チョイと前の夕刻、宇野バスに揺られてたら中区役所前で2人組が乗ってきて前席に坐ったのだけど、聞き慣れない方言だった。
むろん盗聴という次第ではないけども、その会話の大半が意味不明だったから余計に気になった。
たぶん、どこかから出張されてきたんだろうけど、それで、遠い昔を思い出しもした。
大学に入った時、はじめて他県の人達の肉声に接したコトなどを…。
青森から来た人が2人いて、内1人は同じアパートに住まって大の親友になったけど、当時は学生が個人で電話など持ち合わせていない。
アパートの管理人室の赤電話での、呼び出しだ。
で、その青森の彼がお国のお母さんと会話してるのを横で聞いたことがあって、さ〜さ〜、それがもう異次元的、何を云ってるのか皆目サッパリ判らない。
まことに失礼じゃあったけど、そばで笑い転げてた…。
一方で、彼もまた、ボクの話言葉が「可笑しい」と笑う。
「ま〜、おたがいさん」
というアンバイではあったけど、でも、たとえば、文章での表現となると、お互い、そこでは岡山弁でなく、青森弁でもなく、地方色が抜けた共通認識可能な"書き言葉"になるんだった。
そのことがず〜〜っと気になっている。
ダブルスタンダードとして、話言葉と書き言葉をボクらは器用に扱ってるワケで、ちょっとした不思議をおぼえてたワケだ。
なので数年前、網野善彦の『日本の歴史をよみなおす』に、このダブルスタンダードのことが触れられているのを読んだ時には、なんだか嬉しくって、
「おっ、網野先生もそうか!」
と、ほくそ笑んだりした。
むろん、氏は歴史学者だから、書き言葉の変遷を克明に追ってカタカナの使用がどういう経緯であったかなどなどをあぶり出し、話言葉、口頭による日本語世界を、
「じつはきわめて多様な民族社会」
であって、
「日本の社会はいまも決して均質ではない」
と、結んでくんだけど、文章表現としての言葉の方にウエイトを置かれてるんで、ボクの抱えたクエスチョンへの直かの解答ではない。
けども、文章表現というカタチでもって方言という多様性を均一にし、そこではじめて相互理解可能な状態を生じさせたという見解は大きく頷けるんだった。
この本ではじめて知ったけど、カタカナはその地方言語たる方言をそのまま記述するという用途が、当初にはあったようなのだ。
いささか万能なヒラガナに較べ、カタカナは当初から少数派というか、特殊例としての範疇で使われていたらしき…、なのだった。
ボクが学生だった頃と較べると、昨今はずいぶんと方言というカラーが薄まってる。
でしょ?
コンビニみたいに、均一度が進行してるワケだ。
なんか、少し、惜しいような気がしないでもない。
去年と、今年も、ジャズフェスのスタッフ仲間らとの談笑時、だんだん使わなくなった自分達の方言の数々を持ち出しては笑い転げたというコトがあったけど、さらに20年も経てば、いよいよに…、
「けっぱんじ〜た」
だの、
「ちばけな〜」
だの…、失われる可笑しみもまた多くなるんだろうな。