妖怪百物語 -1968年の映画-

 

 久々に観る。

 1968年、学校が春休みだった時に封切りされた映画。江戸時代が舞台。

 千日前の岡山大映文化劇場(今はもうない - 最後の頃は千日前文化シネマ2という名だったかな)で観た。

 マイ・マザ~と弟、ファミリ~で観た最後の映画だったかもしれない。

 小学生の弟は同時上映の『ガメラ対宇宙怪獣パイラス』に興奮したけど、当方はもはや中学生、な~んとはなく、“子供映画”とバカにするような中途半端な年齢になっていた……。       

                       

 ま~、けども、本映画の一部は鮮やかな記憶として残っている。

 吹田の万国博覧会の2年前だな。

 岡山駅前に、博覧会まで後何日……、といった大きな看板というかカウントダウンの装置があったような気がするが、時期確かでない。

       

                    公開時のポスター

 

 すでにTVでは前年10月より『ウルトラセブン』が放送され、1月からは『ゲゲゲの鬼太郎(カラー番組にあらず。モノクロだ)がはじまって、妖怪は怪獣に次いで、ちょっとしたブームだった。

 だからこの映画の初見時でも、登場する妖怪いずれも、な~んとはなく、馴染みがあって怖いモノじゃ~なかった。

 イチバンに怖いのは、悪徳高利貸しの但馬屋が、同じムジナの悪徳奉行宅で百物語の会を主催し、そこに呼ばれた林家正蔵がハナシを語りだすシーンだな。

 江戸時代の初代・林家正蔵を8代目の正蔵(後の彦六)が演じているのだけど、怪談噺で定評だった彼ゆえに、今観返しても凄みがある。

 照明がとても効果的で、さりとて照明と感じさせず、落ち着いた大映カラーというか、淡く濡れたような色彩の中に彼の噺が沈み込むように定着して、凄みに輪がかかる。

 子供の時も、今も、

「うわぁ~、いよいよ始まるぞ……」

 と、ゾクゾクさせられるんだった。

 

 で、怪談というか妖怪が出て来るエピソードにシーンがつながっていくのじゃあるけど、そこはさほど怖いもんじゃない。

 小僧役のルーキー新一と唐傘オバケのくだりなど、むしろヒョウキン感が先行し、オバケ屋敷の滑稽が映画になったような感触で、恐怖感は薄い。

 むしろ、初めて接したカラーの妖怪ゆえ、

「ぁあ、こんな色してるんだっ」

 と、当時はそっちに感心が向いた。

 今観ると、意外なほどにしっかりした時代劇で、悪徳高利貸しが善良な長屋の大家の娘(高田三和)を欲求するあたり、子供映画の造りじゃない。

 で、アレあってコレあって、最終シーンの百鬼夜行の行列が壮観だ。

 この映画の良さがそこに凝縮されているよう、今も思える。

 今眺めると、百鬼に足らず、せいぜい20〜30鬼の乱舞。でも、かつて昔の絵巻のそれが動いているという絵画的情感と躍動があって、味わいが余韻として残るんだ。

 

 しかし、マザ~と弟と3人で観たのは覚えているけど、見終えてどこで何を食べたとか、そういうコトはいっさい記憶にない。

 1968年頃(昭和43年)は、我が宅から千日前に出るにはバスなどなかったから、東岡山駅から岡山駅に出て、そっから路面電車に乗るか、岡山駅前から天満屋までバスに乗るか……、なのだけど、そこも記憶なし。

 不思議なもんじゃね。

 還りみるに、当時は、岡山市街と国道2号線以外はほぼ道路は舗装されていなくって、もちろん、まだ新幹線もない。

 山陽本線沿いの未舗装の道路をおよそ1キロばかし、宅から東岡山駅までを親子3人テクテク歩いて電車に乗ったはずなんだけど、そのテクテクが当たり前だったから苦痛と感じずで、記憶にも残ってない。

 当たり前のコトはあんがい記憶されないんだな……。

 しかし今これを書いてるさなか、あの日、弟は水色っぽい服を着せられていたような記憶が、ホワ~っとわいて来た。

 映画館の暗がりの中、隣席の弟の服が輪郭のない色彩として、わきあがって来た。

 映画『妖怪百物語』も、そう思えば、ストーリーよりも、そのカラーがイチバンに印象されていたような感が、チラリ。

 TVは既にカラー放送がはじまっているけど、カラーTVは圧倒的に高額だから我が家も白黒のそれだったと……、思いなおしてみると、色彩に飢えていた時代だったのかも、知れないな。

 だからそれゆえ、2年後の、吹田での万国博覧会の絢爛たる色彩が激烈に印象されて今に至っているような気が、しないでもない。

 くわえて場内にはどこにも土の気配がない。もちろん樹木もあれば日本庭園もあるんだけど、自分の日常とはかけ離れた「未来空間」の中に自分がいるという感触は、おそらくは上記の通り、まだまだ舗装も進んでいない当時だったからゆえの、“360度すべて非日常的光景”の感動でもあったんだろう。

 真っ赤な尖塔やクンニャリ曲がった家屋が我が宅のそばにも出来るかもという未来待望じゃなく、うちの前の道路もやがて舗装され、泥ハネなんぞが軽減されるだろうなぁといった「日常の不便解消への期待」が吹田万国博覧会には逆巻いていたと……、思う。

 

 ハナシを戻すが、『妖怪百物語』の好きなシーンはといえば、池で鯉を釣ろうとする2人の浪人と、池周辺の佇まいだなぁ。

 草がボ~ボ~に茂った小さな池だけども、今観ると妙に鮮烈で、「土と自然への郷愁」というか、なるほど確かに怪異が起きて当たり前のようなフィールド感が演出されていて、実にまったく絵になっている。

 土地の老人に、「ここで魚をとってはいかん。たたられるぞ」とたしなめられるのを無視し、酒を呑みつつ鯉を一匹釣り上げた2人が、それを肴に場所をかえて一杯やろうと帰りかけると、池から声がする。

「置いてけ~ぇ」

置いてけ~っ

 で、これの説明はいっさいないんだけど、説明がないのがイイね。

 説明できないから怪異なんだから、な。

 2年後の吹田万国博覧会というのは、説明出来る合理で埋め尽くされたのだけども、岡本太郎太陽の塔と母の塔と青春の塔3点のみは、それを拒否したトコロがオモシロイ。

 百物語の池同様に不可解極まった存在として建ったのが、いいのだ。

 アーキテクチャーとかアートといった領域までを粉砕する呪術的表現が、合理を土俵際でうっちゃっている。

 ま~、だからそれゆえか、EXPO’70が終わった5年後にまで、全国の子供達・大人達が博覧会協会・施設処理委員会に向けて投書し続け、

「残してけ~ぇ」

残してけ~っ

 音叉ならぬ怨嗟めいたコダマとして声を響かせ、顔のある塔にエールをおくったワケなのだ。

  

 もっとも、その1975年には、お祭広場大屋根と地下展示室も残っていて、保存可能な状態であったコトを思うと、太陽の塔のみが脚光を浴びて、塔と対峙しつつ共存する大屋根と、塔の意味を強化させた地下迷宮空間が無視されたのは、まっこと……、残念なことだった。

 妖怪はニンゲンがいるからこそ炯々としている存在だけど、太陽の塔もしかりで、大屋根のない太陽の塔は、醍醐味のかなりを失って久しい。

 太陽の塔が見せていた大屋根がもたらす刻々の影とその反映を、今はもう味わうことが出来ない。炎天下に置かれた唐傘オバケ同様に、魅力が失われ……、気の毒でしかない。