昨年に淡路島やら出雲方面を共に旅したお馴染み6人でもって、高知へ向かう。
こたびは、仁淀川の透明清廉な青色をしっかり眺めようというツアー。
毎度、高知方面に出向くたび、近くを車で駆けて視界に入れてはいるけども、しっかり味わうコトをしていなかったゆえの再認識ツアー。
1ヶ月以上前にプランしたものの、6人のタイミングがなかなか合わず、そのうちに1人が肘を骨折して入院とかアレコレあって、ヒトツキまたいでようやく合致で、レッツ・パーティ。
いつもなら坂出北ICを降りて、まっさき早朝に香川のうどんツルツルなんだけども、今回はパス。
ダイレクトに高知に進み、高知市内「とさのさと」で地域食品を物色。
今回はイタドリを調理した食品を探す。
岡山では着目されないけど、先般出向いた岐阜の高山では普通に売られているのと同様、高知でもイタドリは定番の地域惣菜。
路肩に自生した雑草でしかないイタドリの旨味を白川郷近くの蕎麦屋で味わい、蕎麦以上にその塩漬け味が忘れがたく、イタドリ料理のより本場らしき高知のものをと、探す。
食品衛生法の紋切り型な安全第一の政令で、この6月より地域の人達が作って道の駅に置けた少量の食べ物が置けなくなりつつあって、高知での影響はどんなかしら? 住まいと作業場は別棟でなきゃダメとかの杓子定規な達し……。採ってきたイタドリを煮るには家の台所じゃペケって、
「あのね〜ェ」
絶句しちまう次第。
国家が地域の食文化を破壊しちゃ〜いけないハズなんだけど、粉砕しつつあって、うむむむ。
高知市内からおよそ1時間弱かけ移動。中土佐の海を見下ろす絶景地、黒潮工房でカツオのたたきをば、味わう。
毎度、ここだけで堪能できる滋味の深み。
ワラ焼きという素朴な調理法でもって土佐海の豊穣に魔法がかかる。
表層をあぶっただけながら、カツオの鮮度が閉じ込められ、時としてバターがとろけるような香味ある感触がやって来て、舌が驚き、悦ぶ。眼は眼下に広がる海を泳ぐ。
何度味わっても、毎回、感嘆させられ、飽きることがない。
併せて、プリっとした肉付きのよいアジとサバの干物も七輪であぶって、食べちゃう。
食後、久礼港近くの西岡酒蔵で、いつも通り、清酒・久礼の一升瓶を買い求める。
2週間と経たず飲み干してしまうから、この酒蔵がウチの近くにあったらなぁ、とも思わないわけでもないけど、遠くにあるから価値が光るし旨味も増すのさ、と瓶を抱きかかえる。
さぁ~、仁淀川方向にGO。
また車を駆けらせ、高岡郡佐川町の「牧野富太郎ふるさと館」を見学。むろん、佐川町は植物学者・牧野富太郎が生まれた町。
資料展示の規模は牧野植物園のそれに較べはるかに小さいけど、なんせ、彼の生家跡だ(造り酒屋・岸屋)。
展示物よりも、こんな場所で彼は生まれたのね……、という感慨がはるかにデッカイ。
酒造家の跡継ぎとして生まれるも、酒はたしなまず、江戸時代からの家業は親族に任せ、ひたすら野にいって足元の種々に眼をこらした、この人のカタチが面白いったらありゃしない。
牧野家(岸屋)は跡継ぎ長男が植物学者への道を歩むゆえに、酒造りの権利を売り、それが現在の司牡丹という大きな酒造メーカーの母体の一部となっているし、場所とてすぐそばなんだから、おもしろいったらありゃしない。
司牡丹酒造の大きな白壁の家屋。これの端っこに位置しているのが牧野御大の生まれた家
牧野富太郎は酒には目もくれず、趣味としてでなく学術として、路傍の名もなき草花に、1つ1つ名をあたえ、1つ1つを観察してその生態を克明に記したそのデッカイ仕事の質と量に、近頃やたらと庭の草木が気になる当方としては、いわば聖地だ、巡礼だ~ぁ、みたいな感じ無きにしもあらず。
おそらくきっと、牧野御大もここに住まっていた頃は、イタドリをフツ〜に喰ってたろうなぁ、とも想像した。
館内に展示された、かつての生家・岸屋の模型
東京へ出る前の若き富太郎が偲ばれる展示品たち
館内売店で牧野グッズを物色の骨折女史
館の裏庭(山の斜面)には牧野ゆかりの植物が丁寧に育てられていて好感した
その舘の近く、昨年末に新たに出来た「まきのさんの道の駅」を探訪。
植物園が併設されてるワケでもないけど、あれこれ地域の特産品が並んでる。
一応、自分で演じてみる……
仁淀ブルーを直視できる場所。
ウチのすぐそばの汚い用水路(50〜60年前はタンボの中の用水路だったので綺麗だったけど今は宅地化でペケな排水路となりさがり〜)と比較してはいけないけども、
「なんちゅ~こっちゃ」
透明度と色合いに、フイに頬をぶたれたような衝撃をおぼえ、ただもう息を吞まされた。
安居渓谷にある「水晶淵」にて
そこでもう一押しと、さらに車で上流へ移動。夕刻に近くなってしまったけど「にこ淵」を訪ねる。
20年ほど前までは地元のヒトも出向かなかったそうだが、たしかにその通り。とんでもなく狭い道。とんでもなく急峻な階段……。
けども、そこに限りなく透明に近いブルー、があった。
夕刻ゆえに空の蒼さが水面に反映されずだったけど、太陽が高い位置にある時刻なら、その水面に空陸逆転の倒錯すら感じられるだろうと察した。
水面に空が拡がり、飛び込めば、泳ぐのではなく、飛んでいけるような錯綜をおぼえるはず……、とみた。
インターネットには、概ねで、
不純物の少ない透明な水は、光の波長が長い他の色を吸収してしまい、波長が短い青い光を反射するので、青く見える。 仁淀川は急峻な地形で流れが速く、不純物がとどまりにくいうえ、水温が低く藻が繁殖しにくいため、高い透明度を維持していると考えられる――――
というような記述があって、理屈は即行で判るにしても、眼は理屈でなく、むしろ不自然に接したような、奇異に近い感覚を受け、ポカ~ンと開きっぱなしになる。
要は、心動かさせられているワケだ。
しかし一方、こういう澄明な光景をマノアタリにして、
「ぁぁ、癒やされる~」
とか、
「心、洗われる~」
とか云うのは、イヤなんだ。
そうそうカンタンにヒトは癒やされるものなのか……、理屈っぽい気分がムックムクとわきもするんだな。わざわざ仁淀ブルーを見に出向いてるクセに、だ。
たぶん、汚濁に久しく浸かっているゆえの、清純清浄への抵抗が体内にあるんだろう。
ともあれ、眺めた。陽射しの温もりを背に感じつつ水の冷たさを掌にすくい、満足した。青い澄明に一種のショックも受けて、よかアンバイだった。
車の中で、1967年のヒット曲、ジャッキー吉川とブルーコメッツの『ブルー・シャトー』が何故かアタマに浮いてきたので、しかたない、
「モリと~ イズミに~ か~こ~まれたぁ~」
口には出さず、メロディをおった。
ブルーという所で脳が反応したのだろうけど、もっと気が利いた連想は出来ないもんかしら……、このコトのみ、ツアーの旨味からひとさじ分差し引かれ、残念だった。