ガメラ対大魔獣ジャイガー -1970年大映映画-

 

 1970年3月15日に開幕した大阪吹田での万国博覧会は、巨大で豪奢な、寄せ植えられた花々が一気に開花しきった見事なイベントだった……、のだけど、1970年というのを俯瞰で眺めると、輝きとは異なる面も多々あるのだった。

 

 たとえば、この年1月、中国電力は、

「公害のない現代科学の最先端を行く、花形産業原子力発電所

 というキャッチフレーズを掲げて、日生町鹿久居島(現在の備前市での原発立地を正式表明し、同町に申し込んでいる。

           雨の日、備前日生大橋から見た鹿久居島。2021年8月撮影

 

 既に1967年より中国電力は計画をすすめ、当時の県知事・加藤武徳は「誘致に前向きに取り組む」と言明していて、現場たる日生町うんと云えば計画実施という段取りだった……。

 対して日生漁協と頭島漁協は組合加入者全員が中電の説明会に参加し、ついで万国博覧会がはじまった3月に、自費でもって100数十人の組合員が福井県美浜や敦賀などの原発推進地を視察。

 

 一方で中国電力は、原子炉安全専門審査会の東大教授を日生町に派遣し、

「不安を感じるのは核アレルギーゆえ。原発は安全」

 と、いかもに御用学者らしい発言の講演をさせる。

 さらに中国電力は同年5~7月にかけて、日生町全世帯(一家から一人)を、11月より可動予定の美浜町原子力発電所(加圧水型商業炉)に招待し、その安全性をアピールした。

 が、逆に日生町のピープルは、不信を抱く。

 高温の冷却水がもたらす漁場荒廃を心配し、万が一の事故での放射能汚染による壊滅的被害を看過できないとした。

 日生町は漁協を中心に、自主的勉強会なども重ね、署名活動もし、反対表明の旗を降ろさなかった。海続きの隣県兵庫の漁協も賛同し反対の声を大にする。

 その結果として、1972年に加藤県知事が断念を表明……。

       

 以上の詳細は『原発を阻止した地域の闘い(日本科学者会議編・本の泉社)を参照されたいが、当方、鹿久居島にそのような計画があったというのをついつい最近に知って、

「あらま~っ」

 息をのまされた。

 不明を恥じつつ、狭く閉じた内海、その牡蠣の養殖地に原発を造ろうとした電力会社に、呆れた次第なり。

 シンガーソングライターの尾崎ツトム氏はこの鹿久居島の件を唄にしていらっしゃる。この唄を聞かなければ当方も知らないままに過ごしたであろうけど……、知っちゃったんだから仕方ない。明もあれば暗もあった1970年――――。

   
 

 

 鹿久居島のすぐ隣りの頭島の漁港で水揚げされたばかりのを、漁港そばのお好み焼き屋さんで食べたなぁ。ミックスお好み焼きが焼き上がるのを待ってるさい、サービスで提供されたんだ、ありがたや。

 

 さてと本題。

 万国博覧会開幕の1週間後3月21日に、大映が全国封切りしたガメラ対大魔獣ジャイガー』

 ガメラ・シリーズ第6作目で、舞台は、な~んと、その万国博覧会会場。

 かねてより、そのコトは承知ながら、な~かなか観る気にならなかったのは、その頃のガメラがさほど好きでなかったというコトもあるし、ましてやジャイガーの怪獣デザインが破綻レベルのブッサイクにも思えた…… ゆえなんだけど、ともあれこたび初めて、観たワケなのだ。

        

 大映の最後の断末魔……、と云っちゃ~気の毒だけども、大映倒産まぎわの作品だ。

 倒産は翌1971年だけど、既に同社内では会社が潰れそうだというのはスタッフ誰もが肌で感じていて、撮影予算もカッツカツ。 

 しかし当時、ほぼ唯一、一定の観客動員が見込めるガメラ映画ゆえ、現場では何とかしようという気骨が前面に立ってはいたようである。

 建造中の博覧会会場でロケもした。場内ではなく、現在の大阪モノレール線あたりからの撮影だったようで、建造中のエア・ドーム球体によるフランス館と清水建設の看板が背景に映ってる。

 が、世界アチャコチャの国家が参入のパビリオンを怪獣が破壊するというのは、リスクがデカすぎた。

 どっかの国から、どっかの企業パビリオンから、訴えでもされたら、オジャン。

 そも、予算がないから万博協会とのタイアップも取れていない。

 東宝は三菱未来館でミニチュア・ワークを含め特撮技術を活かした仕事をやってのけたが、大映は陽のあたる所に出られなかった。

 なのでモンスターが暴れるのは万博会場ではなく、大阪市街なのだった。

             通天閣に向かうジャイガー。もちろん、壊します♥

 

 1970年頃の日本映画は、TVに押されに押され、観客激減。

 大映も日活も青息吐息で、日活はロマンポルノに舵を切り、大映もエロ系な作品にシフトせざるをえなくなってた上に、大映最大のドル箱スター・市川雷蔵の死(1969年7月)で、いき詰まる。

 

 万国博覧会では360度のフル映像やら、スモークをたいてそこに映像をのせるとか、新たな表現としての映像活用に盛大なエネルギーが使われ、観客もそれを大いに堪能した次第ながら、映画館上映の映画は、1970年は最悪どん底の状態なのだった。

 万博で各社家電メーカーは自社パビリオンを設け、広告宣伝にも最大限のチカラをいれた。それでカラーTVの普及も加速し、多くの家庭が月賦(ローンとは当時はいわない)で買った……、のだけど、それゆえ余計、映画館にヒトの足が向かなくなっちまった。

      

           サンヨー館(鯉のぼりが目印だった) 長蛇の列……

            

                        同社の宣伝

 

 そんなさなかで造られたのが、『ガメラ対大魔獣ジャイガー』なのだった。

 よもや、こんな年齢になって本作に接しようとはゆめゆめ思いもしなかったけど、ともあれ観ちまったのだ。

        

                       当時のポスター

 主人公はエキスポランドで使われる遊戯用潜水艇の設計を仕事とし、下請け工場社長の子供を連れて会場に出入りする。

 一方その頃、南太平洋、赤道直下のウエスター島で発見され発掘された石像が展示物として持ち込み予定となるが、それは地底で眠る魔獣ジャイガーを封じた石像だったから、さ~大変……。

 遊戯用だったハズの潜水艇に乗り込んだ子供が海中に潜ってガメラの体内に入ったり、一施設の設計に携わっているだけの主人公がいつのまにやら博覧会運営者にまざって大きな顔で指示を出したり、ウエスター島の発掘調査をやった外国人博士の子供がいつのまにか大村崑演じる町工場社長の家にいるとか、さ〜さ〜大変奇っ怪の連打……。

                 大村崑が早口な関西弁でいい味を出してた

 

 70年万国博覧会が巨大な目映い光ならば、本作はその日陰の奥で小さく囁いた隠花植物と云ってもいいか。

 花がつかないままに本作は忘れられつつあるけれど、1970年という同じ土俵にあったのはマチガイないし、大横綱たる万博とガップと四つに組もうとしたのは、いい。

 何も壊せずの大惨敗じゃ~あるけれど、チカラを出し切ろうと努めた当時の撮影スタッフ一同には、拍手をおくりたい。

 会社が倒産すれば給料もヘッタクレもないんだけど、妻子抱えて路頭に迷うかもな、その恐怖をこらえてミニチュア造って撮影し1本にまとめたのは賞賛だ。 

 彼らが使ったエネルギー消費は万国博覧会のそれと変わらない。

 ま~、当方の眼では怪獣ジャイガーの姿はまったくカッコよくないし、東宝のそれと較べるとミニチュアの町並みも平坦で、時代の中の棲み分けとしてこの映画は、やはり「暗」の部位に置かれるとも思うけども、観た立ち位置によっては……、わけても当時はじめて怪獣映画に接したのがこの作品だったという子供にとっては、インパクトが尾をひいた「明」としての「大事な映画」というコトになるんじゃなかろうか。

 万博会場近くでのガメラとジャイガー。↑  なんか合成が変。スケールも変。

 手前の人達はどこに立ってるんだろ? 小さ過ぎるソビエト館はベニヤか何かで作ったセットらしきで、もちろん……、壊さない。ガメラは会場敷地内には一歩も入らない。(^_^;)

 

    

 プラモデル・メーカーだった日東科学が販売したキット。ゼンマイで動いたようだ。当時これを買ったヒトが多数だったかどうか、不明……。今はヤフオクで1万ちょっとのプレミアム価格で出品されたりもしてるけど、それが高いのか安いのか、これまた不明。

 されど3000人は見向きもしないけど、1人っくらい、本作に影響を受けたヒトが触手うごかし、買うかも知れないな。過ぎし1970年のメモリアル・グッズとして。