後楽園の昔

 

 車屋さんのF氏がやって来たので、しばしカーポートで立ち話。

 F氏は英国車を整備して30年のベテランだけども、

「電気の車社会になってしまえば今の整備士は絶滅種になるでしょうなぁ……

 嘆いてる次第ではなく、しゃ~ないコトだと時代の移ろいのコトを云う。

 

 暮れの31日にひょっこり来てくれた九州の若き友(2人めの孫が出来たけど)も、想えばそっくり同じコトを云ってたなぁ。

 こちらはイタリア車専門で整備をやってやはり30年のベテラン。

「自分の世代は大丈夫でしょうが、10年先は様相が変わってるでしょうねぇ」

 危機感というより諦観として、この先の車整備事業を見詰めてた。

 FIAT500も、昨年でもってガソリン車としての製造に終止符がうたれ、電気自動車としてのFIAT500eに移行している……

  10年はまだしも、20年先の路上では、ガソリン車はほぼ駆けていないアンバイになってるんだろうけどねぇ、

「電気自動車って、オモシロイ乗り物かしら?」

 とのクエスチョンには、当方含め3人とも、

「面白くないっしょ~」

 で、一致なのが、お・も・し・ろ・い、わいねぇ。

 もちろん、それもやがて忘れられるんだろう。

 電気自動車しか知らない世代が主流になると、「ガソリン者? どこがイイの、そんなモノ」ってなコトに変じてしまうのも自明。

 西部開拓の時代、荒れた大地を見事な手綱さばきで幌馬車やら駅馬車をドライブさせてた連中が、長距離ラクラクのガソリンで動く大型のグレイハウンド・バスの出現で淘汰されていったのと同じく、転換期ゆえの痛みある……、悲哀だ。

  

 我が宅で九州からの若き友達と。FIATを知り尽くしている彼が岡山在住ならなぁと想わないではないが、ま~、しかたなかんべぇ (^_^;)

 

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 過日の新年会ケン同窓会で祇園用水の話が出たさいに、当方次いでゆえ、後楽園が世界でも希有な、バビロンのそれに匹敵する「空中庭園」だったコトを告げたけど、これはちょっと説明を濃くしないと意味が通じないハナシだ。

 園内を流れる川や池は、すぐそばの旭川より高さにして4メートほど上にある。

 水は上には上がらない。

 では、どうやって?

 その仕掛けは現在は使われていないけども、55年ほど前まではそれが機能していた。

 どうなっていたかといえば、要は長大な長さを持った導水路による『サイフォンの原理』の素敵な使用例だったんだ。

     

 後楽園の中を流れる川や池は、6キロメートルも離れた岡山市中区祇園の取水口から始まる。

 遠大なこの導水(水路)、祇園の取水口と後楽園附近とでは4~5メートルの高低差がある。

 この高低差が要め。

      

 旭川より4メートル程高く盛りあげられている後楽園の地表に川を現出させているのが、まさにサイフォンの原理、旭川の流れとは別途に、祇園から流れる水路は旭川の流れの下に設けられた「水箱管」に導かれて、祇園の取水口と同じ高さにまで水はあがってくるワケだ。

 後楽園は、まったく驚きモモノキの設計に基づいた「空中庭園」なのでした。

 

 残念にも、55年ほど前にこの機能は停止され、現在はポンプによって揚水されている。

 停止理由は、昭和30年代に龍ノ口山のふもとに旭川知的障害者施設)関連で養豚場が出来て、その汚水が後楽園に流れ入るかもしれない。豚の糞まみれの水を天下の後楽園に流すとは何事か……、というバカげた言説による。匂いもあるし、市内最大の観光ポイントで汚染水による赤痢とかコレラが出ては困るといったようなアンバイ。

 岡山県史に残る超絶に愚かしい結末、と思える。

      

 ホントは「幻想庭園」どころじゃない世界に冠たる「空中庭園」で、観光資源としても大きなコトなんだけど、なんででしょ? 上記の顛末ゆえか、後楽園を紹介する多くの本は本来の導水路のコトに触れず、管理者の岡山県も江戸時代のこの素晴らしい造園術のことをアピールしない……

 日本三大名園の1つと云われたのは、水を引き揚げて運営したそのトータルな形であった筈で、今はその屋台骨となる空中構造を失せさせてポンプ機器で揚げてるだけの、悪しくいえば、ありきたりの庭園だ。

               上写真2枚:岡山後楽園のHPより

 

 以上は5年ほど前に記したコチラの記事を参照くださればと思うけど、で、今回書くのは、江戸時代の後楽園(当時は御後園という名)はどう活用されていたかというコトなんだ。

 早いハナシ、大袈裟にくくって云えば、後楽園は池田家代々の殿さんが、江戸で恥をかかないための、徳川家やら他大名やらの前で恥をかかないための、「茶の湯」の練習場なのだった。

 

 戦乱もなく泰平となった江戸期の全国の殿さんは、江戸城での徳川家や諸大名の前でどう振る舞えるかでその「格」が評されるという次第で、わけても「茶の湯」は大きすぎる程のキーポイントだ。

 ごく仔細な所作までが、他藩の殿さんや官僚に影で品評され、それで人格までが上がったり下がったりする、まったくつまらない格差社会が江戸時代という時代の核にある……。綱吉時代に起きた赤穂事件も格差を過剰に意識せざるを得なかった諸事情に根ッコの先端があったんだろう。

 

 という次第で眺め見ると、後楽園内に幾つもの茶室があるのも納得できる。「茶の湯」は場数を踏んだ方がよい。陰口云われぬよう、1に練習、2に練習。場所を変え、雰囲気変えての練習も大切だ~ね。

 所作に限らず、使う道具、飾る草木の知識など、研鑽を積みに積み上げる。岡山の殿さんは自身のエ~格好を見せるために常に鍛錬していたワケだ、後楽園で。

 で、練習を積んでいくとどうなるかと云えば、「茶の湯」のことが大好きにもなる……。慣れは自信につながり、自信は人格を固めつつ、いっそうの求道として「茶の湯ワールド」に邁進させる。

    

 たとえば5代目藩主の池田治政は、経費抑制のためとして、後楽園内に芝生を敷いて維持管理費の節約に努めた殿さんというのが今に伝わっているけども、『大名庭園の利用の研究』(神原邦男著)によれば、彼は天明元年1781)の5月6日に江戸から帰るや、翌日より6月の終わり頃まで毎日、後楽園にて茶会をやり続ける。さらに家老達の茶事稽古にも同席して「茶の湯」どっぷりの日々を送って、とてものこと、経費を抑えた人物という姿に遠い。(招待客への連絡やらセッティングのため藩内には「茶事専門」の課がある。他藩もそうだったろう)

 

 歴史本では、後楽園は岡山城の東側からの敵防衛が目的という記述が通り相場だけど、それは極く極く初めのハナシに過ぎず、江戸期全般で眺めみると、「殿さんの茶道実践訓練場」というのが正鵠だろう。

 プラスして、「能」の練習場でもある。

茶の湯」と「能舞」は殿さんが殿さんであるための必修課目。

 現存している後楽園内の能舞台は1つだけど、江戸中期には複数あったようで、訓練つんで、やがてメチャにそれが好きになるコトもあったろうさ。

 実際、池田綱政(後楽園の原型はこのヒトの治政時にできあがる)は、側室と寝るより自ら舞うのに夢中になったらしきで、でもしっかり70人くらいの子供も作ってるけど……、お抱えの能役者を多数抱えて、彼らは大坂や江戸に住んで、綱政さんが岡山に戻ると岡山入りするコトになっていて、その旅費やら歓待の茶会やらで経費も甚大。

 こうなって来るともう政治家でもなく、性事で夜更かしよりも、踊りにフィーバーしちゃったダンサーっぽくって、江戸時代の妙チキリンを知る1つの好例といえなくもないし、庶民文化とは二極化正反対ながらも、絢爛にして洗練の文化圏を造った髄と見えなくもない。

 

 ともあれど……、かつて後楽園は、見事な設計によって6キロメートルも離れた水源と結ばれた「空中庭園」だったというデッカイ事実は覚えておくべきポイントだし、強くアピールすべきコトのような気がしていけない。

 本来の姿カタチを復活させるべきとも想う。

 祇園からの水路は市街地に近づくと埋設されて姿こそ見えないけれども、後楽園すぐそばまで繋がっていて、今は虚しい排水と化してプラザホテルの南でダバダバダバ、365日刻々、旭川にながされ捨てられている。

       

大きすぎ……

 

 中区国府市場の天満屋ハピッシュすぐそば、マグロ料理専門店「Kurofune」で、小学校の同級生たちと会う。

 新年会かねた同窓会。3年ぶりかと思ってたけど4年ぶりだと幹事の堀君がいう。

 べつだん懐かしくもなく、心おどるワケもないけど、コロナにかかったヤツはいてもコロナで落命したのはいなくって、その点のみ、幸いというか、

「や~や~」

「よ~よ~」

 互い互いの顔をば眺めあい、北叟笑む。スペイン界隈ではまたマスクの着用義務づけが取り沙汰される程に変種ウィルスが台頭しているらしく、コロナ禍というより最近は、

コロナ期

 を生き延びてる感もチラリ。

 

 

 かつての同級生たち……。実年齢より10歳ほど老けているヤツもいる。顔カタチ以上に、しゃべる内容が後期高齢者がごとくで、本物のお爺さんっぽい。

 が、彼が蓄えている地域の昔の話には、耳を傾けるる価値が存分にあり、時にメモを取ろうかと思わされる。

 祇園用水から分岐した多数の細い支流が、ただの用水路ではなく、個々に名がついていて、彼はそれらを諳んじているだけでなく、○○川では○○という魚の生息数が多く、□□川では△▲という魚が多かった……、

「ザリガニは3〜4匹採ってきて、煮て喰ようたな」

「ドロっぽくないのか?」

「ヤ〜モトは転向してきたから知らんじゃろ〜が、昔の水路はどこも綺麗じゃから、ザリガネも臭みがなかったでっ」

 などなど、貴重な過去の語り部に相応するハナシの数々。

 要は古老の風格、良い時間を堆積させた男の声なのだ。

 

 

 それで、『ターミネーター:ニュー・フェイト』のシュワルツェネッガーとリンダ・ハミルトンを想い浮かべた。

 老人映画だと一部で不評のようだけど、当方、あんがいと好いてる作品だ。シュワルツェネッガーにあのサングラスを着けさせなかった演出やらに、カッコつけるよりは老体ムチうって励む勢いがにじみ出ていて、いいのだ。老いて尚も反逆姿勢揺るがずのハミルトン演じるサラ・コナーのブレない気概が、いいのだ。

 

 余談はさておき、一方で、実年齢より若い女子も、いる。

 女子というのも何だけど、ま~、小学校の同窓会なので「ジョシ」でいいのだ。

 熟女に化身して尚も鮮烈を保って華やぎがある。小学生時代にはなかった妖艶含みの深みと謎めいた魅惑を肩先に携えて安定し、な~かなかにヨロシイのではなかろうか。

 その女子らに囲まれるカタチで着座し、旨い酒に美味いマグロのアレコレを味わう。舌の上で溶けてくトロの絶妙に官能の芯が悶える。

能登半島への自衛隊派遣、あまりに遅いし、規模も小さ過ぎ。あのオトコ、ほんとにダメなやっちゃ」

「役に立たんなぁ」

「じゃろ~ッ」

 1人が云うと他女子も大いに頷き、この国の政治トップの頼りなさを盛大に腐(クサ)す。

 腹立ち度80パーセント以上の波乗りめいたアングリー具合に、つい、酒がすすむ。

 1人の女子が「これは苦手」と云って皿が廻り、マグロのカルパッチョ2人前を食べる。よいよいヨイのハングリー。

 

 

 この店に入ったのは初めてで、なんでこんなトコロでマグロ料理専門店なの? とも訝しんだけど、近々に磨屋町だかに2号店をかまえるらしい。

 景気いいなぁ。

 

 

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 ヤフーオークションに、1970年万国博覧会のシンボルマークをうまく活用したいささか珍しいと思える灰皿が出品されていたので、入札し、競り勝つ。

 で、届いたのを見て、

「あらまっ」

 大きさに困惑した。

 想定した2倍は……、ある。

 

 1970年頃は、このようなデッカイ灰皿がまかり通っていたんだねぇ。

 と、それにしても、このデッカイのを博覧会会場で買って持ち帰ったヒトは、よほどのスモーカーか、あるは散髪屋だかが家業で、その待合室に置きたかったんだろうか? 60~70年代頃は散髪屋さんは町内の寄り合い所でもあって、シガレット吸い吸い将棋をうってる中高年者がいたからなぁ……。

 高さだけで12センチもあるから、なんぼ吸ってもたっぷり納まる。

 

 ま~、そんなことよりも、これを入手しちゃった当方だ。

 デカ過ぎでかえって灰皿として使えない。上部の金属部分が容易に外せるから、飴玉でも入れるかと思ったけども日常それほど飴の類いを必要としない。

 お菓子も食べないので使えない。

 花を活けるのも馬鹿馬鹿しい。

 飾っておくのはもっと馬鹿っぽい。

 木彫り風味な造りが「民芸品」っぽく、今となっては気恥ずかしい。

 コレクションでなく、実使用を考えて入札しちまったけど……、でかいゆえ、タハハ、よ、用途がない。

 ちゅ~ワケで本日ただいまは無造作に転がし置いて、

「余計なもの、買っちまったかな」

 後悔がアタマをもたげるのを懸命にこらえ、1970年万国博覧会頃の喫煙状況を知る、サブカルチャーとしての1つの見本……、と文化史的メダマであえて眺めてる。

 

 

 1970年万国博覧会では会場内にて、あるいは会場外でも、おびただしい量の公認グッズが販売されたらしきだけども、今に至ってもその全貌は知れない。それらを一同に紹介する書籍も出ていない。

 土産物としてのそれらグッズ達を眺めれば(おそらくイチバンに多かったのは記念メダルの類いと思えるが)、1970年の日本のカタチが、経済効果やら心理効果やらやらが、ほのかに見えるような気がしないではないんだけども、ね〜。

 アーカイブされぬままに、川面を流れる木の葉のように、記憶が失われていくのがとても、ザ・ン・ネ・ン、なり。

 

 ちなみに、ケンタッキーフライドチキンの日本でのスタートは万国博覧会アメリカ館内だ。試験的に運営された小さなコーナーだったそうな。

 なんと当時の額面で1日の売り上げが280万円もあったそうで、その旨、KFCのホームページにも記載されている。

 カーネル・サンダーズはこの勢いに気をよくし、日本各地での出店を決めたそうで、となれば、70年万博は Kurofune の入港ゲートだったワケだね。

   

 写真はKFCのHP より。日本人スタッフ達と記念撮影のカーネル・サンダーズさん(中央)。

 この写真は万博会場ではなく2年後の青山店オープン時か銀座店の前で撮影されたと思われる。アメリカン・サイズの背丈のある若い男子を採用してるね。カーネルさんは1980年に没したけど、店に行けば会えるね、そっくり人形に。

 

 

四御神の大神神社

 

 元旦早々の石川県での大地震……

 なんかねぇ、妙だったの。

 

 

 毎年元日は朝からおせち摘まみつつ日本酒を吞むのを常としているんで、2024年最初の朝もユルユルと吞んでたのだけど、お雑煮も食べて、さぁ~昼寝と思いつつ、チラリ庭先を見たら、雀がね……

 

  

 

 別段に雀が珍しいワケではないけれど、このような光景は初めて見たワケだ。

 一見はただエサを探して路上をついばんでるだけのように見えるけども、少なくとも我が庭先では初めての光景ゆえ、

「うん? 何? へんだなぁ」

 と、異変っぽかったんでIPhoneで動画を撮った次第。

 飛来して金木犀にとまり、用心したあげくで小さな池で瞬間的に水を飲んだりというコトはあっても、セ~ゼ~が1~2羽なんでね、変だなぁ~と思ったワケ。

 

 で、数時間お昼寝した後、異変が伝搬したのかどうか知らんが、フイに近場の神社へ参る気になったワケだ。

 歩いて1.3kmのところに大神神社(おうがじんしゃ)というのがあるんだ。

 そこへ向けて歩き出したのが3時55分。

 能登方面を襲った地震は4時10分だ。

 ちょうど、神社の鳥居のところまで歩いた時だったねぇ。

 岡山では震度3くらいだったみたいだけど、体感なし。

  

 

 この鳥居から、さらに真っ直ぐ歩いて700mほどのところ(写真の背後、龍ノ口山の裾)に神社はあって、今でこそささやかで小さな、四御(しのごぜ)という地域の氏神なんだけども、遠い昔には、この大神神社があるゆえに四御神という地域名がついたくらいのデッカい規模だったのが、この神社なのだった。

 ボクが中学生の頃は、鳥居をくぐるカタチでの道だったけど、宅地化で車が通れる道が望まれ、今や鳥居は道際にあるというヘンテコなアンバイになってる。

 

 1000年以上前の平安時代に書かれた『延喜式』の「神名帳」によれば、備前国では26の座(神社)が選定されていて、中でも大神神社は奉幣する神さんが4柱もある規模のでっかい神社で、当時の国家(奈良の平安京)からは、普通の神社に較べて4倍の供え物が届くという社格なのだった。

 大神神社は龍ノ口山の東の麓にあり、西の麓、賞田というところに国府(県庁的なもの)があったゆえ、相応の規模ある神社として成立していたんだろう。1000年前には瀬戸内海と結んだ水路が神社前を通って国府に至っていたともいう。今も賞田廃寺跡前にささやかな水路があってホタルが出るけども、過去は大きな規模の水路だったのだろうと想像する……。

 

 

 最初の鳥居が700mも離れたところにあるのは、その昔はそこから神社の境内だったという証しだ。かつては驚くほど宏大だったワケだね。

 今は宅地化が進んで何やらポツンと鳥居が立ってるだけだけど、当時は1町7反をかる~く越える荘園を抱える神社だったらしい。要は多数の百姓がこの神社の“配下”、米の生産をおこなっていたんだろう。律令国家の典型例だ。

 なので、昔からこの地域に住んでる方々は伝統的に今もお米を奉納する習慣がある……

 

 

 米粒が散乱しているのは雀や近所のネコのせいだろう、たぶん。

 そんな次第ゆえに、4つの神が御られるというので四御(しのごぜ)という地名となり、今となっては難読な上に、意味を知らないヒトの方が多いという次第でござんすなぁ。

 


 ま~、その辺りの次第はさておき、ともあれ、雀に触発されたかどうかも不明ながら、往復2.6km、近隣に住まって初めて、徒歩で出向いてお参りしてウチに帰ったら、大地震のニュース……

「あら、ま~、大変……

 雀の異変と地震を結ぶことは出来ないけれども、妙なアンバイな2024年元日では……、ありました。

 

 ま~、翌日2日には、駅伝が賑やかに開催され、当方も馴染んだ店で馴染んだ仲間との新年会で、不穏の2024年の出立とはいえ、笑いつつ珍味をついばんでいたけどねぇ。

 かたや新年を迎えたばかりの真っ只中での激震、生死の境……。かたや駅伝のにぎやか、新年会での初笑い……。さらには羽田での炎上旅客機からの劇的脱出とそうでなかった海上保安庁の乗員さん達の明暗……。

 

 

 不毛な無駄遣いでしかない来年の万国博覧会を止め、経費やら建築関連者を被災地に廻して、半年で取り壊す円形の屋根より家屋倒壊の方々に屋根を……、といった意見が出てるらしいけど、まったく大いに賛同。

 けれど、そうはならないであろうアンバランスの悲喜こもごも。

 Like a Rolling Stone

 転がる石でしかないヒトの身の置き所を意識させられた、この年明けですなぁ。

 

 

 米国での著作権法に伴い、この1月1日でもって初代のミッキーマウスがパプリックドメインとなったね。白い手袋のない初代ミッキーは著作権がきれ、自在に使っていいというワケだけど、ミッキーというかウォルト・ディズニーには敬意をはらい続けたい、な。

 

 

 

自分宛の歳暮 - 太陽の塔 -

 

 今年ファイナルのライブ体験は、11月のおかやまマラソン2023のオープニング・セレモニーを飾ったDate Fuminoriのソロ。

 ソロと云いつつ、プラスしてNaoさんとKawamura Chikakoさんとのコラボレーション有り。

 良いね。良かったです。

 時間の軸線はゆるぎない直線なのだけど、Date演出の楽曲はそれを柔らかに溶かせ、曲げる。硬質を軟質に変え、ときに軟質を透明に硬化させる。

 そこにChikakoさんの声がのり、Naoさんの朗読がサラサラ流れ、柔らかになった時間が香ばしい匂いをたてる。

 驚くべき優美。

 Dateは弦楽器ミュージシャンのトップ・シェフとは思ってたけども、そんな比喩は軽々に吹っ飛んだ星5つのミシュラン・テースト。

 年末瀬戸際に豪奢な御馳走を味わった。

 

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 2023年10月初旬に海洋堂が新発売した1/200スケール「太陽の塔」は、高額なれど、内部再現を前提にした秀逸なプラスチック・モデルだった。

 奇しくも吹田に実物を観に出向く計画と重なり、妙なタイミングだったのでウキウキさせられた。

 開封してみるに、この模型は現在の「太陽の塔」内部を再現した製品と判った。

     



 そのまま組み上げるのもイイだろう。

 けども、1970年当時、太陽の塔をマノアタリにした身としては、出来るならその時代の姿が望ましい。

 そこで一考。

 現在でなく1970年の内部構造に造り変えるコトとして、作業を進め、併せて、粘土造型による「母の塔」などにも着手した。前々回の本ブログ記事はそういう流れの中のヒトコマ……。

 岡本太郎が構想した、「太陽の塔」、「母の塔」、「青春の塔」、この3点での呪術的空間のディオラマ化を試みた次第。

自作の台座サイズに苦労した。小さすぎてもダメだし大きすぎても……。

  キットの階段パーツはいっさい使わず、エスカレーターを自作。右腕の中、大屋根の空中展示空間に向かうエスカレーターも新造。

                       加工前と加工後

       左アーム内の非常階段は当時のままなので、ここはキットをストレートに組み付け

              10月29日に撮影した現在の非常階段部分

 

 複数のLEDを組み込み、「生命の樹」を中心にシルエットっぽく浮き上がらせるコトもした。

 1970年万博時には樹に292体の生物模型が取りつけられていたそうだが、現在の展示では183体が展示されている。この模型はそれほどの数はない。けども充分たっぷり……、組み立てと塗装がヤッカイだった。

                          

      

  

塔内のエスカレーター全部を取りつけると、「生命の樹」は下写真の実物のようには見えなくなる。縮小模型ゆえの悲哀……。でも仕方ない。

   

        10月29日に撮影した現在の「生命の樹」部分。高さ30m附近の階段から撮影

 塔内の赤い壁はデコボコしているけど、これがどうやら世界初のホール空間での反響板取りつけの実例だったらしい。密閉空間では声がコダマしてしまうけど、反響と吸収の壁構造が音のコダマを制御しているワケだ。

 この成功例の後、世界中のホールが反響板を導入するようになる。20年近い前、岡山ルネスホールに反響板を置くことを提案した故F氏と共に、当方も理事会に出て重要性を語ったことがある。

 

 地底の展示室も全体を造ろうかと思ったけど、「地底の太陽」とその手前に配置された仮面やら石像などを自作し、チラリと見えるだけのカタチにして、このディオラマでは、当時の入場口やら出口やらの基礎構造を明示するという方向で作業を進める。

       塔の前のスリ鉢状の部分やらの下方に宏大な地底展示空間があったんです。

この展示のために岡本太郎をリーダーにして梅棹忠夫たちが世界中から集めた多数の仮面が、やがて大阪国立民俗博物館の礎の1つとなるワケですな。

 

 特別図解(笑): 造った模型に、「地底の太陽復興プロジェクト」のさい岡本太郎記念財団から依頼を受けて海洋堂が作製した模型の写真を合成、地下展示室部分を重ねてみた。記載の番号が順路となる。当時の「太陽の塔」見物は、地下1階に降り、さらに1つ下層に降りてラビリンス迷宮展示を眺め、次いで、塔の中に入って4つのエスカレーターで地上50メートル附近まで運ばれ、塔の右腕内にあるエスカレーターで大屋根にある空中展示を見るという、高低差あるダイナイックな移動による体験が出来る仕組みだった。

 1970年の「太陽の塔」の入り口は塔の後ろにある(左の黒い丸部分 - 現在のエントラススロープはここを基点としている)。

 当時はそこのエスカレーターを降り、塔背後の地階の待ち空間で行列に並び、塔右サイドにまで歩むカタチになっていた。そこにエスカレーター(正しくはウォーキングベルト)があって(赤い丸部分)、それをさらに下るコトで地下のラビリンス迷宮展示空間に導かれるというカタチになっている。

 ウォーキングベルトはゆっくりと動き、降下するに連れて左右に展示物が見えだして徐々に暗くなり、幼い子供なら泣きだすような、冥界的空間にと導かれていくのだけど……、このディオラマではそこはパス。

 待合ホールの場所は、これは地階だからホントは見えないんだけども模型ではあえて眼に見えるカタチとした。

 

 上の特別図解にみる通り、現在のカタチでは、当時のスタッフ通路口(⑩の部分)が塔内に入る入り口になっており、地底の太陽は1970年当時の場所ではなく、そのかつてのスタッフ用空間に置かれて公開されている。場所が変わってるんだよ。

 

             

「青春の塔」も粘土造型で自作。

 この巨大オブジェも失われて久しい。

 

 造りつつ、おでんみたいだなぁと思ったけど、70年当時もそう思ったヒトがいっぱいいたようで、岡本太郎の目的とした構想の納得ではなく、妙に親和させられるカタチとして好評だったようだ。

 オブジェの1つ、全長11mに及ぶ黒い物体は深海魚で、イチバン下のニョロっとしたのはオバケだそうである。岡本太郎がそう云ったのかどうか判らないが、「太陽の塔」関連の本にはそう記述されている。

 しかし、それら呼称と「青春の塔」という名に整合性がない……。

「青春の塔」という名はおそらくは、岡本流の営業的方便としての命名でしかなく、縄文時代めいた土俗的呪術的オブジェゆえ、彼には呼称なんぞは二の次だったのじゃないかしら、と愚察した。

 要は、丹下健三の精緻極まりない未来的大屋根空間に対して激しく対立する物体を、岡本は配置したかったのだろう。

 実際、それは驚くほどの効果をみせている。このおでんオブジェが地階にある迷宮展示室から生え伸びているという位置関係にも注目したい……。

 超未来感覚と超古代的物体の対立による醍醐味。今はもう、この凄みを味わえないのがとても残念なり。

   

実際の写真:1970年万博開催中の「青春の塔」。左の「母の塔」はなぜか青と赤の屋根部分が外されて金属フレームが剥き出しになっている。テント地が裂けるとかの不具合があったのかしら? あるいは、この写真の撮影は開幕直後のもので、施工が間に合わなかったのだろうか? ……不明。

 岡本太郎は、塔前のすり鉢構造を含めた広々な空間こそが最重要ポイントだと意識していたに違いない。もちろんこの拡がりが塔背後の「お祭広場」へとつながっていくワケで、そこを踏まえると「太陽の塔」が主語なのではなく、主となるのは集うヒトというコトになるだろう。

 と、それにしても、ディオラマ化していっそう明白になったのは、大屋根という存在の不在だ……。精妙極めたあの未来的大屋根があってこそ、この弩級に土俗的な3点セットは息吹いていたと痛感させられ、いま現在の姿は、リングにあがったら対戦者がいないという間抜けた感じというのをヒシヒッシと味わってもしまうのだった。

 

 だいぶんと以前に造った1/350での塔と大屋根のイメージ模型。太陽の塔は見えていそうで見えず、見えないようで見えているといったモドカシサがあってこそ、その存在が昂じる。

 

   

 色のカラフルゆえにオモチャっぽく見えるのは、しかたない。でも内臓の11本のLED効果でナイト・ビュ〜的雰囲気は味わえる

  

 

 ともあれ概ねで完成したディオラマ(450×480×460)を、数日前に届いたばかりのオーダーメイドしたアクリルケースにいれて、は~いハイはい、自分あてのプレゼント、お歳暮と致しましたです。2023年を締めくくる工作でござんした。

 という次第で吹田の「太陽の塔」も含め、皆様におかれましても、幸多き2024年となりますように。

End of Year

 

 今年も高速で過ぎてったねぇ、早いの何の……

「私に閑が来ず、光陰矢のごとくにして、私は五十になり、六十になり、戦争になった」

        

 と、かつて斎藤茂吉は記しているけど、その頃と何ら変わらないグッチャラケの世の中ですよなぁ。

 遠方でも近所でも抗争たえず、不正横行してそれがアタリマエみたいなメチャ。

 その狭間でよ~よ~泳いで過ごしてるみたいなアンバイながらも、気づくと年末。2023年もあと数日で終わり。

 

              庭先に咲く冬の花たち……

         こちらはやや落ちかけだけど元旦にも幾つかは残っているだろう

 

 1982年に公開された『トロン』は、全編をCGで構成した初の映画だったけど、この中に出てくる悪ぅ~いMCP(マスター・プログラム)が音声連絡の最後尾に、いつも、

End of Line

 会話は終わりだ、と冷ややかに告げるんだ。

 情もヘッタクレもなく、ただ「ライン終了」と一方的に言い放つ冷ややか、感情なしのブッキラボ~が、とても印象的だったなぁ。

              こいつはMCPの筆頭子分の擬人化プログラム

 

 ま~、その点でもまた似ていなくはない。

 こちらの都合は適用されず、坦々と日時と行事が過ぎるよう仕組まれているワケで、それに合わせなきゃ~ニッチモサッチもいかないんだから、な。

 でもってもう直き、

End of Year

 宣告されてしまうんだから、こまったもんだぁ~ね。

 

 けども、行替えの句読点としての意義と意味はデッカイなぁ。

 この1年を還りみつつ、次なる年を迎えるべく、さぁさぁ、高島屋のではない甘いケーキをちょっとだけ囓り、お餅とお屠蘇の用意もほぼ出来てる……、可笑しみ。

  正月は今回も、高知は西岡酒蔵の「久礼」で決まり。

 元旦早朝に開封し熱燗にし、吞みます。

 年明けイチバンのキリリ、ガツ〜ンがいいのです。

     

 

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『タウン情報おかやま』のweb版で、当方の亜公園模型がチラリ紹介されている。アサノカメラと如水軒についても記述され、表町界隈の過去と今をつなぐ良い記事になっている。tjokayama.jp

 地道に時間をかけて掘り下げていった気配も濃厚で、記者さんの姿勢に好感 ♥

 

 

 

 

母の塔

 久しぶりにインスタント・ラーメンを食べる気になって、在庫した3つを見比べ……、どれを食べようかと悩みに悩む。

 馴染みきったお馴染みの品達。いずれでもイイようなコトながら、いざとなると、決められない。

 結局、口に入れたのは、金沢のサンセット・ビールと山崎の食パンにあり合わせのモノをはさんだサンドイッチ。

 優柔不断の極み。

 けどもサンドイッチを地ビールで流し込むや、たちまちラーメンのコトは忘れてら。

 ええ加減なもんじゃね。

 

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 眼の前にみえていながら、まったく見ていないモノって~のが、ありますなぁ。

 1970年、万国博覧会期間中の「太陽の塔」の前に立った何千万のヒトは、塔を見上げて眼に焼き付けたものの、直ぐそばの「母の塔」は、アンガイ見てないんだな。

 これは1つには、「母の塔」というのが、大屋根の空中展示を見た方々が降りてくるための長大なエスカレーターを中心とした“出口”でしかなかったからだけど、実際には、「太陽の塔」のあの白い顔部分にイチバンに近い展望所でもあった。

 だけど……、意識されることなく、以後語られることもなく、記憶からも失せて久しい。

 

 

 岡本太郎は、「太陽の塔」と、「母の塔」と、「青春の塔」の3つを、いわば三位一体の1つの作品と考えていたというか、コンセプトの要めとしていたようだけど、見学者は概ね全て、「太陽の塔」に圧倒されて手前の2つは、“見て”いない。

 で、三位一体、3つで1つの「作品」であったハズなのに、2つは撤去されて今に至る。

 還りみられるコトもなく、なんだかやたら哀しい……。

 

 

 という次第で、「母の塔」を模型として造ってみた。

 スケールは1/200。

 トライしてみるに、造型は容易でない。

 わけても、エスカレーター部分を覆う屋根というか、青と赤によるグンニャリした部分のカタチがよく判らない。

 

 この塔に関しては資料も少なく、吹田の万国博覧会記念公園にあるエキスポ70パビリオン(旧鉄鋼館」に展示されている2つの構想模型を見ても、そのカタチの掌握が難しい。

 けども、岡本太郎はそれを有機的な生き物めいたカタチで提示したかったのであろうコトは、それら現存の模型を見てよく判る。 

 

  

                 エキスポ70パビリオンにて撮影

 青部分は生き物めいた“眼”があるようにも見受けられる 。

 

 が、実際に建造されたそれは、有機的存在というよりも、建築物の合理的な一部分としか見えてこない。

 曲げ加工された金属フレームにテント地を張ってのカタチとして決着し……、たぶん、この最終造型は……、岡本太郎にとっては妥協のそれであったろうと思える。

 

 

 当時のことが書かれた諸々の本の記述によれば、岡本は時にアートな主張を後退させ、もっとも無難かつ柔軟なトコロで折り合いをつけるというコトもやったようで、その最たるが「母の塔」の青と赤の構造物だったよう、思えて仕方ない

 岡本は強い主張と意思のヒトながら、自身経験のない大型プロジェクトの渦中、施工する建築会社との折衝のさなか、妥協としてでなく、予算的なこと、当時の技術的限界のこと、工期などなどを踏まえて、もっとも確実な提示を優先させたのだろう。

 

 そんな次第をアタマにしつつ、チョメチョメとその模型をば造ってみたワケだ。

 粘土コネコネして最初に感じたのは、「母の塔」が驚くほどに大きなサイズとボリュームをもった構造物であったというコトで、これ程に大きなモノが自分の記憶の中で消えているという事実に、唖然とさせられるんだった。

 

 

 実機能としては、大屋根からの下降エスカレーター、展望所からの下降エスカレーターと階段、以上の3つしかない。

 けどもそのカタチと大きさのモノが「太陽の塔」の直ぐそばに鎮座していたビジュアルというのは、やはり、素晴らしい

 寺に山門があるように、神社に鳥居があるように、「太陽の塔」の傍らになくてはならない構成要素だったよう思える。

「母の塔」という妙にベタっとした呼称に関しては、「なんで?」と思わないでもないけれど、一方で、それ以外に命名のしようもないような感も受ける。

 ま~、ともあれ今はない構造物……。

 せめて模型で追想したく、最終造型としての実際のそれより、岡本太郎が構想した有機的グンニャリしたカタチを……、追った。

 見る方向でイメージがガラリと変わるのがおもしろいが、「太陽の塔」のただの添え物ではなく、同塔に拮抗した岡本風呪術的表現の極みと、こたび模型を造って感じいった。

 

 もしも将来、現在の太陽の塔周辺の再整備が計画されるなら、イノイチバンで「母の塔」が復元されるべきと密かに思う。

 というより、念願だな。

 インフラ整備費含めてベラボ〜なお金を費やすコトが判った、意義もない無駄の極みな万博なんぞより、こういった文化継承として顧みる万博の方が大事と思うんだけどなぁ〜。



 

IS EVERYBODY IN?

 

 過日の芝居『わが友、第五福竜丸』。

 圧倒の情報量とゴジラを暗示する声佐野史郎のとどろきやらを並列に並べ散らしたマルチバース的手法の劇は、やたら集中力を求められたけど、観覧中に悪寒。

 もう寒くっていけない。集中できない。

 ラスト5分というあたりで我慢しきれず、外に出た。

 うちに戻って体温を測ると、あんのじょう、38度線越え……。

 いったん治りかけていたのがブリ返したようでガックリ。

 やむなくまた寝倒してみると、翌朝はケロリ。

 それで気をよくして水槽の水換えなんぞをやってたら、今度は息切れ……。

 は〜は〜セ〜ゼ〜。1歩進んで1歩後退、なんか不安定。

 

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  COMMANDの秋田直哉氏がポストカード複数枚を郵送してくれた。

 感謝。

 一目見てモディリアーニの『おさげ髪の少女』のパスティーシュと判る作品。

 岡山県立美術館での「エコール・ド・パリ展」での実物に触発された神田晃宏氏の絵を、カードに仕上げたようで、オリジナルとなる絵の他、直哉氏が文字入れした作品、計4種が刷られている。

 

 

 妙に印象に残るのは、本作がモディリアーニ作品の構図をそのまま借り入れているからゆえなのだけど、ただのパロディでなく、トレースでなく、新たなアートになっている点で、

「おほ~っ!」

 と、小さく感嘆符をうって、またしばし眺めていられる不思議なチカラがこの絵にあるからだ。

 

 モディリアーニが描いたのは少女だったけど、神田氏のこの娘は少女ではない。

 と、当方は勝手に思う。

 少女ではないが、年齢は不詳。

 というより、年齢という数字なんぞは越えた、澄んだ存在。

 この女性の下方に直哉氏が、

Is Everybody in?

 と、入れたことで謎めいた雰囲気がいっそう多層のものになっている。

 このフレーズはドアーズのジム・モリソンの曲からきているらしい。

「Is Everybody in? The Ceremony is About To Begin……」

 

 みんな入ってるかい? セレモニーが始まるよ~

 とでも訳すのがイイのだろうけど、カードとその文字を眺めつつ、この女性がライブ・ハウスの受付の女のコのように思えなくもない。セレモニーはすなわちライブだ。

 彼女の背後のややグリーンっぽい部分はドアであって、そこを開けたら、

「みんな、もう、入ってるぜ~」

 なのかも知れない、と風船みたいに妄想を大きくも出来る。

 あるいは、久しくクローズのままのCOMMANDの、店の復活を暗示しているような……、気がしないでもない。

 

 が一方で、べつだんCOMMANDを早く復活してくれ~とは、実は思っていない。

 オーナー直哉氏の気分次第でイイのだ。

 いっそ、こたびのポストカードには、店を閉じてはいるけど秋田COMMAND直哉の真髄有りや、店に縛られず闊達にしてらっしゃるトコロが仄かに垣間見られ、嬉しくもなっているのが当方だ。

 クローズのままゆえに、コマンド難民が発生しているのも判るけど、それは仕方ない。店のせいじゃなく、そこは個々人のハナシだ。

 そんなことよりも、クローズさせたままながら、秋田直哉は自身を探索し続け、堀り続け、神田晃宏氏という画家を見いだして炯々爛々としてる感触が、このうえなくイイのであって、店は閉めていても、3歩4歩と歩んでいるらしき気配が、こたびのポストカードに反映していると感じて、当方……、密かに大いに喜んでいるのだった。

 ま~、だからそれゆえ、このカードに魅了されているワケですな。

 今年もまた色々な方に色々なカードをもらったけど、うむうむ、年末直前のこれがハイライトかもだ、にゃ。