小庭の情景

 

 夕刻になると、縁側に座ってしばし束の間だけども、シガレットふかしつつボ~ッと緑を眺める。

 なんか歳をとるごとに、ごく身近なものを愛でる指向というか嗜好が昂じるようになって、それが老いたる証しなのか、ヨロシクない傾向なのか、よく判らないんだけど、ま~、しゃ~ない。

 ともあれ座して、ボ~ッ、なのだ。

 せいぜい10分程度のボ~ッだけど、この10分ばかりのボ~ッが存外に気分がイイのだから、しかたない。

 

 

 冬場に徹底的に刈り込んで骸骨状態だったセンダンは、そんなコトはなかったかのように大きくおごり、今や小庭のキング。

 周辺のアレコレな低木を見下ろし、陽光を独り占めの勢い。

 その闊達っぷりを、ボ~ッと眺めているさいの無我っぽい感触が気分イイ。

           西にセンダン、東に金木犀。その向こうにぶざまな電線————

 

 最盛期の頃より1/6くらいに減ったけど、金木犀とセンダンの幹には複数のセミがとりついて、やはりジッとしている。

 セミは当方のようにボ~ッとしているワケじゃないんだろうけど、それはそれで時間を有意義に食(は)んでいるんだろう。

 が、あと数日も経てば、今期のセミは失せてしまうだろう。いや、明日の朝には鳴き声が聞こえないかも、だ。

 

 イチジクがよく実り、さほど甘くもないけど、果実が採れるのは、ま~、イイことだ。この写真を撮った翌日も5ケばかり収穫した。

 近年は便利な製品があるねぇ。チーズソース。パッケージにイチジクのイチの字もないけど、サラダとしてイチジク。勝手にアレンジ。

 トマトとイチジクをカットしてソースとスパイスをかけるだけの簡単さ。けど想定外においしくイチジクを食べられる。

 毎年、収穫したものの全部は消費できなかったんだけど、この製品のおかげでイチジク消費増大。とっても増大。カプレーゼ風というのが判らんけど、おかげで食卓がにぎやか。これだけでワイン1本空いちゃうよ〜。

 

 この夏、もっとも気にいってる植物が一点。庭池改修後に植えたもの。

 名を忘れた……。

 忘れたけど、この存在はイイ。庭池のランドマークみたいでイイ。

 葉が圧倒的に柔らかいんだ。毛布のように肌触りが良くって、少しだけ葉を折って、あえて頬を撫でてみると、

「あらま~まぁ〜」

 極上に柔らかな筆やパウダーパフを凌駕するような優しい感触と柔軟に満ちていて、いささか感嘆させられるんだわいね。

 ぁ、パフで化粧してるワケではないよ。パウダーパフは模型の塗装(表層に若干の汚しを加える)で使ってるんでその肌触りを知ってるんだ。

 この感触はデシタルな写真じゃ伝わらない。針っぽく映り、とても柔らかなものに見えないでしょ? でも実際はヤ〜ラカイの。驚きのフンワリ充満。

 

 

 過日に毎日新聞が報じていたけど、大阪府所有のアート作品が長年にわたって駐車場に放置されている問題。

 記事に圧迫され、知事を筆頭に対処の会議が開かれたみたいだけど、一部の発言、メチャでハチャだったなぁ。

 デジタル化すればコトがすむらしい。

 

 

 正倉院の宝物すべてデジタル記録しているので、もう本物は廃棄します、みたいなもんだ。

 食パンの写真を撮ったんで、もう食パン買わなくていい、みたいなもんだ。

 そういう発想なら、この発言者が属しているらしき日本維新の会が推し進める「大阪万国博覧会」も、デジタルでいいじゃないか。

 無理してパビリオンを造らずとも、3D映像のみで会場と展示物を見せればすむじゃないか。

 1970年のあの万国博覧会とは状況がまったく異なるのに、いまだバンパクにしがみついているのも陳腐かつ笑止だけど、それを上廻る大笑い。こういう方が府を導く顧問だというんだから、嘘みたい。

 府顧問でなく腐顧問っぽい。

 

 庭の写真があるのでもう庭はいらないと云ってるに等しいような御仁は……、うちの縁側に座って欲しくないなぁ。

 いや、我が小庭が素晴らしいとかいうハナシじゃないぞ。作家の努力やら工夫は無視、なぜその大きさで作家はそれを創ったのかの問いもなし、作品の重量やら質感の配慮もなしで、ただただ、所有作品をデジタルに置き換えちゃえば本物は廃棄可能という、その発想の下劣な貧困に貧乏神を視るようなアンバイ。

 だから、そういう御仁は門前でお帰り願いたいわけだ。