ポプラ文庫のルパン

この前、カバヤの工場を見学したさい遭遇したガラスケース内の「カバヤ文庫」。
とてもハッピーな気分になったんだけど同時に、何かよく似た"文庫"が手元にあったような憶えがある。
でも一向に思い出せなかった。
それがどうも引っかかっていたんだけど、5〜6日経って、ようやく正体が見えてきたもんだから、以前は我が作業場で今は物置と化した小屋にはいって、束にして引っくくってる本の山にあたってみた。

あったあった。
カバヤ文庫」に接した頃と時期同じくして親しんだ"文庫"がただの1冊だけど、まだ残ってた。
「ポプラ文庫」の『怪盗ルパン全集』の1冊だ。

あら、懐かしや。
1965年の版で、この時点でもう12刷だ…。
この大きさはまさに「カバヤ文庫」と同じもの。(ここで云う文庫は、ポケットサイズのあの小さなヤツではないよ)
ボクが子供の頃に読んだ本で、かろうじて1冊、捨てられずに残ってた。
"子供時代"という括りの中で、カバヤが先かポプラが先か、そんなことはどうでもいい。
本の表紙を眺めて、1番にワクワクさせられていたのが、この"子供時代"だったんだな… と、いまさら気づかされた。
中身よりまずは表紙だね。
この絵でスイッチが入るワケだ。
今あらためて眺めるに、全体の装幀もいい。
かなり傷んで日焼けもひどいけど、部屋に持ち帰って、およそ50年ぶりにページをめくって見ると、これが面白い。
そのままたちまち読み耽った。
「ポプラ文庫」のは子供向けに南洋一郎が大幅に縮めたり伸ばしたり脚色したりで、ルブラン原作の完訳ではないけれども、この場合… それでいいのだ。

こたび、上記を契機に名作とおぼしき数冊の「ポプラ文庫」をアマゾンに注文したんじゃあるけど、ルパンというキャラクターは、なんでも吸収していじってみたがる日本人には実にうまく適合する性質を帯びてるんだろ〜ね。
南洋一郎しかり、モンキー・パンチしかり、さらには宮崎駿と… 原種から派生した新たな花が幾つも開花してる。
まったくヨーロッパ的風土じゃないのにうまくこの日本の土地に根をおろしてるのは、たぶん、ヨーロピアンなアレコレを持ってないがゆえの憧憬が土壌にあるんだろうね。

一方で、作家ルブランはほぼ全生涯を通じてルパンをシリーズとして書き続けて、しかも極めて早い時期に自身が作中に登場するというカタチを創ったがゆえにか…、年齢を増し作品数が増えるに連れ、それが肩の荷になっていたようだ。

晩年には警察に「家の周辺にルパンがいて見張られているようだ」といった被害届けを出していたりする。
たぶん、そのあたりの苦悶を英国のアガサ・クリスティーは聞き知ったんだろうね、かのポアロ・シリーズの一篇『雲をつかむ死』(1935)に、自作に登場する探偵がさも実存してるような本気な言動を繰り出す奇態な作家を登場させているけど、ルブランがモチーフじゃなかろうかとボクは思う。しかも舞台はフランスだ。(正しくはフランスと英国間の飛行機の中だけど)


ま〜、そんなこともどうでもよろしい。カバヤ工場の展示通路で「カバヤ文庫」を眺めたおかげで、忘れていた「ポプラ文庫」のルパンがボクの中に再登場したというハナシ、なのだ。
今回、複数の版をアマゾンで求めたけど、やはり、最初のハードカバーがいいね、「ポプラ文庫」は。
表紙の硬さからくる手触り感とそのサイズゆえの重さが表紙絵とうまくマッチして、今一般的な"文庫サイズ"のそれに較べて随分と風格がある。
いや、風格というよりも、中身に相応するメカタを感じると云い直そうか…、ナイロン地のカーテンかビロードのカーテンかといった所での感触の差だろうね。
かといって重すぎるワケでもないから、表紙を眺め、色刷りの口絵を眺め、そのまま寝っころがってお布団の中で足のばし、ヌクヌクとしつつ愉しく読めるというのがイイ。

近年は寝っころがって何ぞ食べちゃうという習癖を禁じてたけど、このルパンは… 禁を破いてピーナツなんぞをポリポリ囓りながら読みたいな〜、と思うことしきりなんだ。
50年ぶりに接した『奇厳城』に、ルパン所有するところの潜水艦が登場していたなんて… 忘れておりましたワ以前の、
「おほっ!」
てなもんなのだ。



※ 19世紀から20世紀に変わる時代のトレンドの1つは、明らかに潜水艦ですな。
ヴェルヌの『海底二万里』が1870年。
これを先駆に、ルブランのアルセーヌ・ルパンの『ハートの7』が1905年頃。
ドイルのシャーロック・ホームズ、『ブルースパーティントン設計書』が1908年。
で、ルパンのシリーズ中で白眉と思える『奇厳城』が1909年。
探偵ものの括りで強いて加えるなら、クリスティも『潜水艦の設計図』でポアロを活躍させてるけど… これは1951年作だから時代の潮流というところではちょっと違う。