庭池のホテイアオイは毎年寒くなると、枯れるにまかせ、朽ちきった頃合いに捨てざるをえず、翌年のあったかくなった時期に新しい株を買って投入というのを繰り返していたのだけど、今年は越冬を考えた。
ホテイアオイは元々は南アメリカの湿原に生息する水生植物ゆえ、高温と陽射しには強いけど寒さにはメチャ弱い。
水温が10度を下廻ると、
「ぁあ、僕ぁ、もうダメだ~ぁ」
一気に枯れてしまう。
しかし、水生ながらこの植物は土植えでも生存出来るようなのだ。
むしろ土に植わったモノの方が耐久力のある個体となるようなのだ。
それで、鉢植えにトライしてみる。
たっぷりの水と、陽射しがあれば、現状でつけている葉はボロボロになるけど何とか越年するらしいから、秋になりきった頃合いで室内にいれ、窓辺に置いて様子をみようとの……、作戦だ。
成功するかどうかは判らないけど、手間暇かけるのも、ま~、ヨロシイでしょう。
越冬してくれたら、新たなのを買わなくてイイ。
まだ10度を下廻るような寒冷ではないけれど、刻々と水温低下ぎみ。夏の盛りにみせた旺盛は消え、葉も勢いがない。
ならば、早めに土に移植してみようじゃないか。
玉状の部分が浮き袋の役割り、これで水に浮いてるワケだね
根は一見は黒々漆黒に見えるけど光にかざすと上品な醤油みたいな紫色があらわれる。
この根を短めに刈ってから、水生植物用の土(田んぼの土と同じ)におろした。
しばしは庭池そばに置き、いよいよ寒くなった頃合いに、家の中に入れてみようと思っている。今年は大量に繁茂したので、全部を土移植できなくって、
「選ばれたモノと、そうでないモノ」
の明暗が点滅し、池に取り残されたホテイアオイに不憫を思わないでもないけども、ま~、こたびは……、観察的実験ゆえ、しかたない。
岡本太郎の太陽の塔は、このあたりの消息をよくよく表現しているような気が、しないではない。
あの3つの顔(正しくは4つ)の意味あいを、小規模な庭に重ねみる。
太陽の輝きの元での生と死を大らかな讃歌のカタチとして提示した岡本太郎……。ホテイアオイの移植で、その死生観的哲学がチラリンとよぎった。
鉢植えにして数日後、1つが花をつけた。フムム。
環境によっては水質浄化などに効能ありだけど、世界中で「いささか困った」現象も引き起こしている。
甲子園球場より広くって年中温暖な池や湖が魚が生息できないほどに浸透されたりで、駆除の対象になっていたりする。
黒紫の繊毛めいた根をドンドン伸ばして拡げ、水中酸素を奪い、魚の遊泳を阻害するんだ。それゆえ、当方の小庭でも定期的に根を刈り込んでいる……。
ベネズエラなどの原産地から、いつ外来種として出ていったのかは諸説あるようだけど、概ねで、1884年(明治17)に開催されたニューオーリンズ万国博覧会での植物展示が拡散のキッカケらしい。
珍しいモノの陳列としてホテイアオイもその内の1つだったんだろうけど、さてさて、ではその“真犯人”はといえば、「明治政府が出展した日本館」という説があって、これまた諸説風聞がうごめいている。
日本館で大量のホテイアオイを無償配布したという当時の記事もあれば、種を配ったとも云われ、また同館の庭園で育ち過ぎて敷地外に出た……、などなど今となっては検証できないけども、
「そっか~、万国博かぁ」
そのあたりのヒストリーを俯瞰すると、チョイっと感慨深い。
1884年の万国博での日本館。西洋の工業的重機なんぞはなくって、せいぜい該当するのは水車ぐらいしかないけれど、良性の絹糸の産地としての江戸時代からの特性を展示し、併せてその物産を大々的に販売もした。併設の日本庭園にホテイアオイを多数浮かせていたのだろうか……
次いでを申せば、ラフカディオ・ハーンが日本がイイなぁと感じいったのが、このニューオーリンズ万国博覧会だった。
彼は当時、ニューオーリンズ地元の記者で、博覧会を取材、かつ自身もこの地域独自の料理本(クレオール文化)を同博向けに出版などしておりますなぁ。
で、同博覧会で知り合った日本人(明治政府の派遣-日本の教育文化の展示担当となった教員:上写真)服部一三を介して、日本での就職先などを決め、単身やって来るのだった、ニッポンに。
結果、外来種たる彼が、日本人そのものが忘れかけつつあった良きニッポンを再提示して、在来種たる日本の人々に、「ぁ、そうかぁ!」とビタミン注射的効能を発揮してくれたんだねぇ。
フムフム。