熊山英国庭園1年ぶり

 

 過日、玉野の深山(みやま)公園・イギリス庭園に出向いたら、門が閉じられ「本日休園」という看板が吊されてた。

 あじゃぱ〜。

 幸いかな同園の道の駅名物「焼あなご」を買えたし、赤松池の白鳥の遊泳を眺めたりは出来た。

 だけど、肝心のガーデンには入れずだったゆえ、リターンマッチというワケではないけど、日を換え、赤磐市の熊山庭園へ。

 1年ぶりの訪問。

 

 無料開放された良い空間。

 無料といえど管理も行き届き、園を運営する赤磐市の気骨っぷりが沁みる。

 この日も3名のスタッフが剪定作業をやっていた。

  

 薔薇を置けばイギリス庭園だか英国庭園だかにグレードアップするワケもないし、当方、薔薇にさほど感心はないものの、「庭園」というカタチ、存在を好む。

 ニンゲンが構築した数少なめな良き空間が、「庭園」というか「ガーデン」だろう。闘争やら紛争の対極の憩い空間。

 映画『ゴッドファーザー』では、長い年月抗争の中に身を置いたマーロン・ブランド演じる一家の長が、自宅の庭(菜園兼ねた)の中、植物の手入れ中に天寿を全うして亡くなるシーンがあったけど、不幸ではあるけど、最後のその平穏さが奇妙な程に目映かった。

 ヒトが穏やかに時間を食むコトが出来る空間というのは、好いもんだ。

 庭園は時間を潰す空間ではなく、時間を味わう空間だ。

 花々は旬があり、開花から落下へと変化を見せるけど、それを含めてのユッタリ時間の流れが、好いもんだ。

 同園の端っこに喫煙場所があり、椅子1つ置かれてはいないけど、そこで1本シガレットを薫らせつつ、広庭に眼を泳がせて味わう時間のユッタリが、とても贅沢に思えたり、する。

 

 で、その気持ち良さを前提にもう少し思うのだけども……、どのように英国風を装っても、断固として日本の庭でしかないというトコロもまた感じるのだった。

 

 去年もそう感じたけど、広い意味合いでの「日本人による日本人のための英国風味な日本の庭 そして そこを取り巻く日本の環境」というトコロがモワ~っと浮くのだった。

 それがイケナイのではなく、もう、充分にイイ感じの庭になっているから、心地良いモワ~っなのだ。

 熊山独自のカタチに育っている。

 英国という冠を外して、

「熊山庭園」

 と、名を変えてもヨロシイのでは? と愚察するんだった。

 その方が、堂々とし、グッと親近をおぼえるような気がしていけない。

 目的もなく朝や夕刻に歩く「散歩」という概念も単語もが、ニホンにまだ定着していなかった明治期……、明治25年(1991)の岡山に『亜公園』という娯楽施設が誕生したけど、民間人が創った岡山初の公園でもあった。

 7階建ての集成閣とプロムナード風に展開した店舗の狭間に、小規模だけども東屋のある庭園(蘇鉄が植わっていた)も設けられていた。

 明治28年の京都での第4回・内国博覧会で岡山を紹介する本として刊行販売された『岡山名所図会』(細謹舎)は、

「夏の納涼、冬の観雪、その歩を運ぶもの少からざるべく、亦、岡山に於ては、有数の遊息地といふべし」

 と紹介している。

 散歩と書いても意味が通じないから、「歩を運ぶもの」と書いているのがオモシロイが、亜公園内の庭園部分で憩っているヒトのカタチは垣間見える。

             『亜公園之図』より。紅い部分に小庭があったワケだね

 

「亜公園」とは、“後楽園に亜(次)ぐ公園”というイミだけど、その後楽園の一般開放は明治17年(1884)で、一般向け観光地としての整備はまだこれからという段階であったから、その点で、亜公園は文字通り、パブリック空間という場所が意識された先取の「園」であったコトはまちがいない。

 施工主1人のための憩い空間ではなく、誰が利用してもよい空間。今に残る「亜公園之図」には、蘇鉄や石灯篭や東屋が描かれている。

 東屋に腰掛け、煙管で一服しつつ、育つ樹木に眼を向けた明治人のアタマの中には、自分のモノではないけども共有空間としては自分のモノでもある場がもたらす緑の効能に、

裕福な時間

 が意識されたかも知れないとも、ひそかに想う。

 明治半ばの地方都市・岡山で、庭と散歩というヨーロピアン的組み合わせによる愉快が、亜公園と後楽園によって……、萌芽したといっても過言でないよう、思う。

             模型再現した亜公園。紅い部分が園内ガーデン