ミス・ポター

ビッグマックとケンタッキーのフライドチキンは年に二度ばかし、ものすごっく欲しくなるコトがある。喰いたくって喰いたくってタマランわいと野蛮になる。
ビッグマックの場合、バニラ・シェイクも一緒でないと満足出来ない。それはもうダンコに。この2つは味噌と湯がごとくに、併せないとミソシルにはならないものなんだ。マックにコークだろという人もいるけれど、ボクの場合は、それっきゃない。
映画にも似通うトコロがあって、定期的にあの暗闇のシートに腰を落とさないと、どうも落ちつかないという感じのヘキがある。
8月と9月はなんだ〜かんだ〜と慌ただしく、美味しい映画が多々あったのだけども都合がつかずで、まったく出向けなかった。
ま〜るで時間がとれないというワケでもなかったけれど、心理的に映画でもあるまいという抑制が効いていたのかもしれずで、とにかく映画館に向かわなかった。
その弊害が出た。
油のシミみたいに、ジワジワジワジワと飢餓が浸透してたようである。一週間ほど前から、もうタマランという感じの、乾燥した焦燥がドンドン湧いてきて、
「ああ、ダメ。辛抱出来ない。何でもいいから映画館にイッちゃう〜」
てなコトになった。
で、この火曜日。
何でも良いといいつつも、作品名やら内容やら上映時間をチャンと調べ、
「やはり10月は小粒な作品しかないな〜」
てな感想を浮かせつつ、数分の吟味で、一作をば選ぶ。

映画館はシネマ・クレール
映画は「ミス・ポター」。
ハリー・ポッターの亜種かい・・ と映画館のスケジュール表を見たさい、そう思った。
写真(ポスターの)を見ると、そのミス・ポターが微笑んでいるのだけど、意地悪そうな表情に思えて、気にいらない。
『「ピーター・ラビット」の作者ビアトリクス・ポターの恋と波乱に満ちた半生を描く感動作』というキャッチ・コピーとうさぎのイラストで、はじめて、
「あ、これ、伝記みたいなのね」
ってな大事なコトをやっと理解する。
他に強烈に観たいという作品もない。時間の都合も良いので、これに決める。
きっと、ピーター・ラビットの作者というのは意地の悪い女だったんだろな・・ などと勝手に決め込んだりする。
映画というのは・・ ビッグマックの場合なら、ダダダッと出向いてガツガツワシワシと食べてしまえばイイが、上映の時間が決まっているワケだから、自ずとそこにこちらを合わせねばイカン。
この、合わせるというトコロから映画はスタートしなくちゃイカン。
「お、あと4時間後か・・」
てなトコロから映画は始まるワケだ。

いつでも最初っからご覧になれます〜〜ってのは、映画館ではない。
映画館に行くという行為を、愉しまなくちゃいかん。
かといって、前記の例えとしての4時間を、その映画の下調べに費やすとかいったコトはしちゃイカン。
予習は断じて、ダメ。出来るだけ日常を装い、平然と、平穏に、青い空なんか眺めちゃって、
「今日はよい天気だね〜」
などと雲の動きを薄らボンヤリと追っていたりするのが、イイ。
食卓のイッチャンに美味しいモノを最後に取っておくように、映画館に行くんだという、その時間の緊縛を愉しむのだ。
で。
本題だ。
前振りが長いぞ。
ピーター・ラビットというくらいだから、あんまりオトコのコはいないであろうと予測していたけど、そうだった。
映画館の中はオンナのコしかいなかった。
後ろも、左も、右も、シートに座っているのはオンナのコであった。
オンナのコというと弊害がある。チラリと見渡すに概ね30〜40代の女性ばかりって感触だ。
そこに我が輩はポツネンといる。
「あのおじさん、きっと、メルへンっっぽいのが好きな人なのよね」
ってなコトを後ろのシートに座っている2人の女性は思っているに違いない。
「あのおじさん、あ〜みえて、ベッドカバーなんかにかわいい絵柄のを使ってるんじゃない〜?」
ってなコトを、右や、左の女性らは思っているのかも知れない。
座った場所が悪かった。
ボクが館の中点に位置し、前には誰もいない。いわば館内の視線を浴びやすいトコロに座っているワケだ。5.1chサウンドの一番響きのいい場所と思えば居心地がいいが、女性の視線を一身に浴びる場所かも・・ と思うと居心地は悪ぃ〜イ悪ィ〜い。
よもや、映画館のシートに座るコトに飢餓してココにいるボクのカタチ、なるは誰も判っちゃいないのだ。
「っるせ〜。こちとらウサ公なんざ興味はね〜〜やァ」
勝手に被害妄想的窮屈をおぼえて息苦しくなる。
早く、暗く、なれよ〜〜。

・・・・
暗くなって、映画がはじまった。
安堵が頭の頂点から足の先にまで浸透した。
イイぞ〜〜。
この暗くなって、映画がはじまるというのが、ボクは好きなんだよ〜〜・・ こっそり法悦する。
二ヶ月ぶりだな〜、このいい感触・・ 愛用の毛布に久しぶりに包まれたような感じにニンマリ頬が緩む。(ライナス的な症候だね (^_-))
ミス・ポター」は、とにかく、ポスターで損をしていると思われる。
映画の中のポターさんとポスターの中のポターさんの微笑みは全然一致しない。
ポスターの表情からは映画の中のポターの魅惑が読み取れない。
ポターさんは絵を描くことに専念して結婚しないと自身に誓った女性なのである。
そのコトをボクが知ってたワケじゃないよ。この映画を観て感想を述べているんだよ。
てなワケで結婚しないと決めた人は自ずと化粧っけもない筈で、そこいらをこの映画はうまく表現して、実に素晴らしい。
なのにポスターは、その辺りの素朴さがない・・ 素朴の中のふくよかさを全然表現出来てない。
そこが残念なり〜、なのだけど、この映画は思わぬ良作だった。大作ではないけれど小粒の良く磨き込まれた玉石めいた絢爛があった。
主役のレニー・ゼルウィガーさんがとてもチャーミングなのが大きな丸である。ヴィクトリア朝時代の戒律と階級という身分格差の中にあって、その上位に位置する家に生れたゆえ異性と対等に接するコトもままならず、また当時の社会環境から考えて、当然ながら彼女は処女の筈で、その処女性がこの映画は実にうまく描かれているよう思えた。
たぶん、どこにも書かれていないと思うけど、断じてそうだと思える。
処女性がこの映画の核だ。
もはや少女という年齢ではない。だから少女というカタチでなく、処女である女の呼吸を映画は伝えなくなくっちゃいけね〜。
そこをこの映画は上手に描いている。
頬の赤み、ソバカス、言葉、仕草・・ 精妙なメイクと卓越の演技でもって、少女の年齢ではないが処女たる一人の絵本作家の無垢な輪郭をうまく浮き上がらせている。

話は実話に基づいているようである。
彼女の作品を出版にと漕ぎ着かせた編集者との恋は、彼の突然の死によって成就しない。その悲嘆と悲痛を乗り越えて、やがて彼女はナショナル・トラスト運動の先駆者となっていく・・。
20世紀の初頭ながら、ちゃ〜んと著作権というものがあって作者のポターに印税が入っていくというのも驚きだ。あったりまえのコトだけど、いささか驚きであった。
話を戻すが、婚約して、幸せの絶頂期の悲劇だ。最愛の人の死。けがれのない無垢に対してあまりに酷烈な現実だよ。
でも、この映画を良性たらしめているのは、その悲劇を前面に出さなかったトコロだと思う。いや、もちろんと、その悲痛はしっかりと描かれているのだけど、痛みよりも喜びに、この映画の軸足は置かれていると感じたね。
恋して、やがてプロポーズされ、自身も結婚を決意した直後の、ポターさんの喜悦に監督は力をいれているぞ。
部屋の中央でポターさんはワナワナと泣くんだ。嬉しくて。
その表情をじっくりと見せてくれるコトでポターさんの喜びがヒシヒシ伝わってくる。いよいよ自分も"女(おとな)"になるのだという自覚と決意とが喜びとして、うまく描かれている。
半生を描いているから起伏はあるが、哀しみとか悲しみといった悲嘆でなく、描写の軸足は"喜び'なのだ。
それが後半の、開発業者らが入札で競り落とそうとする美しき景観を、ポターさんが守ろうとする意志と結ばれてくるワケだ。愛するものを守るという気概だ。裕福な女のきまぐれとしてではなく、筋の通った、糊のきいた、清廉さの永続としての景観への慈しみ・・だ。
個であった愛がより大きな包括的な愛に変貌していくワケだ。
おそらく、そこいらの無垢なるものの暗示が、この映画のポスターには欠落しているのだと思う。
清潔感はあるのだけどさ。惜しいね。
というワケで思わぬ良い映画に出会えて、二ヶ月ぶりの飢餓は溶けた。
館を出るさい、ロビーで、一緒の時間を共有した女性の一人が、わざわざ振り返ってこっちを見た。右側に座ってた人だ。
興味をもってくれてありがとう。
悠々と外に出てタバコをくわえ、おじさんは電車道を信号無視して渡り、向こうの路地にと消えてった。