うまタラたらふく

敬愛してる、おっ友達カップルから、
「晩に海鮮鍋をやるから出頭せ〜」
とのお達しがあったんで、ノコノコ出かけたら、北海道から直送された鮭と鱈なのだった。
タラは、自分のイメージというか、過去に食べ知った感触から、塩味の濃いパサパサした白身という印象が濃かったけども、直送されたそれは肉厚でプリンプリンとしていて、けれどけっして脂身というわけではなくって、ぷっくりとしつつあくまでも淡麗な煌めきがたえることのない滋味なのだったから、いささか驚かされた。
鍋ゆえ、当然に白菜やら春菊やらニンジンやらが入る。
それに加えて、牡蠣も煮える。
ビールが美味い。


タラは鱈と、サカナヘンにユキと書くくらいだから、身がホントに白い。
冷寒な海底近くで群れをなし、底を這う貝やイカを食べて成長する。
大変な大食漢で、「たらふく食べたよ〜」のタラフクの語源とも云われてるし、その大食ゆえ、成魚のタラの何割だかは… なんと胃潰瘍の傾向にあるらしい。
切り身となって我らが食卓に登場するこの魚に、胃潰瘍という慢性的"疾患"があるというのは、とっても可笑しいけども、古来は"大口魚"と呼ばれて、ともかく、大食する魚だというコトはよく知られていたようである。
こやつめらは、ほぼ常態的に大口をあけて海の底界隈を練り歩いているようなのだ。いわば貪婪のグルマンということになるんだろうけど、腹黒くならずに腹白い。


急遽に招集された男2人に女2人、主催のカップル。この6人で鍋をつっつく。
あたたかい湯気。冷たいビール。タラと鮭の滋味。牡蠣、多様な野菜… グツグツグツ。
さらに広島だかどこかの練り物。鰻巻き。どこぞのアボガド入りテリーヌ。ハム。
美味いね〜。おいしいよ〜。で、ビールがさらにすすむ。
サーモン好きなボクじゃあるけど、この鍋の中核はタラだ。


ふとボクは、その昔の唄を思い出したりする。
「ゆ〜きの降る町を〜〜〜、ゆっき〜の降るマ〜チを〜〜〜♪」にはじまる、ダークダックスだかで聞き覚えたかつての名曲。
そのあと、
「思い出だけが通り過ぎてゆく」
と、歌詞は続くのだけど、なぜか、そのような唄を思い出して、タラのプックリ感を味わいつつ、密かにくちずさんでいる。
哀切感たっぷりなその唄と賑やかな6人のX'mas前夜祭的鍋パーティはまったくマッチしないんだけども、どこか気分は日本の北方に運ばれているようで、もちろん、それは北海道。
思えばボクはいまだ… そこへ行ったコトがないんだ…。
(^_^;


ブラジルといえばアマゾン河ということになっているけれど、ブラジル人の概ね6割だか7割の人はアマゾン河を見ることなく生涯を終えるというウソのようなホントの話があって、それを思えば、はるかに国土小さきこの国にあって、北海道に行くことなく生涯を終える人というのは国民の何パーセントくらい、いるんだろうか?
こたびの鍋パーティの主催カップルはといえば、1200cc越えのBMWのでっかいバイクでもって北海道の直線道路を駆けて、時に速度超過でバッキンをとられたりしつつも、飽くことなく毎年出向くアクティブを発揮して、いまだ同地が未踏の地であるボクにとっては、な〜んだか夢のような感覚だったりする。
が、一方でボクは、出向いたこともないクセになぜか、「思い出だけが通り過ぎてゆく」の北の大地の哀調のみはヒシヒシと身に浸みるようにも思える。
なので、淡い幻想が浮き上がる。
冷々とした深暗なやたらと広い空間に舞い降りてくる雪に変え、白身の鱈が何万となく悠々とその深暗な空を泳いでいるという構図。
鯉のぼりじゃあるまいし… ましてや切り身の状態で群泳してるわけもないけども… ああ、なんか想念が詩人っぽいなぁ、と北叟笑む。
当然にそんなイメージというのは、いつか通過して植えられたイメージの転用なことが多いのであって、魚が空を行くというのは… 藤子不二雄が昭和30年代に描いた『海の王子』の「砂漠のシーラカンス」篇あたりに自分の中での原典があるんだろう…。


でもって、この秀逸な一篇を夢中で読んでた子供の頃、時期同じくして聴いて耳馴染んだのが『雪の降る町を』だったはずなんだし、シーズンはX'masの頃だったとも思い返せるんだ。
小さなツリーがあって、それを毎年飾るのを楽しみにしてた。むろん、今のような電飾タイプじゃないけども、銀の玉っころや星形の小片を手にとって、そのキラキラにワクワク惑乱されるような情感をおぼえてたもんだ…。
それは藤子マンガに接する愉しみに通底して、子供のボクは輪を廻すリスみたいに、"X'mas前の楽しく甘い時間の輪廻の渦中"にどっぷりと浸ってたはずなのだ。
タラが、煮えた鍋の中から、時間の海を遡らせてくれたと思おうか。