車屋さんのF氏がやって来たので、しばしカーポートで立ち話。
F氏は英国車を整備して30年のベテランだけども、
「電気の車社会になってしまえば今の整備士は絶滅種になるでしょうなぁ……」
嘆いてる次第ではなく、しゃ~ないコトだと時代の移ろいのコトを云う。
暮れの31日にひょっこり来てくれた九州の若き友(2人めの孫が出来たけど)も、想えばそっくり同じコトを云ってたなぁ。
こちらはイタリア車専門で整備をやってやはり30年のベテラン。
「自分の世代は大丈夫でしょうが、10年先は様相が変わってるでしょうねぇ」
危機感というより諦観として、この先の車整備事業を見詰めてた。
FIAT500も、昨年でもってガソリン車としての製造に終止符がうたれ、電気自動車としてのFIAT500eに移行している……。
10年はまだしも、20年先の路上では、ガソリン車はほぼ駆けていないアンバイになってるんだろうけどねぇ、
「電気自動車って、オモシロイ乗り物かしら?」
とのクエスチョンには、当方含め3人とも、
「面白くないっしょ~」
で、一致なのが、お・も・し・ろ・い、わいねぇ。
もちろん、それもやがて忘れられるんだろう。
電気自動車しか知らない世代が主流になると、「ガソリン者? どこがイイの、そんなモノ」ってなコトに変じてしまうのも自明。
西部開拓の時代、荒れた大地を見事な手綱さばきで幌馬車やら駅馬車をドライブさせてた連中が、長距離ラクラクのガソリンで動く大型のグレイハウンド・バスの出現で淘汰されていったのと同じく、転換期ゆえの痛みある……、悲哀だ。
我が宅で九州からの若き友達と。FIATを知り尽くしている彼が岡山在住ならなぁと想わないではないが、ま~、しかたなかんべぇ (^_^;)
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過日の新年会ケン同窓会で祇園用水の話が出たさいに、当方次いでゆえ、後楽園が世界でも希有な、バビロンのそれに匹敵する「空中庭園」だったコトを告げたけど、これはちょっと説明を濃くしないと意味が通じないハナシだ。
園内を流れる川や池は、すぐそばの旭川より高さにして4メートほど上にある。
水は上には上がらない。
では、どうやって?
その仕掛けは現在は使われていないけども、55年ほど前まではそれが機能していた。
どうなっていたかといえば、要は長大な長さを持った導水路による『サイフォンの原理』の素敵な使用例だったんだ。
後楽園の中を流れる川や池は、6キロメートルも離れた岡山市中区祇園の取水口から始まる。
遠大なこの導水(水路)、祇園の取水口と後楽園附近とでは4~5メートルの高低差がある。
この高低差が要め。
旭川より4メートル程高く盛りあげられている後楽園の地表に川を現出させているのが、まさにサイフォンの原理、旭川の流れとは別途に、祇園から流れる水路は旭川の流れの下に設けられた「水箱管」に導かれて、祇園の取水口と同じ高さにまで水はあがってくるワケだ。
後楽園は、まったく驚きモモノキの設計に基づいた「空中庭園」なのでした。
残念にも、55年ほど前にこの機能は停止され、現在はポンプによって揚水されている。
停止理由は、昭和30年代に龍ノ口山のふもとに旭川荘(知的障害者施設)関連で養豚場が出来て、その汚水が後楽園に流れ入るかもしれない。豚の糞まみれの水を天下の後楽園に流すとは何事か……、というバカげた言説による。匂いもあるし、市内最大の観光ポイントで汚染水による赤痢とかコレラが出ては困るといったようなアンバイ。
岡山県史に残る超絶に愚かしい結末、と思える。
ホントは「幻想庭園」どころじゃない世界に冠たる「空中庭園」で、観光資源としても大きなコトなんだけど、なんででしょ? 上記の顛末ゆえか、後楽園を紹介する多くの本は本来の導水路のコトに触れず、管理者の岡山県も江戸時代のこの素晴らしい造園術のことをアピールしない……。
日本三大名園の1つと云われたのは、水を引き揚げて運営したそのトータルな形であった筈で、今はその屋台骨となる空中構造を失せさせてポンプ機器で揚げてるだけの、悪しくいえば、ありきたりの庭園だ。
上写真2枚:岡山後楽園のHPより
以上は5年ほど前に記したコチラの記事を参照くださればと思うけど、で、今回書くのは、江戸時代の後楽園(当時は御後園という名)はどう活用されていたかというコトなんだ。
早いハナシ、大袈裟にくくって云えば、後楽園は池田家代々の殿さんが、江戸で恥をかかないための、徳川家やら他大名やらの前で恥をかかないための、「茶の湯」の練習場なのだった。
戦乱もなく泰平となった江戸期の全国の殿さんは、江戸城での徳川家や諸大名の前でどう振る舞えるかでその「格」が評されるという次第で、わけても「茶の湯」は大きすぎる程のキーポイントだ。
ごく仔細な所作までが、他藩の殿さんや官僚に影で品評され、それで人格までが上がったり下がったりする、まったくつまらない格差社会が江戸時代という時代の核にある……。綱吉時代に起きた赤穂事件も格差を過剰に意識せざるを得なかった諸事情に根ッコの先端があったんだろう。
という次第で眺め見ると、後楽園内に幾つもの茶室があるのも納得できる。「茶の湯」は場数を踏んだ方がよい。陰口云われぬよう、1に練習、2に練習。場所を変え、雰囲気変えての練習も大切だ~ね。
所作に限らず、使う道具、飾る草木の知識など、研鑽を積みに積み上げる。岡山の殿さんは自身のエ~格好を見せるために常に鍛錬していたワケだ、後楽園で。
で、練習を積んでいくとどうなるかと云えば、「茶の湯」のことが大好きにもなる……。慣れは自信につながり、自信は人格を固めつつ、いっそうの求道として「茶の湯ワールド」に邁進させる。
たとえば5代目藩主の池田治政は、経費抑制のためとして、後楽園内に芝生を敷いて維持管理費の節約に努めた殿さんというのが今に伝わっているけども、『大名庭園の利用の研究』(神原邦男著)によれば、彼は天明元年(1781)の5月6日に江戸から帰るや、翌日より6月の終わり頃まで毎日、後楽園にて茶会をやり続ける。さらに家老達の茶事稽古にも同席して「茶の湯」どっぷりの日々を送って、とてものこと、経費を抑えた人物という姿に遠い。(招待客への連絡やらセッティングのため藩内には「茶事専門」の課がある。他藩もそうだったろう)
歴史本では、後楽園は岡山城の東側からの敵防衛が目的という記述が通り相場だけど、それは極く極く初めのハナシに過ぎず、江戸期全般で眺めみると、「殿さんの茶道実践訓練場」というのが正鵠だろう。
プラスして、「能」の練習場でもある。
「茶の湯」と「能舞」は殿さんが殿さんであるための必修課目。
現存している後楽園内の能舞台は1つだけど、江戸中期には複数あったようで、訓練つんで、やがてメチャにそれが好きになるコトもあったろうさ。
実際、池田綱政(後楽園の原型はこのヒトの治政時にできあがる)は、側室と寝るより自ら舞うのに夢中になったらしきで、でもしっかり70人くらいの子供も作ってるけど……、お抱えの能役者を多数抱えて、彼らは大坂や江戸に住んで、綱政さんが岡山に戻ると岡山入りするコトになっていて、その旅費やら歓待の茶会やらで経費も甚大。
こうなって来るともう政治家でもなく、性事で夜更かしよりも、踊りにフィーバーしちゃったダンサーっぽくって、江戸時代の妙チキリンを知る1つの好例といえなくもないし、庶民文化とは二極化正反対ながらも、絢爛にして洗練の文化圏を造った髄と見えなくもない。
ともあれど……、かつて後楽園は、見事な設計によって6キロメートルも離れた水源と結ばれた「空中庭園」だったというデッカイ事実は覚えておくべきポイントだし、強くアピールすべきコトのような気がしていけない。
本来の姿カタチを復活させるべきとも想う。
祇園からの水路は市街地に近づくと埋設されて姿こそ見えないけれども、後楽園すぐそばまで繋がっていて、今は虚しい排水と化してプラザホテルの南でダバダバダバ、365日刻々、旭川にながされ捨てられている。