笛吹童子


上写真は7日土曜のライブ前のリハーサルの様子。
音が編まれゆく現場にいるのは幸いだ。な〜かなかの緊張感が味わえた。


さてと。
『笛吹童子』を読む。
橋本治の脚色バージョン。
「ヒャラ〜リヒャラリ〜コ♪」
の、あれ。
「鉄仮面」や「義経伝説」や「里見八犬伝」やらやらを混ぜこぜた上で独自なカタチにした北村寿夫原作ラヂオドラマの、その小説版。
前半部のゆったりした感触が、最後半でもって急峻な説明的記述になって、流れとしてはクエスチョンがあるものの、愉しめた。



魔性をおびた"されこうべの面"を顔につけた途端に悪に身が染まる件りは、なにやらダースヴェーダーを思い起こす。
けども、その『スターウォーズ』がライトセーバーという武器でもって善が悪に対峙するのと違い、『笛吹童子』の主役は武装を放棄するんだ、ヨ。
剣を捨て、能面師となるべき精進し、その過程で笛を奏でる。
笛吹きが他者への慈愛であり、かつ、自身に対しての無心というトコロが、この小説のカナメちゃん。


ラヂオドラマ『笛吹童子』は昭和28年に放送され、大ヒットになった。これは日本初のマルチメディア的作品の最初の事例で、あるらしい。
ラジオドラマ→映画化→小説化・マンガ化→たびたびのTV映画化 という図式。東映はこの映画化によって屋台骨を頑丈にしたというホドの大ヒット(3部作)であったらしい。



時は応仁の乱のころ。だから足利幕府が瓦解し、戦乱で京都が丸焼けになってるころ。
主人公の菊丸は丹波の国・満月城の城主の息子(次男)だけど、明(今の韓国あたりね)に渡って面作りの道を歩もうとしている。
やがてアレあってコレあって、彼が産まれた満月城は武装集団の手に墜ちる。
彼は兄の萩丸と共に日本に帰国。
兄は、殺害された君主たる父の敵討ちと城の再興に躍起になる。
けれど、菊丸は… 眼の前の敵へではなく、悪そのものに関心し、武装集団が仰ぐ"されこうべの面"に対抗すべくな面(能面)を作りたいと苦心腐心を重ねる。
彼は武装しない。
面を作りつつ、手にするのは愛用の笛のみ。
事あればそれを、吹く。



主役を演じた中村錦之助(のち萬屋錦之助・彼の最後の映画出演が『本覚坊遺文 千利休』


敗戦後に制定の、例の9条でうたわれた平和国家の宣言的憲法に、主人公の武装放棄はみごと重なる。
笛吹けば人踊るは「ハメルーンの笛吹き」で実証済みながら、この物語では、"悪者への憎しみよりも悪者を気の毒に思う”、という180度回転した発想で貫かれる。
したがって… チャンバラ的時代モノという範疇では"戦闘場面"が実に希薄。
悪者はバッサバッサと斬り殺されない。ただひたすらに笛の音によって悪者のフトコロに飛び込み、改心をば願う。
いや、それは違う…。改心を願うのではなく、笛の音に浄化を託して接っしようとする。
これは容易ではない。同時代の『赤胴鈴之助』君だって、
「剣をとっては日本一の…」
と、刀を用いた。
『笛吹童子』はそうしない。
殺意ある者を前にしつつも、ただ笛を吹くのみの無防備。
相手の心に音(ね)で訴えかける。
『ヒャラ〜リヒャラリ〜コ』の主題歌は俗っぽいけども、容易でないからこそ素晴らしさも増す。



こういう作品が昭和28年に作られ、今も、いささか希薄になっちゃ〜いるけど、リメーク小説が編まれていることは心強い。
リメーク(1998年刊)した橋本治をして、「今だからこそ、この『笛吹童子』を読んで欲しい」とあとがきに書いている。
たんなるチャンバラ活劇物語でないのは明白。

いきり立った敵対者に向けてただ懸命に笛を吹くという行為は、ある視点からみれば自殺行為に等しい。
一見、非論理な情緒的行動に見える。
けども、実はそうじゃ〜ない。
武器を持たず笛のみで対峙する姿勢は、たえず死をも覚悟の背筋の伸ばし方。
情緒で動いてはいない。むしろより堅牢な論理行動そのものだと思う。
いかんせん… 昨今、そこの取り違えが甚だしく、怖いほど。