プロジェクタースクリーン

 平日月曜のライブというのは、むろんあり得ないワケではないけども、やや少ない。

 そのやや少ない日程での「嶋津健一ピアノコンサート」。

 ゲスト歌手に我れらが、なかだたかこ。

 チラシも我れらが、Yukoちゃん。

 客席のアッチコッチにジャズフェスやら別の某会やらの我がお仲間。

 なかなか良い感じなライブ。

 嶋津のピアノは一音一音が堅実で澄み、オリジナルの一曲一曲が小窓から眺める四季の景観のよう。

 16年間一緒に暮らしたネコを想っての「はな」という曲は、眼を閉じて聴いてると彼とはなちゃんの楽しかったであろう午後のいっときのようなものが感じられもし、それが今度は逆に、小窓の中に、ピアニストとネコがいて戯れている様子が窺えるよう。

 この曲の出だしはやや重く聴こえ、それはおそらく愛猫の死を間近にした嶋津の未整理な気分を音符に乗せ換えたものなのだろう。それが次第に軽やか軽快になっていくのは、ネコのはなちゃんと過ごした日々の充実への追想であろう。

 嶋津は演奏前に、はなちゃんへの思いは「ただ一言、感謝です」と言ったけど、その情愛の深みは聴いていてよ~~く判ったし伝わった。

 いいライブは時間があっという間に過ぎる。

 帰宅すると荷物を発送した旨のメールが届いてた。

 

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 火曜に荷物が届く。プロジェクター用スクリーン。

 水曜。終日の雨天。九州方面は大雨とのことで佐賀県在住の若い友にモシモシ。自分のところは大丈夫であります、とのこと。ホッ。

 週末にやろうと思ってたけど、せっかくの雨だから前倒し、荷物を開封。スクリーンの取り換え作業。

 日常の大半を過ごして居座っている環境はさほど広くないから、スクリーンは書棚の上でロール状に巻かれ、映像を観るさいは棚を覆い隠すようにして展開させる。

 その白いキャンバスを手で巻いて上部で固定するのは1分ほどのコトでしかないけど、2mほどの横幅のものを左右均一に巻き上げるにはチョイとした慣れと辛抱が要る。たいがい綺麗均一に巻けない……。

 

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 背丈が高いから毎度に脚立も要る。ま~、脚立は大げさなんで丸イスの上にのっかってスクリーンの上げ下げをする。

 まったくもって難儀するという次第には遠いけども、これが日々、映画を観るたびの一仕事となると……、面倒になる。堆積して苦々しい味になる。

 だから、映像を眺め終えてもスクリーンを展開したままにすることも多くなる。

 しかしそうすると書棚にアクセス出来ない……

 

 という次第で、ワンタッチ自動で巻き上がってくれるスプリング・タイプに換えた。

 スクリーン・サイズもちょっとだけ小さくし、72インチ。

 丸イスの上にのらなくていい。ガレージの金属シャッターの開閉時に似たガラガラガラ~ッな音が可笑しいけども、勢いよくほぼ瞬時で左右均一に巻き上がってくれる。

 なによりこれで、本の取り出しが容易になった。楽勝かつ効果甚大。

 

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                      新旧のスクリーン

 

 きっと人生とは、日常の小さいな不都合をプチプチ潰しては改修する、その繰り返しを言うのだと大袈裟に納得しぃ~しぃ~、スプリング機能の動作確認をと何度か上げ下げさせし、スクリーンとしての簾(すだれ)のことをチラリ思った。

 その昔、天皇は閲見の者に向けては必ず御簾(みす)を隔てて対面した。

 茅や竹を編んだものだったり薄い布であったりと材質あれこれ。多くは黄色がかった着色がなされていたらしいが、これは皇室の菊色の連想か?

 上げ下げには御簾(ぎょれん)という専門の係の人がいて、ロールカーテンのようにチェーンがあるワケはなく、まして当然、電動やらスプリングはない。

 面倒なご対面というしかないけど、御簾というスクリーンが「向こうとコチラ」の結界として意識され、身分の違いを具象化するにはなかなか良い装置ではあったろう。

 灯りがある側はスダレ越しにその姿が見え、ない側は見えない。たいがい、平伏している側が明るくされ、天皇側からはその姿が見えるも、ひれ伏した側からはスダレが見えるきりで座した天皇は見えない。

 スクリーンというのは、それを意識すると、なるほど不思議な装置じゃ~ある。

 

 数年前、中国銀行本店前広場での『ちゅうぎんまえジャズナイト』にプロジェクター投影を導入することになり、どのようなスクリーンがもっとも低予算かつ効率よく綺麗に映し出せるかを検討のために、Kurozumi君の事務所にメイン・メンバーが集まって、いろいろテストしたことがある。

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 市販のスクリーンやら農業用の透明な大型ビニールシートやらやらに前年度のビデオ映像を流して試し、イチバンに安くて綺麗に映ったトレーシング・ペーパーでの上映を決定したのだったけど、半透明だから、スクリーンの反対側にも映ってるワケで、当然にそれは像の左右が反転している。

 さほど大きな意味はないけど、妙におもしろい光景だったから印象深かった。

 画像を投影すれば半透明なモノが半透明ではない映像として現出し、投影する側からは反転映像と共にそれを眺めてる人物たちも見えるという、その「2重のヴィジュアル」がおもしろかった……

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    2017年9月30日。中国銀行本店前広場でのトレーシングペーパー・スクリーン(右)

    ライブステージは中央の奥・立ち見黒山の人だかり。今年も9月28日(土曜)にやります。

 かつてジュール・ヴェルヌは『カルパチアの城』で、映像の醍醐味をまさにマジック的機械仕掛けとして提示し3D映像の登場を予見していたけど、実体がないのに実体のように見えるという不思議の面白さに彼は既に気づいていたのだろう。

 いや正しくは、面白さと同時に、その装置(スクリーンという単語はまだないにしろ)が結果としてもたらすデッカイ哀しみを予兆していたのだろう。

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 そのヴェルヌをいま現在の世の中に連れて来ちゃったら、彼はCGあたりまえの映像の氾濫に、驚くというよりも、たぶんあきれて閉口し、憮然とした顔になるような気がしていけない。

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 それは彼のごく初期の作『20世紀のパリ』で描いた暗い未来、科学技術が人間本来の姿を失わせる元凶にもなるというペシミスティックな気分をただ裏打ちしてしまうだけかもしれない。

『カルパチアの城』で彼が、映像の中にしか存在しない女をヒロインにすることで、それに触れられない男のもどかしい悲しみを暗示させたように、スクリーンという投影装置は、どこかはかなく、近くて遠いものを意識させてくれる。

 

 ま~ま~、てなコト書いて秘めやかな暗鬱に浸ってるワケじゃない。装置一新で逆にささやかに昂揚している次第。ヴェルヌ原作の『悪魔の発明』をまた観ましょうかの。で、観終えたらワンタッチでスクリーンが巻かれてくのを、早く眺めたかったり……。

 ということは、いっそピョンピョン跳ねるスプリング効果……、『霊幻道士』がいいか。

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             何度観ても感嘆の、カレル・ゼイマンの『悪魔の発明

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                バカだね、買ってきちゃった、よ。