お盆 -クンドゥン-

 

 また巡ってきたお盆。

 今年はこの連休3日めに坊さんがやって来るので、チョイっと準備しなきゃいけない。

 といっても、たいしたこっちゃ~ない。仏壇を掃除し、坊さん用のザブトンを押し入れから出し、子供がやたらと多い弟に連絡して法要時に何人来るのかと問い、人数にあわせた茶菓子の準備、お花を買い、お布施の用意、程度……。

 

 毎度マイド、不思議な慣習だなぁと思わないでもないけど、拒絶しない。

 祖先を崇めて拝むというのは、キリスト教イスラム教にはなく、

「なんじゃ、そりゃ?」

 の不可解な感覚らしいけど、なが~くこの慣習の中にいる我々には、逆に、

「なんで?」

 というコトになっちまっている。ま~、イイのだ。べつだん、ヘンな事をしているワケじゃない。

 ただ、極く一部で弊害らしきがあって、エジプト考古学吉村作治氏の著作を読むと、発掘調査に参加したゼミナール生の何パーセントかが、ミイラやら古代墳墓での作業で、夜に幻覚をみたり、ノイローゼ的な症状になるというコトを書いてらっしゃる。

 共同で調査するフランスやイタリアの学生にはそういうコトが生じず、ニホン隊の若者のみに発生するそうだから、これはやはり、先祖の霊というものを合理では否定しても、実は身体に染みつかせているニホン人ゆえの感性がもたらせているんだろう。

 

 映画『インディ・ジョーンズ』や『ハムナプトラ』のシリーズを観ると、主人公が大昔の墳墓内で、ミイラ化した亡骸を使い、足やら手の骨に亡骸がまとっていた布を巻いてジッポーだかで火をつけてタイマツ代わりにしちゃうというシーンがあるけど、我々ニホン人は、ほぼ100パーセント、そんなコトは出来ないはずで、その辺りにも宗教観に根ざしたBODY(亡骸)とSOUL(魂)への感覚相異があって、それはそれで、おもしろいコトはおもしろい。

 けども……、盆や彼岸の仏教行事に加え、家を建てるさいは地鎮祭で祈禱し、正月になると八百万の神々に詣で、お賽銭投げ入れて鈴を鳴らすという、一神教世界のヒトから見れば無節操ながら、それぞれに応じてチャッキリ切り替えてる宗教的感覚がなかなかクールだと、この頃は思っている。特殊なことでなく、そこがニホンの特性だ。

 

  ✿✿✿✿✿————✿✿✿✿✿ ————✿✿✿✿✿————✿✿✿✿✿ 

 

 昨夜というか早朝4時頃、ケイト・ベッキンセイル主演の『アンダーワールド』を観ようか、マーティン・スコセッシ監督の『クンドゥン』を観ようか、チビッと悩む。

 前者はドラキュラがらみの娯楽作。後者はチベットへの中国の非道から逃れるダライ・ラマ14世の話。

 いずれも過去に何度も観ているけれど、例によってフイに観たいミタイなモード。

 結局、後者を選んで、観る。

 

 チベット仏教の最高位ながら、まだ少年でしかない彼は、毛沢東率いる中国共産党の圧力に翻弄され続ける。

 チベットの主権は中国にあるという一方的強圧に、少年ダライ・ラマは右往左往する。玩弄されてすくみ、蹂躙されるまま時に流されそうになる。

 

 代々、ダライ・ラマは転生し選ばれた子供として、ある日突然にその座につく。

 現在の14世もそうで、選ばれなくば平凡な農家を継ぐだけの身だったけど、1940年、生まれ変わりというコトで見いだされ、指導者の立場になる。 

 この映画をみる限り、少年の苦悩は尋常でない……。

 法王というポジションに置かれた途端、実の父も母もが彼に平服し、「クンドゥン(猊下)」と呼んで頭を垂れるというカタチに、困惑し、腹立たしさにいらつく。母親に甘えたいのに、それすら出来ない理不尽にキリキリする。

 やや成長し、18〜19歳になった頃、台頭し大勢力と化した中国共産党からの、少数民族たるチベット族への圧力が強まってくる。

 ● チベットは中国の領土

 ● それゆえチベット保全は中国軍がとりしきる

 ● チベットにおける政治・交易は中国政府を通じなければいけない

 そして、近代化を促すという名目で中国人(漢族)の農民4万人をチベット領内に移住させてくる……。

 チベットはラマ仏教を中央に置いただけで正式な独立国家ではなく、戦闘機はおろか軍用車両とて1台もない。大日本帝国真珠湾を攻撃したというニュースが入ってきたさいも、誰も真珠湾がどこにあるかさえ知らず、外交には程遠い平穏な仏教集団。

 そこに毛沢東の中国軍が踏み入ってくる。「チベット解放」というスローガンの元、反撥する寺院を爆撃し、僧を辱め、兵を駐屯させ、羊の遊牧地だった場やヒマラヤ山系の水資源豊かな土地を占領し、中国人農民を入れ込んでいく。

 結果、中国人農民とやがて恋愛し婚姻するチベット女性も出て来る。生まれた子供には宗教は麻薬で有害と、毛沢東の教えが吹き込まれ、指導者としての彼の肖像画が家庭内に設置され……、チベット民族の血は薄まり、中華色が濃くなる。

 今、ずいぶんと高齢になって、チベット人の象徴として、ユーモアを交えつつ他者に語りかける、その存在感の大きいダライ・ラマも、法王に選ばれ、中国に徹底して狙われた末に、22歳のさい、幾重と雪のヒマラヤ山脈を越えてインドへ脱出せざるをえなかった頃の姿は、ずいぶんに弱く、痛々しく、けれど、その弱さながらも指導者としての苦難を自ら背負った姿を活写したスコセッシ監督の力量に、驚く。

 いや、それ以上に、この映画を通して現実の、非暴力で一貫しているダライ・ラマ14世の現在に感心が向かう。

 彼を鍛えあげ、柔和の心を前面に置かせたのは、結局は中国の暴力的強圧だったとも云える。

 しかし、高齢。ダライ・ラマ制度の後継者も決まっておらず(30年ほど前に後継者となる子供を見いだしたけど、中国が誘拐し今も行方不明)、はたして、14世以後のチベットはどうなるのか……。苦難は続いてる。

 

 なんか、お盆の頃合いで見るにふさわしい映画というワケでもないけれど、観つつ、あらためてチベットの方々に思いを馳せさせた。

 この映画は「理不尽に向けての抵抗の叙事詩」として眺めるのがイイか。

 話せば判ってもらえると北京に出向き、毛沢東と対談した若いダライ・ラマが毛沢東の権謀術策にのまれるシーンなど……、脚本が良い。

 毛沢東に圧倒されつつも、アヘンでもって香港統治を実行した英国を帝国主義の悪魔とののしる毛本人が英国ブランドの磨き上げた革靴を自慢げに履いているのをダライ・ラマが眼にとめる辺りの無言の描写が、イイ。

 脚本を書いたのは当時ハリソン・フォードの奥さんだったメリッサ・マシスン。あの『E.T.』も彼女の脚本だったね。早い逝去が惜しまれる。

 スコセッシ監督には『タクシードライバー』やら『グッドフェローズ』やら『ヒューゴの不思議な発明』などなど数多の傑作があるけど、やはりダントツ1番はこの『クンドゥン』かなと、こたびの再見で想う。チベットでは撮影出来ないからモロッコに大きなセットなどを造って撮ったらしいけど、美しいシーンが幾つもある。

 

 さぁ。盆提灯を引っ張り出して組み立てるか。2つセットになってるけど、1つで充分でしょう。