100年前の勝山の植物

 

 勝山へいく。

 目的は、真庭市立中央図書館。

 9月初旬まで「100年前の植物標本展」という展示があり、それを見たさに出向く。

 

 九津見肇というヒトがこの地にいて、彼が明治42年から44年にかけて、採取し標本化した実物の展示だ。

 明治時代の最後の頃の学者さん。勝山尋常小学校で教員をしつつ、採集に励んだ。

 牧野富太郎だけが植物に眼を向けていたワケでない。

 牧野は高知から東京へ出て裾野を拡げたが、九津見は産まれ育った地の植生探査にいそしんだ。

 

 江戸時代、九津見家は作州勝山藩・三浦家の筆頭家老職。九津見肇は最後の家老となった吉衛門の長男として明治19年に生まれる。

 明治45年(大正元年 - 1912)、26歳で北海道に移住。大正6年に上京し歯学を学び、以後は小樽で歯科医院を営み、後に北海道歯科医師会の副会長となった。勝山から北海道、教職から医師へと、ダイナミックな人生だ……。

 

 落合の写真館で撮った彼の写真が今に残る。

 当時流行りのヒゲ顔ながら、牧野と同じく、九津見さんもオトコマエだ。助手もいい顔している。

     九津見氏が肩にかけているのは植物採集箱。牧野氏も似通ったのを持ってたなぁ。

 

 2人とも、凜々しい、といってよい表情。

 しばし、ほれぼれ、写真をば眺める。

 明治期頃の若者のポートレットに共通するのは、マッスグな気配、が高いという一点かな。

 南方熊楠しかり、牧野富太郎しかり、そして九津見肇しかり……。

 21世紀の今、こういうマッスグな表情の青年写真って、あんまりないような気がしていけない。損得勘定を見積もってもいない清廉と、見詰める対象を決めている気配の濃さが顔を彫塑しているわけだ。

 

 ま~、それはさておき、100年の歳月に浸透されて茶色になっている諸々な植物標本をば眺め、その100年の長大をシミジミひしひしと感じ、味わう。

 サクラソウも、ある。

 100年前には勝山でも普通にあったのかも知れないが、今現在の岡山県では蒜山にのみ自生が確認されている植物……。暑さにとても弱いらしい。

 ということは、気候変動はなはだしい今後はさらに自生が難しい植物ということにも、なる。

    現在の自生のサクラソウ。100年前の九津見氏採取の標本には微かながらこの色彩が残ってた

 

 展示された実物は12点と少ないが、明治42年から44年にかけて、彼は勝山の植物を徹底観察したようである。その採取標本が今に残っているわけだ。

 NHK『らんまん』での牧野富太郎ブームがなければ、この展示とて企画されず、死蔵されたままだったろうとも思うけど、ともあれブームのおかげで埋もれた人物とその丹念な仕事っぷりがクローズアップされたのは、イイことだ。

 

 見学後、やたらに小麦粉にこだわっているらしきうどんの店「如水庵」で食事。7種類の小麦をブレンドしているとかで、色はあさ黒い。

 漬物もリンゴジュースもすべてオーナー店主の手作り。うまかった。

 

 食後、勝山の町を散策。いまだ……、暑い。雨雲も接近してやたら湿気も高く少し歩いただけで汗アセ・あへへ〜。

 それゆえか、閑散。ほぼ誰もいない。

 ここを歩くのは数年ぶりだけど、暖簾の統一があいかわらずイイ感じ。一帯感が町のカタチを創る良き見本……。

 ひどく暑かったけど、秋の気配がにじり寄っているのは確かで、写真にこそ撮らなかったものの、旭川沿いの1本の柿の木にはもうヤヤ紅い色をした実がなっていて……、今年8月の店じまい、サマ~の終わりとオ~タムの到来を意識させられた。

 

 100年前九津見さんも、季節のうつろいと、それに伴う植物たちの変化を興味津々で眺めいってたんだろうなぁ、と思うと親近がわいてくる。

 と同時に、九津見肇さんは廃れていく城下町をライブで眺めていたはず。九津見家も時代の流れに巻かれ、ま~、それゆえに新天地としての北海道で再スタートを切ったと思えるのだけど、北海道に向かう直前の数年を故郷の植物探求に費やした彼の気分というのは、どのようなものだったのかしら?

 郷里への想いとその決別の重さが、今に残る採集標本には2重の凄みある「愛おしさ」として潜んでいるよう思えてしかたない。