海底の雪

久々に昼間から雪が降っている。
ボクが住まう岡山市というところは降雪がほとんどない地域なので、よそ様の大雪のニュースなどに接すると、妙な嫉妬をおぼえたりする。
むろんに、除雪時に亡くなったとか… 雪がとてもヤッカイなお荷物な地域も多々あって、そんな所に住まってる人にとってみれば、
「何を、アホなコトを」
で、あろうとも思うのだけど、めったと空から雪が降りて来ない岡山市に住んでいると、雪が降り出すと… 妙に嬉しい。
今日のこの雪もたいして積もるワケでもなく、積もってもせいぜいが2センチと満たないようなアンバイなのだろうけれども、界隈が白に染まっていくのを見ると、どこか傷んだ心のアチャコチャを拭ってくれるような清浄を感じて、冷たい吐息の中に甘いぬくもりを見いだせたりする。
雪には吸音の効果があるんだろうか? 
界隈から普段は聞こえる無数の音が消失するようにも感じる。すべてが失せるワケではないけれども、雪というフィルターを通じて何かノイジ〜なものが消えているようにも思える。
その雪の中を車で出かけ、近場のスーパーの駐車場に停めてしばらくエンジンをきって、ただボンヤリと眺めていると、たちまちに冷気がやってきて底冷えし、窓はくもる。
エンジンを廻してヒーターをつけりゃ、ぬくみはスグに取り戻せるけれど、それをすると何だか面白くない。
しばし、この雪による冷気を感触として、当然にガマンして… 愉しんでみる。
"暖をとる"という有り難みが、肌として感じられ、フッとボクは、かの『マッチ売りの少女』を思い出したりする。
かの少女は売り物のマッチで暖をとる。
ほのかで微かな小さな火だけれど、たえがたい寒さの中、彼女にとって最大の松明(たいまつ)であったろうとボクは冷えた車の中で、ヒシヒシと感じる。
その小さな火の中に彼女は幻想を見、一本、一本と費やしつつも、まだ客を待って路頭にいる。
あげく、どうなったかは承知の通りだけども、つくづく、アンデルセンが編んだ詩情に感歎させられる。
何事かをジッと待っているというその静かな佇まいに、痛みを伴う哀切があって… シンシンとした情を喚起させられる。
ちょっとまえにも実は書いてるけれども、海底に沈んだマーキュリー計画のリバティベルセブンにも、ボクは似た感慨をもっている。

38年間、海底にあったリバティベルセブンは当然に生き物ではないんだけども、だから、凍えようが藻にからまれようが、あるいはたえず降ってくる白い雪のようなプランクトンの死骸に堆積されようが、一言の文句も言わないシロモノなのだけども… その海底での佇まいには、何か哀切とも痛憤とも悲哀ともつかない情動をおぼえさせられるのだ。
またそれゆえに、沈船して38年を経過しても、このリバティベルセブンを忘れていなかった多数の米国人がいたというコトも感情を揺すられる。
引き揚げられた後、米国内での巡回展をへて、今、リバティベルセブンはカンサス州の Cosmosphere and Space Centerに永久展示されていて、意外や多くの方々が詣でているらしい。
静かに降っている外の雪に接し、ボクは深海に佇んでいたリバティベルセブンを思った。
マッチをもたず、当然に幻影も見なかったであろうハズだけども、どこか、人格めいた気配をボクはリバティベルセブンにみた。