手元にない。

 番町線が廃止された1つの理由には、モータリゼーションの波及で市内への車での乗り入れが希求され、新鶴見という新たな橋の建造に線路がジャマ……、という次第で、世界でイチバンに短い番町線は姿を消すコト(昭和43年)になったけど、惜しい気がしないではない。

 番町線はその短さとあいまい、黒字の路線でもなかったけど、亜公園が閉園して7

年後、現在のオリエント美術館の場所に本社と車庫を設け、明治45年から運営された鉄路(番町線という名は大正10年から)。空襲にも耐えて生き残り、存続させようと、当時の岡山電気軌道社は奮闘し、経費削減として車掌の乗車を廃止、日本初のワンマンカーとしたのも、この番町線だ。

 全国の路面電車の会社は番町線のその成果をみて、右へならえで追従。車掌という職業がなくなる発火点ともなっている。

 だから、いささか不思議な感もある。Aを成し遂げるにはBが不要なものとなるという、天秤のバランスが崩れていくのをマノアタリにしたみたいな妙な感触。結局はその番町線も車社会の押し寄せに負けてしまったワケで、いまはこうして模型でもって当時をまさぐってみるコトしか出来ない。

 修復の模型は、彩色の基本部分で間違っていたけれど、模型工作と史実の狭間の深みをこれで勉強させられたワケで、なのでま〜、戒めというか、チョイっと大事にはしている次第。