神勝寺にいく

 

 雨天となった日、福山の神勝寺に出向く。

 1年ほど前、講演で御一緒いただいたN女子大の上田教授より、

「日本の建築家を1人あげるなら、藤森照信でしょう」

 魅力を聞かされた。

 その藤森作品の寺務所が神勝寺にあるのだった。それで気にはなっていたのだけど、たまさか、Yちゃんが神勝寺に行きたいと申うされたのが冬のさかり。

 行きたいベクトルがっちり合致。

 あったかくなった今がチャンス。天皇交代に託(かこ)つけた、やや意味不明な大型連休……。その人の波にのまれる前に行っちゃえという次第。

 しかし、チョイスした日に雨が降る……岡山神社音楽祭の雨天中止以来の雨、何でこのタイミングで降るのかしら、く・ち・お・し・や。

 

 広島県福山市へなら、いつもなら車でゴ~だけど、あえてこたびは新幹線。

 あっという間だから旅情に遠い。

 福山在住のオッ友達に松永駅まで迎えに来てもらい、車を出してもらいと、いわば送迎付きのラクチン・ツアー。

 福山駅まで迎えに来てもらってもよかったけど、なんだか電車旅情をも少し味わいたく、それで福山で乗り換え、2駅西の松永駅で下車。

 オッ友達がこの駅近くに住まってるというのも理由だけども、ともあれ雨の松永駅、そこから松永湾の巨大な貯木場をちょいと見学後、神勝寺へ。

 

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 このお寺は栄西臨済宗建仁寺派の禅寺というのが基本。だけど広い境内はワンダーランドっぽい。

 開山は1965年(昭和40)。ずいぶんに新しい。

 その新参がゆえ、供養主体の寺よりもヒトの集える場としての寺のカタチを考えて、努めて間口を広くにしたのだろう。古刹風味と現代アートを並列にし、寺空間をNOW先端に昇華すべく努めてらっしゃる、という意味でのワンダーランドだ。

 だからこの場合、テラクウカンじゃなくジクウカンと、ヤヤ気持ちを膨らませぎみにハツオンするが好かろう。

 一見、一望しただけで、相当な経費がかかってるんだろうと了解できる。

 その支出と収入の行方も気になるけど、そこは問うまい。造船関連の地元企業がスポンサー的な母体ともきくけど、自力でもって維持しているらしき風情の天晴こそが、ここは肝。

 

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 川池のある広大な庭。いやはや……、「広」と「大」の2字がピッタリの空間展開。

 庭。滝。点在の家屋。複数の見事な茶室。

 いささかアッケにとられ、

「あらま~」

「ほほ~」

「へぇ~」

 傘さしたまま、感嘆符のみが口からこぼれる。

 日本の茶の湯のスタート地点を整地して茶の専門書『喫茶養生記』を書いた栄西臨済宗だから、茶室があるのは、ま~、こじつけ的じゃ~あるけれど、悪くない。

 ここは歴史的ストーリーを味わう場所ではなく、日本のテーストを味わう場と思えばいい。それゆえのワンダーランドと思えばいい。

 

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             茶室「一来亭」。利休の一畳台目の想像復元家屋。

 

 ピカピカお天気での見学よりも、雨中の日本家屋の佇まいの方が、「イイじゃ~ん」、こじつけて自分を納得させもしつつ、広い空間に身を置くと、明治の廃仏毀釈を思わずにはいられない。

 それまで多くのお寺さんは広大な地所を持って、良くも悪くも権勢をもって光輪を輝かせてた。けど神道国家の道を明治政府が決めてお寺さん大打撃。土地を奪われ境内を狭められたばかりか暴徒によって仏像を壊されもした。

 だから、神勝寺の境内を歩いてるとその圧倒的広がりに、明治以前の寺の景観を思わずにいられなかった。郷愁としての明治以前をすこ~し味わった気分がわいた。

 

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                     寺務所「松堂」

 藤森照信が創った寺務所をはじめて直に眼にする。

 写真で見たよりはるかに、インパクトが高い。

 絶対的に新しくはない。新しくはないけど斬新だ。いささか矛盾する言い方だけど、佇まいの落ち着きに常に新鮮な風があたってる……、という感触があって、その感触がいつまでも消えそうでないという処から斬新という一語が明滅し続ける。

 

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 藤森照信作品は、屋根の上に木を植えて、住まいと自然を一体化させるのを特徴とするけど、この神勝寺でもそれが味わえる。

 植生したことで、いわば家が呼吸をしているんだ。

 銅葺き屋根に赤松を植えてるのは、神勝寺界隈に赤松林が多々あるかららしい。地域の自然形態を住まいに取り入れたというコトらしい。

 樹木は育つものだから当然に赤松の根も太く長くなっていくはず……。そこを思うと30年、50年先のこの寺務所がどのように木に覆いつくされるか、あるいは、そうはならずか……、興味深い。

 

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  アンコールワットの石の家屋はガジュマルの木が強靭にからんで蚕食にかかって浸透し、放置すれば200年先には人造は自然に駆逐されるであろう様相を見せているけど、その実証実験の先端を藤森作品には見るようで、お・も・し・ろ・い。

 ただこの神勝寺の家屋では屋根と樹木を明快に分けての造りのようで、必ずしも一体化してるという次第ではないようだ。

 けど……、家屋もまた自然に呑まれゆくものとの想定でこれが創られたとは思いたい。

 そうであるなら、ボクがいささか好感ぎみの宇宙的な醒めた眼差し、ユーゴーの小説『レ・ミゼラブル』的なものじゃない嗚呼無情な境地を体現の寺務所というコトになるだろう。家屋の風化という現象は衰退を意味するだけじゃ~ないとも、考えたいワケなのだ。

 

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※ ガジュマルは沖縄地方での名で、”カラマル”という意味合いらしい。さすがに赤松ではアンコールワットほどのコトにはならいけど根は浸透してくるはず。上写真は判りにくいでしょうが、寺務所屋根のテッペンに赤松があり、メンテナンス用の階段がしつらえられている。

 

 神勝寺はとにかく面積広大。岡山後楽園よりはるかに広い。高低差もバツグン。

 入口そばの寺務所・松堂で、

「境内最奥の荘厳堂まで徒歩15分です~」

 と聴いて、ヤヤあきれた。

 その境内広庭に飛び石みたいに、川あり伽藍あり茶室ありミュージアムな家屋あり、さらに湯殿ありと……、全体を見て歩くだけで時間が過ぎてく。

 

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                荘厳堂の庭

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 食事もとれる。 

 ちょうど昼時だ。

 坂道途中にある五観堂という処で、水車を眺めつつ、神勝寺うどん、というのを食べる。

 3枚組の器「持鉢」と雲水箸が、ここが寺だと否応もなく意識させ、ある種の気分を造ってもくれる。きっとこの場合、お味がヨロシイとかマズッっとかではなく、御食事を頂けることへの感謝気分を昂ぶらせなきゃ~いけないのだろう。

 薬味のみでお揚げも天麩羅もついてない1000円を超えるうどんを啜った経験はほとんどないけど、気分は禅だ、禅行だ、ありがたく頂戴をする。

 

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 修行僧は食の作法では音をたてずが要めらしいけど、四十九日の日はうどんを食べておかわり自由の上に、啜って音をたてさせるのが肝心とのこと。

 そこの由来と加減がよく判らないけど、ま~イイや。

 それなりにズババッ……、音をたてさせる。

 

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       雲水箸がうまく使えず、つい中腰になって1本つかんでる我が良き友。

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       ご飯も出る。うどんツユでチャチャッと流し込みつつ、お椀を綺麗にしていく。

 修行僧の食の光景でお馴染みのタクワンでもって、椀を拭くようにし、残さず平らげる……、そのタクワンを自分土産に買った。

 賞味期限の記述がジツにNOW、

「ぁ、こう来るか」

 ってな感じ。

 

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 飽和したお腹を抱え、さらに境内を歩く。

 今年初めに出向いた曹源寺の凛とした深閑を思い出す。

 同じ臨済宗の禅寺。

 けども、かたや境内の立ち入りは可能なれど閉じて観光化を拒むカタチ、かたや開きに開いてアートを加え風呂も食事も提供で観光化の最前線というカタチ。

 この相違もおもしろい。

 どちらが正統とか正解とか、どちらが良いというものでもなく、両者はコインの表裏であって、しかもどっちが表でどっちが裏とかいうのでもない。つかの間の探訪者は、ただもう見せられるカタチの中で浮遊すれば、いいだけのこと。

 

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 アートパヴィリオン「洸庭」。見事なしつらえ。

 宗教のための家屋じゃない。家屋そのものがアートであり、そこで展開するアレコレもまたアートでござい……、の施設。三内丸山遺跡の、あの大きな集会所(?)を彷彿させられもしたが、近場まで足を運ぶと、これが通常な家屋でないコトが即座に判る。

 

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 ここでアーチスト・名和晃平の作品を見る。というか体験をする。

 2重トビラの厳重な灯火管制。客席数1階部分2階部分あわせて僅か24席ほど。

 ミニ懐中電灯を渡され、案内されるままに館内に入り着座。

 完全な闇の溶出。

 やがておぼろな音とおぼろな光が登場し、眼前いっぱいに水面があるのが判ってくる。床上式のこの建物の中は水で満たされているワケだ。

 その水面に光が反映し、あわく踊り、ゆるやかに溶け、カタチのない形としての、水と闇と光が織りなす瞑想的時間に誘われる。

 これは例えば、ピンクフロイドの『エコーズ』あたりを聴く感覚に近いとも思うけど、歌詞があるワケはなく、カタチは最初から最後までその輪郭を顕わにせずで、固定イメージは与えられない。イメージを紡ぐのは観客の個々であって、だから一緒に眺めていても、たぶん、個々は違う情感を萌させたに違いない。

 なかなか面白い体験だった。

 

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              案内してくれた方

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                 筋肉痛になる前のワタシ

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荘厳堂のなが〜い階段。晴れていたら緑の向こうに四国が見えるというが、この階段で筋肉痛うまれる。

 

 夕刻。車で送られ、福山駅に。

 で、さよなら福山かといえばそうでない。

 駅前の「自由軒」にゴ~。

 

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 かつて出向いたさいはお休みで残念だったけど、こたびやっと入店。

 禁酒のお寺さんのカタキをとると云わんばかりにビールをグッパ~。

 3年ほど前、ジャズフェスの良きお仲間たちがここを訪ねたさいには、たまたま『孤独のグルメ』の原作者が取材中で、楽しげな記念写真をもらってチビっと悔しかったりもした。

 

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           久住さんとK.O君のツーショット

 

 そのカタキもとるぞと、淡白なもの、脂っぽいもの、炙ったもの、煮たもの、焼いたもの、アレにコレにと注文しては平らげる。

 お値段リーズナブル~な青色明朗会計もありがたい。

 寺の静かさと、この楽しい喧騒めいた繁華な「自由軒」との対比が、この日一番の収穫。

 

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庭池にネットをはる

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 前回に書いた通り、鳥害が疑わしい。

 100円ショップの「鳥よけ」。植物用だけど2m2m、サイズが都合よい。

 

 するとだね~、なんだか鳥そのものが庭にやって来なくなった……。

 ゼロじゃないけど、数種が20数回来てたのが半分以下というアンバイになっちまった。

 ユスラウメの枝にとまったりはしても、池の方に寄ってかない。

 ちゃんと察してるというか、ちゃんと見てるワケだね。

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 鳥にとっては庭の樹木と庭池の、そのセットが都合よかったのだろう。池の水を利用できないと知るや、庭のグリーンも諦めたという次第なのだろう。

 グリーンのみならお隣さんにもあるし、向かいのオウチにもある。

 アレコレ飛来の内はソレもコレもとついばむから鬱陶しいと思ったけど、鳥が来ないというのも何やら寂しくもあり、なかなか、むずかしい。

 鳥は鳥で、ネットを見て、阻害されたと憮然とし、ちょっと憤った後に諦めの溜息をつきつつ、やはり寂しい情感をそのちいさな脳に浮かせたかもしれない。

 なかなか、うまく共存できない。

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 近場の電柱にしょっちゅう留まって辺りを鳥瞰しているカラスめは、決して庭にやって来ない。ある種の孤高を装ってるのか? いや、そんなことはない、首は町内のゴミ収集所に向いちゃってる。

 昭和9年の新聞に寺田寅彦が載せた文(『とんびと油揚』)によると、カラスの類いは見ているのではなく嗅覚あるいはそれに類する器官でもって腐肉の位置を探ってるらしいから……、我が庭に腐肉なし、そりゃ降りてこないはずだ。

 逆にいえば、カラスやトンビが降りてペタペタ歩いてたりしてたら、そこにはカラス好みな腐臭ある何かがあるというコトですな。清掃怠るべからず。

 むろんハゲワシなんか来ないし(日本にいないんで)、ハゲタカにおいては、そんな鳥は存在しなくって、誤りが是正されぬままにただ慣用句的俗称として今は用いてるだけのモノだから飛来の心配などもってのほか。

 ちょっとヤッカイなのがシラサギだけど、ここ数年はウチの庭には来攻しない。

 

 ともあれ鳥が来ないとなると、金魚たちは安堵してか浮上し、浅いところで滞留し、背びれ辺りに午後のぬくもりを浴びてノンビリしてらっしゃる。 

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 3年前には、庭池のそばの金木犀に鳩が巣を造ってヒナも孵り、こりゃ楽しみだなぁと北叟笑んだことがあったけど、ある日、巣が無人(無鳩か)になった。

 たぶん、ノラネコめが襲撃し、ヒナを咥えていったのだろう。他にちょっと考えられない。

 どって~コトもない小さな庭池じゃあるけど、それはそれ、水辺周辺、いろいろドラマがあるんにゎ。 

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            2016年10月撮影 巣で卵を温める鳩

 

赤の光景 ノートルダム寺院

 このシーズンになるとアチコチの庭先やら道路の境やら、生垣の紅色が眼にあざやか。

 うちの生垣も数年前から、このベニカナメモチがおごる。レッドロビンという名でも呼ばれてる。

 廉価だし、強くてよく育つし、なにより新芽が出るこの季節となれば紅色というか赤色が濃く発色して眩く、冬が去って春来たりの変化をたのしめる。

 日本にも昔から自生していたカナメモチと、東南アジアや中国にあったオオカナメモチをかけあわせた、いわゆる園芸品種だから、明治や大正の時代にはなかった樹木といっていいでしょう。

 したがって、お江戸時代や明治時代を描いた映画なんぞで、これを登場人物の背景の生垣に用いてるようなシーンがあったら、

「ありえね~」 

 と、呟けばいい。

 

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 全体が紅く染まってこれから緑色に変化するうちの生垣のそばに庭池があるワケだけど、先日の朝に目撃するに、ツグミムクドリか判別しにくいけれど、1羽が水浴びし、バシャバシャやってるのだった。

 池中央に金魚たちの待避所っぽい空間を設けてるのだけど、そのコンクリート製のフラットな部分に着地し、そこでパシャパシャなのだった。

 温泉でもなく、足湯を愉しめる場所でもないけど、鳥には都合のよい水の中の孤島には違いない。

 しかしこれは……、金魚にはヨロシクない。

 バシャバシャに脅かされ、萎縮して、水温がゆるんで遊泳出来る時間が来ても待避所から出にくい……、であろう。

 

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 さて困ったね。

 野生の鳥たちとて、比較的綺麗っぽい水で身体を洗いたいだろうし、近場にこのような環境はないし、無下(むげ)にオッぱらうのもナンだし、さりとて金魚どもの生態を思うと、それはそれで迷惑でもあろうし……、悩ましい。

 ま~、しかたない。

 園芸用のネットだかを買ってきて、ひとまずは鳥の足場を阻害することにしよう。

「この池はおよしなさい」 

 レッド・アラートの意思表示。

 しかし、たぶん、それは見てくれが悪いね。なんか、いかにもオサカナ飼ってます~っぽくて。

 

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                  AFPBBスクリーンショット

 と、それにしても……、ノートルダム寺院の火事は、痛いニュースだな。

 本来、あるべきでない色彩と熱に包まれたその姿には戦慄させられた。

 ましてあの塔が崩落しようとは……。

 遠い昔日に、ここのスーヴェニア・ショップで買ったお守りは、今も我が部屋にある。 

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 買った直後の裏路地でジプシー(ロマ。フランス国内では2万人くらいが居住中)の子らに取り囲まれ、思わずカンフー・ポーズをとったら、子らが一斉に怯えた眼をはったのが昨日の事のように思い出される。かわいそうなコトをした。

 すぐそばの本通りには観光客が群れて華やいでるけど、ほんの一歩入った裏路地には別空気の別生活が共存してるのだと知った、その驚きがこたびの火災で蘇る。

 哀しいかな、寺院の炎色と我が宅のベニカナメモチの赤とが妙に重なってしまった。

 

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 多くのパリ市民は「歴史が消失した」と慟哭したけど、たぶんそうじゃない。

 消えたのではなく、悲しい色で、歴史がまた更新されたんだ。

 涙をふきふき背を丸め、愛おしさを込めて焼け跡から、過去と未来を拾い繋ぐしか、ない。

 復興を願うばかり。

書棚うごかす

 岡山神社の音楽祭。

 今回は複数のオッ友達がステージにあがるので楽しみにしていたのだけども、しか~し、あいにくの雨模様。

 屋外イベントを主催するヒトにとってお天気具合ほどヤッカイなものはありません。一喜一憂、決行か中止かの判断大いに同情致す処。

 中止を決めた時のガックリ感というのは、けっこうきついもんです。

 

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 書棚の1つがジワワジワジワと移動してるのに気づいたのは数年前。壁と接した部分に隙間が出来、それが次第に目立つようになっていた。

 設置してもう10年を越えるけど、コンクリートの床から天井までの高さがあって、いっぱいに本やらナニやらが詰まってる。そういうヘビーなものが動くというのは、奇っ怪だ。

 奇っ怪だけど動いたのは事実なんだから、しかたない。

 コンクリートの下は地面だから、10年ほどの合間の幾つもの地震なんぞが、地面を揺さぶるたびに書棚を動かしたと……、思うしかない。

 私にとって書棚は激烈に重いけど、地震エネルギーにとっては塵みたいに軽~いものなんだろさ。

 ドイツやスイスやフランスやら、ほぼ地震のない国に生まれ育った方々にゃ、この地震エネルギーの強靭はたぶん理解できまい。(自慢することではありませんが)

 

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 直すには、本を全部取り出して書棚を元の位置に戻すだけのコトだ。

 けど、それは超絶に面倒だ。

 なので放置し続け、蛮勇が湧き出てくるのを待ってた。

 で、音楽祭が中止で時間が出来てる。

 出演予定だったミュージシャンから、イベントなくなったけど打ち上げ的に飲みましょうか? とのお誘いあったけど、後ろ髪ひかれつつも、あえて不参加表明。

 この機会ソマツにすべきでない……。

 作業にとっかかった。

 

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 嗚呼、しかし予想以上。面倒は鬱陶しさに2乗し、さらに3.14を掛け合わせるみたいにヤッカイだった。

 脚立に登って本を束ね持って下り、また登って、また下りる。

 束ねると本は重い。

 行きは良いが帰りは重い。足場に注意しつつ恐る恐るで神経使う。

 その繰り返しにウンザリしてると、降ろした本が今度は足元で邪魔をする。山が崩れて散乱する。

 

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 束ね抱えて降りるのを10数回繰り返してる内、腰と腕がズンワリな違和感を申し立る。

 棚に積もった埃が鬱陶しい。

 雑巾がけする。雑巾を洗い、絞ってまたフキフキ。

 休憩繰り返しつつ、気づくと数時間が経つ。

 積載物がなくなったとはいえ、書棚は書棚で重い。

 それを全体重かけて元の位置に戻す。

 

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 で、そこからは復路。折返し。

 元に戻さにゃイカン。

 今度は行きが重い。

 わずか数センチを移動させるがためにの苦労。なんと不毛な作業か……。

 しかし、その数センチが気になってイケナイのだから、この作業を不毛と思ってもイケナイ。

 しか〜し、今度は本が元通りに戻らない。床に仮置きした本を鷲掴んでは戻してったら、一体どうやって詰まってたのかしら? 数10冊が書棚に入り切らない。

 ウンザリ気分が擡げ、

「めんどくせ~~」 

 作業中なんども呟いたのをさらに大きく復唱し、また中断し、パカ~ッとビール開栓、グパ~ッと呑む。 

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 ほぼ1日かけ、とにかく復旧。

 岡山神社音楽祭の雨天中止は残念ながら、中止なくば、この作業もヤッてないワケゆえ、『何かを失えば、何かを得る』というエネルギーの交換法則を思わないでもない。

 ピンクフロイドの『ウォール』をスピーカーから流し、筋肉痛を予想しつつ、またビールをばグバ~ッ。

 棚が壁のようだから『ウォール』をかけたワケでもないけど、これはま~、悪くはなかっタナ。

  

定家明月記私抄

 前回の金魚譚を読んでくれた某ちゃんに、

元号、嫌うほう?」

 柔らかい問いをもらったけど、その逆です。あんがい好みにしてる。

 なるほどたしかに、市役所やら警察署など、

「えっと……、今ナン年だっけ」

 ジャズフェスの道路使用など申請時に窓口で躊躇したり困ったりもするし、そういう時、川の流れみたいな西暦は便利だね~、とも思うけど、それはソレとして、元号は1つの括り、1つの箱、1つの塊として接してみると、日常日々のお役立ちではなく、顧みるという点でもって、イメージとしての時代の輪郭がトレース出来るのが、ありがたい。

  1892年の春と云われるより、明治25年の春と云われた方がイメージ硬化が早い。

 元号を使ってるのは地球上で我が国だけじゃあるけど、こういう場合、いわゆるグローバリズムの足並みなどド~デモよく、いっそ元号がまだあるコトを喜ぶ。

 漢籍由来でも和歌由来でも、典拠なんて何でもイイとも思ってる。

 いっそ、「令和」でなく5月から「正直」だったりしたら、発表会の席上にしゃしゃり出て自己アピール1色の首相がどのようにショウジキ元年を解説するか、シゲシゲ眺めたいようなサディズム含みの気分も湧く。

 ともあれ西暦と元号の2本レールは悪くない。

 

 昭和生まれの身の上としては、平成、令和、と変わるワケで……、これから生まれるであろうヒトにすれば、

「も~ダイブン前の時代じゃ~ん」

 ちょうどボクたちが明治の方々や事物を想うみたいに、オールディーズな括りの中に置かれていくのも、致し方ない。そこはチョイと口惜しいけど、その口惜しい気分もまた元号が運んでくる特性だから、しかたなく受け入れよう。

 改元は老化を促しもする。

 それを新陳代謝と解いせるかどうかは個々で違うだろうけど。

 

「令和」の起用で急に『万葉集』が売れだしてるらしいですな。

 にわかっぷりの綿の軽さに若干の苦笑を禁じ得ないにしろ、興味を持つのは良いことだ。

 という次第でボクも右にならいましょう……、というワケにはいかないんで、ボクはボクで書棚から堀田善衛の『定家明月記私抄』を取り出し、アチャラコチャラと拾い読んでるのだった。

 

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 鎌倉時代の公家・藤原定家の名をサダイエと読むか、テイカと読むかはまだサダまっていないけど、「新古今和歌集」や「小倉百人一首」を編集した歌人だ。

 上の絵はその定家の像といわれてる肖像画

 でも『明月記』は歌集じゃない。彼が56年に渡って綴った日記だ。

 その間には幾つか改元も、ある。

 日本に生まれたヒトは概ね50年も生きりゃ、たいがい改元を経験できる仕組みになっている。

 定家の場合は、治承(じしょう)、養和、寿永、元暦、文治、建久、正治(しょうじ)建仁、承元(じょうげん)、建暦、建保(けんぽう)、承久、承応、元仁、嘉禄(かろく)、安貞、寛喜、貞永、天福、文暦(ぶんりゃく)、嘉禎(かてい)、暦仁(りゃくにん)、延応、仁治(にんじ)まで……、な~んと24回(うわっ!)も経験しちゃってる。

 なんでそんなに変えたかといえば、概ね、天変地異(主に地震だ)が原因だ。元号を変えることで荒ぶる自然やそれに伴う飢餓などの鎮静を祈願し、リセットし、政り事の安泰を図ったワケだ。

 地震災害のたびにが、これが今に続けば……、昭和、平成、令和だけじゃ~とても収まらない、ネ。

 

 定家の記述には「客星」の名が随所に登場し、彼が天体にかなり興味を持っていたことが知れる。星の運行もまた元号に関わってくる大事ポイントだった。

 星で吉兆を占う陰陽師がお友達だったせいもある。

 主に日常的でない天空現象、彗星などの出現に惹かれ、お友達の陰陽師・安倍泰俊に過去の事例を問い、星の出現と凶事の関係を考えてもいたようだ。

 近年の研究で、星に関する幾つかの部分は定家が直に書いたのではなく、安倍泰俊から届いた星の資料書類をそのまま本に綴じちゃったのではないかという説もある。

 ともあれそれで、カニ星雲が誕生することになる超新星爆発のことが記述され、当時のヨーロッパにもない観測記録として、この日記は有名になった。

 

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                 カニ星雲


 承元5年(1211)、定家が50歳の時の3月に元号は建暦に変わる。この改元は16歳の土御門天皇に譲位が強いられ、弟の14歳の順徳が即位するという妙なアンバイでのものだけど、その直前(前年末)に彗星が2度現れ、「光芒東に揺曳」という事件があって、定家は関連を匂わせるべくこれも日記にしたためる。

 たまたまこの4日だかに、NASAが、

2033年までに火星への人類到達をめざす」

 との発表をおこない、そのための予算獲得に動き出したことが報じられたので、ボクなりに面白いタイミングだな~とも思ったりした。

 この火星行きのためには、2024年までに月への人類送り込みが先行し、その成果を踏まえての2033年という期限を導いたようだが、鎌倉時代の定家に聞かせたら、

「なんとっ!」

 言葉編みの天才をして、しばし驚愕して口をパクパク……、だろうとチョット悪戯っぽく、かつ意地悪っぽく思ったりもした。21世紀と13世紀の背景の違いを見せつけても仕方ないけれど、よくよく月をモチーフに歌を詠んだ定家に、この変容を伝えてはみたいとも思うのだった。

 

 『明月記』は全編漢字一色の上、返り点もなく、極めて難解な文らしい。

 そこを掘田善衛(ゼンエイじゃないよ、ヨシエですよ)という感度の高い文学者が私抄として、フィルターとして、綴ったのが『定家明月記私抄』というわけだ。

 『明月記』の1篇1篇を読み進めつつ堀田善衛の深々な感想が続くんだ。だから翻訳本じゃない。

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          堀田善衛 1918年(大正7年) - 1998年(平成10年)

 

 掘田の読み解く藤原定家は、革新の最前衛で波に立ち向かってる言葉の実験者だ。単語と接続詞の無限の組み合わせを、ただもうそれしかないという所にまで追い込み運び込みして、1つの文とする途方もない天才だ。その1つ1つの文の中に情景と人の心がのっている。

 だから『定家明月記私抄』という本には定家という天才と堀田善衛という天才の2つが同居してるわけで、この相乗にただもう圧巻、圧倒されるワケなのだ。なので定家を読みつつ、掘田を読むという次第で1粒で2度美味しいとかいってる程度じゃ、いけない。

 

 掘田が『明月記』に接したのは大学生の時、いつ招集されるか判らない戦争のはじめっ頃で、その不安の焦燥にかられつつ炙られつつも、死ぬまでに是非読みたいと古本屋に発注したらしい。

 掘田は中国で敗戦を迎え、かろうじて命をつなぐ。敗戦後2年めに日本初となるアガサ・クリスティの翻訳をおこない、1951年には『広場の孤独』で芥川賞1961年の映画『モスラ』の原作者の1人になったりする。

 

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                               (C) 東宝映像  東京タワーのセットを見る掘田善衛(左) 

 

 ボクは『モスラ』でこの作家名を知るが、興味を抱いたのはもっとずっと後になってだ。

 50年代半ばから彼は海外によく出かけ、1977年頃にはスペインに家を持った。

 『定家明月記私抄』はそのスペインで書き上げた。

 

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 藤原定家の『明月記』は19歳から70代に至るまでの記録だけど、掘田は定家の歩みと歩調をあわせるようにして半生をかけ、この日誌的な書と向き合い続けていたわけだ。

 その時間の悠長に驚かされる。

 ボクは読む速度が遅いヒトですけど、それでも2週間で掘田の本は読める。しかし、掘田が挑んだ時間の長さを思うと、たかが2週間で読んじまってイイのか……堀田善衛に向け、藤原定家に向け、申し訳ないような気にならないワケじゃない。

 掘田が読み解こうとした時間の堆積は定家の人生と重なりもして、まさにこの本は2艘の舟の1本の帆柱の行方を見詰めるというカタチにもなって、ボクの興味深度はやたら深い。

 まして掘田はこれをスペインの永遠のような青い空の下で書き上げてるんだ……

 

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    スペイン。ラ・マンチャ地方。Eっちゃん達が記念撮影した場所だね、ここは。

 

 この本は定家の歌の個々を解説するのではなく、定家の生きた時代、公家の社会の様相を知るいったんにもなっているし、また逆にそれだから定家の詠んだ歌の真相のそばに寄れるような感もある。

 掘田も書いているけど、公家はやたら忙しい。

 雅びなお遊び世界に生きてるよう印象される京の公家の実態は、それはそれで実に苦労が大きく、難儀な日々をおくるという点で今のボクらと「せわしなさ」という所では変わらない。

 周到に気遣い、気配りしてなきゃタチマチにどこかから足を引っ張られたり非難ゴ~ゴ~だったり、という空気も同じ。いやむしろ、定家の公家世界の方がその濃度はひどく高い。

 定家自身もワンランク上の仕事上のポジションを目指すも、難しい。

 朝の早くからアチラの御殿コチラの御殿へと挨拶やらご機嫌伺いに出向く。

 職業歌人としての誉れは徐々にアップしつつも、公家格式の中で定家の家柄は2流だから、常に格上に気遣いしなきゃいけない。

 たとえば帝の女院(愛人だ)は10人を超えるがその1人1人の住まいに定期的に行って挨拶する。

 ひょっとすると帝の子を産むかも知れない方々のお屋敷に向け、牛車にのり、10名前後の従者を従えて出向き、従者一同は門先で待たせておくのも格上への配慮、礼を尽くしているのをそうやって示し、その上で贈収賄(出費も甚大)があり、忖度が重ねられ、さらに宮中でのおびただしい儀式を儀礼通りにこなし、さらに法会あり加持祈祷あり、でもって、お遊びもある。

 その遊びもまた、とてもくどい。真冬の凍てつく寒さの中、格が上の方々の蹴鞠プレーをただ眺めるだけに2時間も3時間も座ってなきゃ〜いけない。

「公家に産まれるんじゃないわ」

 な感想が浮くほどのテンヤワンヤ。

 そのテンでワヤな日々をしかし定家は克明に記しつつ、日常に埋没しない精神飛躍を文の中で化学変化をおこさせるワケなのだ。

 

 定家はこの日記をもって公家界における1つの地位を、詩歌のみではない新たな文章表現が出来ることを頼りに、政り事に新規なポジションを確立し起こそうと努めたようであるけど、残念、それは実らなかった。

 定家の没後、息子はこの日記を価値なしと判断し、まして歌集でもなかったから、親戚のおじさんに、譲ってしまう。

 このおじさんの血が今に続く冷泉家は幸いだ。譲渡によって、どえらいモノを手にしちまった。その時には判らなかったにしろ、徐々に知られ、江戸時代には、

「あの歌の神様の日記だぞ」

 価値重量がドンドン増して『明月記』は今や国宝だ。

 

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            公益財団法人冷泉家時雨亭文庫より転載

 

 それを昭和の文学者・堀田善衛が掘り返し、たがやし、精査し、考察し、土中の雲母の煌きを見出していくんだから、た・ま・ら・な・い。

万葉集』だけが日本じゃ~ない。令和時代を迎えるまでの長大な堆積の厚みとそれが発酵し芳香している最前列が令和の日本だし、その中に鎌倉時代の『明月記』や昭和時代の『定家明月記私抄』があると思えば、日本を味わうべきな本はまだまだ山のようにありますなぁ。

 定家の歌に関しては『新古今和歌集』の、これがいいと、思う。

 

大空は梅のにほひにかすみつつ 曇りもはてぬ春の夜の月

               

 「水を吸った綿」という表現があるけど、この作品には「綿を吸った水」というような、転換というか……、おぼろで不可解な世の中がいかに霞んでいっちゃっても、ただ1つのみ月があるという、嗚呼無情な、研いだ抽象が潜んでるよう思えて、やたらな凄みを感じる。

 しかもただ静物画として風景を詠うでなく、いつかどこかの春にヒトがそのような無常観を持ってたということを背景に置いた上でもって、”曇りもはてぬ春の夜の月”と、ヒトの心を詠いつつ、しかし情動には距離を置くという大転換をやってる……。

 心情はもはや問題じゃなくって、元号なども含めてヒトの世のうつろいなんか問題じゃなくって、より巨大なスケールでの天体の運行を定家は、眺めてる……、とそう思えば、これは稀有の視線、これぞクール・ジャパンな究極のポージングかとも思える。

 アームストロング船長はあくまで人類をキーに名言を残したけど、人類の気配すら消したこの歌の超越がいい。

 こういうのを憶えておいて火星に降り立ったら、チョット呟くというのもイイだろう。

 

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             堀田善衛の著作についてはまた触れたい。 

 

 

 

 

魚が出てきた日

 月が変わり、一冬、およそ4ヶ月ほど放ったらかした庭池の水替えを実施。

 オーバーフロー対策の機能はあるものの、浄化の仕組みがない池なので、手動でエッサホッサッと水を掻い出さなきゃいけない。

 いつもなら3月半ばにこの作業を行ってたけど、今年は遅れた。

 さすがにひどく汚れてた。澱んで暗緑色の水の中で呼吸している金魚どもは、まことにお気の毒のかぎり。

 そのせいもあってか……、水を抜いてみると、昨年冬前には5匹いたはずの赤いベベちゃんがわずか2匹になっていた。

 

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 庭池は、ボクが横になって背筋を伸ばせるサイズがあり、深さは横になったボクが肩までつかれるくらいはあるから、50匹越えの金魚が住まえるスケールなのだけど、そこに5匹というのは贅沢ゆとり環境のはず。しかし……、水が汚れてちゃ~いけない。

 広大なお屋敷も荒れ放題のゴミ屋敷という次第だったから、そりゃま~、5匹が2匹に引き算されたのもワカラナイ話でない。

 けども、一気に3匹いなくなるというのは、いつもとチョット様子が違う。遺骸もなければ骨すら、なくなってる。

 

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 さてそうやって水替えて3日が経過。

 しかし透明になった水に、2匹の姿がまったく見えないのだった。たいがい水替えた翌朝には、新鮮復帰に小躍りしたような遊泳姿を見るのが常だったのに、姿がないのだった。

 おかしいな? と思ってアミをいれ、隠れ家となる部分あたりまでまさぐってみたのだけど、頭も尾ッポも出て来ないのだった。

 近年、庭池のあるウチの小庭にはアレコレ野鳥がやってきては、葉を喰らい花を散らすという”休憩処”という有様で、今年はウグイスまでやって来て、ホ~ホケキョ、早朝から騒々しい。

 けど、そやつらが金魚を食べちゃう、というのは考えにくい。

 数年前にシラサギが狙ってたという事はあったけど、今年サギシの姿はない。

 なので、ケッタイな消失現象をマノアタリにして、ミステリ~ゾ~ンに消えてったか……、困惑するのだった。

 けどまた一方、

「ならば買ってくればイイじゃん」

 気分切り替えも素早い。

 

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 この池に入れるのは、金魚すくいの気の毒なヤツを救いだす程度の、ずいぶんと安いのに限ってた。

 けども数年前だかに熱帯魚屋で買った1匹50円ホドの赤いベベのうち数匹は、次第に色が変わり、紅白まだらなものに変じてた。どうやら、和金とコメットが混ざって生まれた金魚だったようだ。

 ま~、そんなこともあり、レッド単色より華やぎがあるから、こたびサカナ屋に出向くや、あえてコメットを求めてみた。

 50円で買える赤いのに比べると、ちょっと高い。

 ちょっと高いといっても、ベラボ~でない。

 5匹調達。

 

 で、池にいれてやった。

 むろん即座にドボンはいけません。水温水質ジョジョに慣らすという手間をかけ……。

 初体験の場所にやって来たゆえ、自由になった5匹はしばし呆然。その後、身隠れ出来そうな岩場の影に入ってった。

 その翌日だ。

 何とか新空間の掌握が出来た頃合いだろうと、昼頃、水辺によって眺めるに、

「え?」

「あれ?」

 7匹いるじゃないの。

 幾重知れずと化してた2匹が、出てきたんだ。

 でもって、新参と一緒に静かに群れなしてるんだ。

 

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 庭池がちょっとした手品を見せたようで、かといって拍手するような性質でもなく、

「なんでかな~?」

 安堵するより、ボクは首をかしげちまった。

「やれ変わるぞ!」

「げんご、げんご~!」

 ここ数日のガラパゴスで激烈にトリック政治的な元号一色の騒擾と、ガラパゴス庭池のミステリ~の相乗とで、首傾けたままポカ~ンと口をあけてるのだったけど、1日付けのワシントン・ポストBBCなど海外メディアが、「令和」を、

〈Order and Peace〉

” 命令と平和”と訳したもんだから、あわてて〈Beautiful Harmony〉、”美しい調和”だと3日めに発表。

 何でハナッから英文で「令和」の意味を伝えてなかったのか……、閉じきったガラパゴスっぷり大いに発揮で、これまた口あんぐり~、Get Angry!

たま大明神

 桑田町の岡山シティホテルでランチ。

 スポーツだかの親善でやってきて同ホテルに宿泊してるのか、背にCHINAのロゴが入った揃いユニホーム10数名の小学生らの食事時間と重なり、その行儀の悪さに辟易しつつ、セッセと皿換え品変え、食べに食べる。

 バイキング形式の食事はどうしてだか、そ~なっちゃう。岡山木村屋が経営参加しているからパン類豊富。でもパンは食べずにやたら、おかずをすくって平らげる。

 満腹。

 

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 おなかごなしにと柳川方面へとヨタヨタ10数分歩き、交差点かどに新たに出来たビルの4階へのぼる。

 そこに和歌山のたま神社から分祀の、”たま大明神”がある。

 昨年の10月末頃に出来上がり、今年2月末頃から誰でも参拝できるようオープンにされた。

 初めて詣でる。

 真新しいノボリが風にハタハタ。

 

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 神社という形態は八百万ヤオヨロズの神を含有するくらいだから、容器として許容幅がひろい。厳格な宗教概念を振り廻さずとも、一定の”規格”を持てば、お社が建つ。そこをテコにすれば、語弊がある云い方だけど、遠回しながら商業的な利用も出来る。

 かつて明治の時代に建立された甚九郎稲荷もその流れにのって建立されたものだったワケだし、神さんを方便にしつつ、「集える場所」の提供であり、「ここから何か始める」の場でもあって、曖昧だけど、これは悪くはない。

 むしろ、その曖昧部分に新造神社の醍醐味があると思えば、た・の・し・め・る。

 ビルの4階テラス部分に配置されたというのもイマドキ風。路面電車が見下ろせる。と云うか、路面電車が見える位置でないとこの神社は機能しないハズ。

 

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           たま神社(たま大明神)からの眺め

 これを造った両備グループの小嶋社長は、

「柳川交差点は交通の要所。和歌山で電車の安全運行を見守っている『たま』を分霊し、岡山の交通安全にも御利益をもたらしてもらおうと企画した」

 といい、

「ネコ好きをはじめ、それ以外のペット愛好家の方もどんどん参拝してほしい。イベントへの活用も考えたい」産経新聞2018.10.13記事)

 ともいってるから、手法としては甚九郎稲荷と同じだ。

 甚九郎稲荷は佐久間甚九郎という架空人物を創案し、その物語を編み込むことで神社としての梁を硬くし、たま神社(たま大明神)は猫のたまちゃんを大明神にもちあげることでストーリーの第1章を幕開けた。

 

 甚九郎稲荷は、岡山城内堀の埋め立て工事がはじまった頃、北之橋(通称・甚九郎橋)のそばにあった祠が撤去されるというコトで、それを同町上之町の光藤亀吉たち若い衆がエッチラホッチラと移転させて小規模な神社として設置したのがスタートだ。

 埋め立て工事は明治14年に開始され数年の期間を要したから、移設建立もおそらくその頃だったろう。現在の同社前の道向かい、入口からみてやや右側あたりに、かつては地域の用場(集会場所)があり、稲荷はその一画に設けられ、火除けの神さん、というフレーズがつけられた。今の串揚げの「山留」の手前の駐車場あたりかな……、この駐車場も来年頃にはマンションに姿を変えるみたいだけど。

 

 明治25年、稲荷のそばに亜公園が出来ると、人は集って同園にたむろった。

 前年の3月に開通した山陽鐡道岡山駅のホームからも、この大娯楽施設たる亜公園中央の集成閣(7階建て)はよく見えた。

 なんせ娯楽施設なのだから、ディズニーランドと同様だ。明治の岡山でも灯りに群れ舞うように人は亜公園に吸い寄せられ、生まれて初めて味わう7階建ての高みに足をすくませたし、入場料というカタチも初めて味わって、

「何で? 何も買っとらんのに……」

 ちょっと意味が判らなかったりした。

 だから、すぐそばながら、亜公園に較べて甚九郎稲荷はさほど脚光を浴びなかった。

 

 亜公園には豪奢な天満宮もあり、これは岡山神社内の天満宮に向かって礼するようなカタチで設置されている。拝殿の横には巨大な「硯り岩」がたっていて、お習字の上達など願うというカタチになっているのは、天満宮とはすなわち学問の神たる菅原道真を祀ってあるからだし、亜公園が建った天神山ははるか昔に太宰府に流される道真が休憩した場所との伝承があって、かつては祠もあった。その祠は江戸時代に岡山神社に移動され、それが同社北側にある天満宮だ。

 だから亜公園と岡山神社はその2つの天満宮でもって結ばれ、共振していたワケだ。

 

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     亜公園内の天満宮 復元模型  神殿は岡山神社に正面が向く配置で建てられた

 13年後の明治38年、亜公園を岡山県が買収。その跡地に岡山警察署、図書館、県会議事堂を造ることになる。

(亜公園は5年で閉園したと書いてる本があったりするが、確かに5年めの時に経営者片山儀太郎を直撃する大きな事件があったものの、閉園時期の記述は、これは昭和の半ば、郷土史家の岡長平の記憶違いが1人歩きしたものだから信用してはいけない)

 最初に着工されたのが岡山警察署で、場所は天満宮のある位置。それで天満宮の処遇が問題になった。神を祀ってるんだからおろそかに出来ない。それで甚九郎稲荷と合祀することにした。

 たまさか、亜公園すぐそばに県所有の土地がある。そこを上之町に無償で貸出すカタチにし、甚九郎稲荷を移動、併せて亜公園内天満宮もそこに移動させ、合体した。

 本殿や拝殿は天満宮のものを移築。鳥居にあたる門柱も天満宮から運んだ。

 元の甚九郎稲荷からは不思議な形の手水鉢や備前焼の獅子が運ばれた。

(この狛犬に関してはまだ不明点が多いけど、筆者は亜公園由来のものではなく初期甚九郎稲荷のコマイヌだと考える)

 当時の格付けは「無格社」であるから宮司は在住しない。岡山神社がそれを代行して今に至る。こうして現在の場所に、現在の配置でもって、甚九郎稲荷は第2期のカタチをスタートさせた。

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            この拝殿や本殿を甚九郎稲荷と合祀させた

 亜公園をなくした上之町や天神町では、なんせ商店が大半だから、町の活性を呼ぶ起爆剤が欲しい。となれば、中心となる施設は甚九郎稲荷をもって他にない。

 そこで皆さん知恵を出し合った。

 祭を創成することにした。

 今に続く7月の祭だ。

 そのために、1つのストーリーが編まれる。

 中村兵衛という作家に『史跡甚九郎稲荷』という小説を書いてもらい、新聞に連載後(中国日報に連載)、大正3年、大坂の出版社から本として刊行。県外者にも興味をひかせた。

 

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 伝承的ストーリーでもって稲荷の来歴を組み立て、稲荷の起源を示しみせた後で、さ~、祭だ。

 境内で行われる類例のない空くじなしの福引。各商店の店先の飾りつけ(ダシ)の数々……。町内あげての総力戦たるイベント創成だった。

 これが大ヒットとなる。

 訪ねみれば、稲荷境内だけでなく、上之町のほぼ全商店が何らかのカタチで店内を飾りつけ、ここぞとばかりにそれを見せてくれるんだから、存分に楽しめるワケだ。しかも稲荷でクジを引けば必ず何かを貰えるんだからお得でお徳、美味しさ2重のイタレリ尽くせりだ。

 年数が経つ内、話題が拡散、評判が評判を呼んで、今からは想像もつかないけど、どえらい規模の祭事になって県外からも人が寄せるほどだった……。

 天満屋デパートが表町に出来て人の流れが変わるに連れ、その勢いは次第に薄れるのだけど、少なくとも大正から昭和初期にかけての甚九郎稲荷は、界隈の活気のコアとなる場所なのだった。

 成功の秘訣は、小説『史跡甚九郎稲荷』が、背中に貼ったホッカイロの温もりみたいに影でジンワリ効いたからとも思える。いわば小説が情報戦略の先導者として踊ってくれたわけだ。

 

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      2017年7月25日撮影:甚九郎稲荷のお祭り 現在の家屋は戦後のもの

 ま~、そういうヒストリーを思えば、こたびの「たま大明神」も柳川周辺の躍動の1つの波動として、この先、おもしろいカタチの波を見せてくれるような感がなくもないし、タマちゃん嫌いじゃ~ないんで……、亡くなって久しいけど、大明神としてのポジションでもって大いにニャ~ニャ~してもらいたいな……、ともボクは念じるのだった。

 明治の時代と違い、祭の創成などしなくとも、たま大明神を設置したというニュースそのものだけでも両備グループにはご利益ありでしょうし。

 

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 案内看板はまだ何もない。1階のスーパー横手のビルの自動ドアを入ってエレベーターで4階にあがれば、現状は神社空間を独占出来る閑散っぷり。ま~、それもまた良し。

 しかし思うに、これをビル4階に設けた両備グループはある種の責任を担うことになる。タマちゃんを神さんにしちゃって岡山に運んで来た以上、この神さんの居場所をもはやおろそかには出来ないワケで……、むろん、そこの覚悟あってのコトだとは思うけど、またそれゆえ、何だか密かに応援したい次第でもあって、週末のみ営業のタマちゃんグッズの販売などあれば……、より面白かろうとも期待を持って眺めてる。

 ビル1階のスーパーに、すでにその萌芽があって……、『猫珈』という、ネコ図柄のかわいいパッケージの、カフェイン分がないコーヒーを売ってたりする。

 

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           現状、境内で”買える”唯一の販売物