5年ぶりの秋本節

 高知での2日に渡る徒歩連打ゆえ、帰岡した翌日から今ゲンザイまで両脚ふくらはぎが筋肉痛。

 宏大でアップダウン多々の植物園の徒歩漫遊と、翌日の高知城の多々な石段に天守閣の急斜な階段テクテクテクの影響ゼツダイ。

 日頃の運動不足がここで顔を出し、「それみたコトか」とあざ笑う。

 ま~、でも、けれど、そこをプラス思考で考え直し、この筋肉痛もまた旅の良きメモリアル……、と解釈して、傷んだアシをさすり~サスリ~。

 

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 高知から帰った翌日、小庭のセンダンの木に新芽が出ているのを見つけ、

「オっ!」

 眼をはった。

 よ~く観察しないと判別できない1ミリ程の芽吹きながら、昨年末に徹底的に刈り込んだゆえどうなるかしらん? と不安混じりだったから、

「そうかぁ、生きてたかぁ」

 安堵する。

 1ミリ程のそれが、夏から秋にかけてどう育ち、どれっくらい大きくなっていくか……、チョイっと心躍らされた。

 

 

 ちなみに、高知から帰ってグーグル・マップを眺めて気づいたのだけど、「せんだんの木」という店があるんだよ、高知城のすぐ手前に。

 仔細をみるに、どうやら高知市役所内の食堂らしい。

 一般ピープルも利用できるようだ。

 なぜに、「せんだんの木」なのかしら?

 名前として、かなり珍しいのじゃなかろうか。

 いささか興がわく。

 ま~、でも、わざわざ確かめにまたぞろ出向くというワケにもいかない。たぶん、かつてそこにセンダンが大きく広く枝を拡げ、界隈では目立った木として市役所建造以前、それなりに知れていたような場所であり、樹木であったような感が、濃い。

 1つのアイコンというかランドマークとして、大きなセンダンの木がおごっていた……、のだろうと勝手に想像し、その空想の根をおろしてやろう。

 

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 センダンとは関係ないけど高知は『自由民権運動』発祥の地。若き牧野富太郎もその自由と平等を求める立志社に参加していた。

 土佐の人にとっては外来種でしかなかった山内家による長期の差別的圧政による多層の苦難が、この結社の下敷きとしてあったんだろう。

 立志社跡は今は小さな公園となり、構造物としては石碑があるきりで、観光スポットでもなんでもないけど、大きな石に、

自由は土佐の山間より出ず

 と彫られているのが、イイ。

 気分としての誇らしさと気概がグッと前面に出ていて。イイ。

 石碑の横手には大きく育った樹木が涼しい木陰を造っていて、当方、ハトと一緒にしばしベンチで足を投げ出したワイ。

 

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 筋肉痛が半減した頃会いの日曜夕刻、某BAR2階での秋本節のライブ。

 アキモト ブシと読んではいけない。節と書いてタカシと読むミュージシャン。

 アキモト・タカシを味わうのは、5年ぶり。

 コロナの抑制が解け、氏も全国ツア~を再開で、久しぶりの岡山入り。

 当方もチョイっと早めに入ってリハーサル時点から諸々ヘルプし、本番をば聴く。

 

                リハーサル中

 

 ギターの音、錆びて渋い銀色の歌声。良い感じ。

 彼のオリジナル曲の多くはスロ~なペースでありながら、良質な水飴をすくうとどこまでも伸びるみたいな高低の伸びやかさがあって、聴くたび、その伸びの渋さに、

「うふ~っ」

 と、痺れさせられる。

 ジェット・コースターとは云わないが、ゆっくり動くコースターが弾みをつけてグッと駆け上ったり、さがったりの、その緩急ある伸びある展開の楽曲と、ゆるやかな社会批評がらみの歌詞も、ヨシ。強い風刺でも糾弾でもなく、日常の点描として歌詞に織り交ぜてらっしゃる視点の透明さが、イイ。

    

 

 終演後の打ち上げ(Wakame Mizumicihi 手作りのレバーとポテトサラダを久々に堪能!)で談笑し、笑ったり頷いたりして、しばしホッコリした時間を過ごす。

 でも時々、ほぼ無自覚に、ヒッソリ足をさすり~サスリ~。