難しいと面倒について

「難しい」と「面倒」は言葉は違うけれど薄い被膜で隔てられただけの親族に思える。森羅万象すべてがそうではないけれど、日常の中で「難しい」と「面倒」はよくよく遭遇しては融和する。
ペーパーモデルを作るさい、それが問題になってくる。
ボクは既存のペーパーモデルを作っているワケじゃく、ゼロから、作図からはじめる。資料を集め、ア〜しよ、コ〜しよ、と思案しつつ展開図を作っていく。これは当然ながらとても愉しい。
基本としてA4サイズの紙。そのペッチャンコの紙の中に展開図を描いていく。ペッチャンコだけど切って丸めたり折ったりすると、そこから立体が立ちあがってくる。二次元が三次元なモノになっていくのを我が手で具現する愉しさったら、何にも例えようがない。ワクワクしちゃって夜更かしヘッチャラな昂悦の時間を過ごせる。で、一応描けたトコロでもってプリントアウトし、もちろん、モノによってはA4一枚だけというワケじゃなく、複数枚に渡るA4の展開図をプリントし、それに今度はハサミを入れていく。カッターナイフで切り抜いていく。次いで、貼っていく。組み合わせていく。そうすると不具合が出てくる。想定通りに組み合わなかったり、サイズの微妙な相違があったりもする。時にはひどい間違いを犯し、ゼンゼン違った形になるパーツも出る。そこで工作の手を止め、眼の前のマックのモニターの中の展開図に修正を加える。これも楽しい。不具合を生じたコトにちょっと残念な気分もあるが、それを修正で払拭していくのだからマイナスではなくプラスなご気分なワケだ。
ボクが使っているのはAdobeIllustrator CSだ。図面構築の専用CADではない。ましてや3次元構成が基本の3D-CADではない。その3D-CADを使った企業製品とて試行錯誤の末に物品は生れているワケで、図面描きとしてのIllustratoでは錯誤はたぶんに当たり前と思わにゃ、ならん。錯誤そのものが愉しいといってもイイ。モノ作りの醍醐味のかなりの部分はこの錯誤の中にあるように思える。とにかく頭の中には模型は確固としたカタチで出来上がっているのである。それを手で、マッキントッシュとプリンターとハサミとノリでもって頭の中のものを実体として作るワケなのだ。そうやって浮きつ沈みつ、満ち引きする潮のような按配でもって進退させる内、やがて、どっかの瞬間に、フイに、フィニッシュの時期が来る。もうこれ以上に手直し修正はしなくてもいいなと思われる、瞬間である。往々にしてそれはマックに向かって図面を修正している時に生じる。もはや手直しは、ない。
と、そこからが問題なのだ。
展開図は出来た。
フィニッシュしたのだ。
すなわち、我が頭の中の模型はマックの中に移行され、それにて"行為"は完了してしまったのである。またプリントして切って貼ったせずとも、もう出来ちゃったのである。
でも、これは困るのだ。なぜなら、具象としての模型は眼の前にないのだから。作るという行為なくして模型はないのだから。でも・・ もう完結しちゃってるもんだから、その完結をカタチに現すという"行為"が、とてつもなく面倒なものになるのである。これはすごくおかしいコトで、徹夜もいとわず励みに励んで修正を加えた過程は何だったんだと・・ 訝しむばかりに、フイに、ここに至って面倒さが生じてくるのである。そこまではプリントアウトして切った貼ったを厭わなかった癖に、いざ展開図が最終を迎えた途端に、そこから先の肝心な模型工作そのものが難しくなるのである。
わっかりますかァ? この複雑な心理・・。
早漏という男性にとっては痛切な一語があるけれど、チョット、それに似ているトコロもある。気持ちはアト5分、アト10分は持続させと〜ございますと思っているものの、身体の方が先にイッちゃうアレである。模型の場合、同様な現象ではあるけれど、この場合、心の方が先にイッちゃって身体が置いてけぼり・・ となる。市販のキットを組み立てるといった模型行為にはこんな現象は起きない。オリジナルなものを作る時にだけ、この早漏的現象は起きる。なにしろ頭の中では、もうほぼ完璧な模型が出来ちゃってるワケで、そこから先、実体としての模型を手で作業する分だけ、なんか面倒なのである。だから、ペーパーモデル製作は難しいのだ・・。
 ● 製作過程を物語る写真:奥の銀色は最初のモノ。これが発展して左手前のモノになり、窓のサイズが間違っていたりアチャコチャ修正を加えて背後右のようになり、それを再度、右手前のようなトコロまで持っていって・・ まだ模型として完成してはいないのだけどマックの中には出来上がった展開図がある。こっから先、もう一度作るのが面倒なのだ・・ (>_<)