ウオーターマンの万年筆

ボクは万年筆を集めたりする趣味はないけど、万年筆というカタチは大好きなようだ。
何本か持ってるし、めったと使いはしないけど時々はインクを入れたりもする。
インクを充填させた後はちょっと詩人をきどって、そこいらの紙片にチャラチャラと何事か書いてみたりもする。どうもボクの中では何だかワケのわからない"きどった気分"が生じるのだが、あげく、
『明日の夜食にカレーを喰う』
とか、
『かぐやとカゴヤとナゴヤは似てる』
とか、
きどった詩人はどこさ行ったべさ… な文字を羅列するだけなのだ。
あげく、自分の名と住所を記したりする。
継続的に万年筆を使うことはない。
結局は"きどり"も"きおい"も生じないボールペンが主流なのであって、万年筆はまた机の引き出しに仕舞い込まれるのだった。
だから日常の中に万年筆は、ない…。
でも、最初に書いたように、万年筆というカタチ、万年筆という存在は好きなのだ。
文字を書くという行為の最高のカタチが万年筆のように思えているのだ。というか、何か書けるような気にさせてくれる道具なのだから… 好きなのだ。
でだ…。
「本年度の岡山JAZZフェスティバルを終えたらボクはちょっと引きこもりになるよ〜」
と、ここ数年よく通ってる某ダイニング・バーのYママに宣言した通り、イベントが終わった途端にボクは自室に引きこもった。
ここ数ヶ月を遠心力でもって生きてたけど、イベントから解放されたんで、今度は求心力なのだ。
躁から鬱への移行だと診断しちゃうのはイヤだけど、遠心が求心に移行するのは心地よい。
またその逆も生じてくると判っているから、引き籠もりは苦じゃないのだ。
そんな求心的気分のさなかに、いわば必然のようにして、万年筆が登場するのだ。

フランスのウオーターマン社が90年代半ばに、「Phileas Fogg」という万年筆を売り出した。
ペン先に金は使われていない。だから高価なものではない。
実際、ウオーターマン社はこれを同社の万年筆の中では廉価版に位置付けていた。
だがデザインが素晴らしい。
1930年代のアールデコそのものだ。
本体部分は大理石のマーブルな色調を思わせて蠱惑深く、その上端には金色の、葉巻のラベル(シガーバンド)に似た刻印が輝いている。
で。
何が一番の要かといえば、その「Phileas Fogg」という名だ。
この名はジュール・ヴェルヌの小説「80日間世界一周」の主人公Phileas Fogg(フィリアス・フォッグ)からとったものなのだ。
廉価版という位置付けながら、意外なほどに書き味よろしく、かつデザインが持つオールドな華麗さが受けて、この「Phileas」はウオーターマン社の代表作の一つになった…。
でも、これが数年前、ついに絶版、生産終了になったんだ。
したがって、入手は市場に出ているものに限られるという次第。
部屋に引き籠もってヴェルヌを読んでるうち、どんどん、この万年筆が欲しくなった。
前記のように、実用としてボクはそれで文字を紡ぐワケではないんだけど、ヴェルヌの主役名だもんな〜… という点で濃く魅かれてしまうのだった。

遠心でブンブンと動いてる時にはたぶん所有の願望なんぞはコレっぽっちも生じないんだろうけど、求心の重低音が我が体内には響いているワケで、そんな心象の中にこの「Phileas Fogg」はス〜〜〜ッと入って来た。
でも絶版。すでに丸善にも紀伊国屋にもなく、そこいらのペンを扱う大小な店先にもない。
なもんで… オークションで、ボクは一本、買い求めた。
想像したものより、すこぶるカッコがいい。
深い青色の中、雲のような、波のような、マーブルな色調が踊っていて見て飽きない。
モンブランには、その名も「ジュール・ヴェルヌ」という完全限定仕様の万年筆があって、これはあまりに高額なのでとてものコト買えないけれども、この「Phileas Fogg」は良い逸品だと、ボクは大いに満足してるのだ。
その青いダークな色調に「80日間世界一周」や「二万里」や「月世界」や「アドリア海」が見えるようなんだ。
まだインクも入れてないけれど、久しぶりに"持ってる嬉しさ"を味わってる。
なんつ〜〜〜たって… ヴェルヌの紡いだ主役の名だもんな。
というワケでボクは、この万年筆「Phileas Fogg」を撫でつつ、DVDで、ヴェルヌ原作の1962年に作られた20世紀FOXの「気球船探検」を観ちゃうのだった。
でもって、体内にまたぞろ、遠心が廻り出すのをボクは感じるのだ。
人間の心理というのは不思議なもんだよね。
たぶんね、ヴェルヌという作家も自己の体内のそんな遠心と求心に苦笑していたと、ボクは思うよ。