好みのモンダイなのだけど

Aさんには綺麗なものでもBさんにはそうでもないというコトは、多々ある。
これを「好み」の一語で片付けていいかどうか… ボクには判らない。
けれど、好みというのはあくまでも自分のものであるから、自分の好みは自分で表現しなくちゃいけないし、それをア〜だコ〜だと云われたった、どってコトはない。
誰かにその好みはダメですよと云われて、それを受け入れちゃったりするのは、まだ自身の好みのベースが出来てないからだ… と思う。
スタイルといってもいいかな…。
スタイルを、自身のスタイルを通し貫いている人は、だからカッコいい。
ボクの好みじゃないけども、自身のカタチを持ってる人は、だからカッコいい。
ゴッホにそれをみたし、ダリにもそれを見た。
一方で、波長がとても合って、鼻っから好みなのもある。
絵画でいえば、エドワード・ホッパーがダントツ一位。
音楽の世界でいえば、ブライアン・フェリーがそうだ。
昨年だかに彼が出したアルバムは実に10数年ぶりなものではあったけども、変わらない普遍なテーストが音の最初から最後まで貫かれていて、
「ありゃま〜」
感嘆させられるまま、ここ数ヶ月の愛聴のトップにある。

単調な、うねるような、波の繰り返しのような、大きな起伏がない楽曲の連なりながらも、気がつくとハッキリと浸食されていく気配を感じられる音…。
いつ聞いても、彼の声にはどこか風邪をひいてる時に発せられた声のような特質があるのだけども… その鼻声めくボーカルの背景の音の組み立て方の細やかさには、いつも舌を巻く。
弛緩しつつも昂揚され、昂揚されつつも醒めていくような、ひんやりとしたシルクの滑らかさとそれが織りなす起伏のエロチックを体温化させたようなサウンドの連なり…。 
ジャケットへのこだわりも彼は尋常ではなく、その方向と味覚がROXY MUSIC時代から連綿と続くものであるコトにまた喜色が沸いてもくる。
変わる、とか、変わらない、といったレベルではない… 好みのモンダイ。
新しいとか、古いとか、そんな領域を取っ払った… 好みのモンダイ。

昨日の夜。デザイナーのCHIKAちゃんがやって来て我が卓上のモノを見てクスクス笑う。
iPhone用のスタンドをペーパーで自作していたのを見て、クスクス笑う。

「作ったんですか、これ?」
「うん、気にいったスタンドがなかったんで」
と、こちらもクスクス笑う。
ケーブルを付けたまま置けるコト。
ケーブルコネクター部分が変に曲がらず、ゆとりあるコト。
縦置きとして、iPadと同じ傾斜になるコト。
などなどを考慮した上で金属光沢があるコト。
なにより実用品であるコト。
でもって、
「結果として、こういうカタチになりましたわい」
と、一応告げる。
レオパード柄のものはシルバーフイルムを使ったけども、たぶんこれはゴールドのそれを使うべきだった… とも思うけど。
デザイナーの目にどう映ったか判らないけども、これも好みのモンダイだ。
でもって…、
「あの人の伝記は読んだんですか?」
問われたので、
「読んでないし当分読む気もない」
と、答える。
「彼を一人のアーチスストとして捉えた文なら、読むかも」
と、加える。
たぶん、そうなのだと思う。
20年近く前、彼がMacintosh Plusを出した時の、あのボディの中の署名を思い出す。
わざわざ金型に自身の名を刻み入れたというコトは、彼が"製品"を出したワケではなく、"作品"を出したというワケだ。
かのトランスルーセントiMac以後の快進撃で従業員が3万人もいる大企業になっちゃったけども、彼の本質はアーチストでしょ。
3万のスタッフを使ってのアートの創成だったよう、思える。
過去に事例のないカタチでのアーチスト。

だから、今の、ビジネスシーンとか経済とかITとかを核にしたアレコレなジョブスに関する文章は、あんまり意味がない。
カリスマだの、わがままだの、冷徹だの… 意味がない。
パブロ・ピカソを、わがままだからな、冷酷だからな… とつぶやいても意味がないのと同じだ。
ジョブスは、たぶんにまだ言葉を多く与えられていない、まったくもって真に新しいカタチを模索したアーチストであったと… ボクは思う。
3万人にも及ぶ社員を束ねる会社のトップというカタチなれども、内実は、その3万をフル活用した創作物製作というコトであったと、ボクは思うのだ。
その"新しさ"は、当然にピカソにもダヴィンチにもないものだ。
70年代にウォホールはシルクスクリーン印刷による美術の量産をはじめて、それもまた1つの革新であったろうけども、ジョブスはそれをインダストリアルの領域にまで広げたと思うし、その規模たるや結果として、とんでもないものだった。
亡くなる前の彼がアンドロイド携帯に強く反撥したのは、それは販売シェアを奪われるとかな企業的見解ではなく、純然たる"自身の作品"への模倣があまりにヒドイからと、ボクは解釈する。
グーグルよ、おまえは作品を作れないのか!?
と、彼は苛立ち腹だったのだと思うのだ。
結局は、「作品」なのか「製品」なのか… というコトになるのだけども、ジョブスのスタンスはまちがいなく、「作品」のそれであったとボクは感じる。
かつて、ゲイツマイクロソフトに反撥したものの、ゲイツの中に"アート"が皆目ないと判った途端に、ジョブスはもうマイクロソフトに興味を抱かなかったし、逆に、『ジャンルの違う世界にいるゲイツ』に一種の友愛を感じてもいたかと思う…。
そこら辺りを自身の声として発生するコトなく世を去ったのがいささか哀しい。
そこら辺りを代弁出来る作家として彼は今回の伝記の筆者に託したのかとも… 思えるのだが、たぶん、それは反映されていない。
ま、ともあれど、今こうしてジョブスの作品を持って使えているのは、これは大きな悦びだ。
それはさておき… ホッパーの絵画には本を読んでる人がかなり出てくる。
なんだか判らないが、そこがボクの好みなのだな。