アッシャー家の崩壊

数日前、来る12月のための小さな打ち合わせをやって、新たな知見を得てなんだか育まれるような思いと、逆に自分の限界を知らされる感もあって、妙に面白く、妙に頼りないといった2層の色違いの、でも向かう方向は一緒という優々もおぼえつつ、日付けが変わって早や数時間経過の夜道を帰路について、周辺を眺めてみるに、月のない深閑のさなか、灯りのない二階建てのやや大きな民家の暗いシルエットに、何だかデジャブめいた感慨がわいて…、
「おや? さて?」
訝しみ、しばらく経って、ポオを思い出した。
『アッシャー家の崩壊』
狂乱の最後でもって屋敷ごと沼に沈んでいくアッシャー邸。
凄惨な、けれど奇特なその光景と、民家の一見の暗い静穏が、重なった。



 photo by Usher House as an Image.


思えばもう久しくポオに接していなかった。
それで帰宅後、といっても… その夜はいいかげんに酔ってたから、翌日になって本棚からE・A・ポオの本を引きだして、ベッドに寝っ転がり、幾つか小篇を読んだ。
かつていずれも読んだはずなのに、あんがいという以上に内容をしっかり忘れていて、だから、はじめて読むような感が濃く、新鮮。
一方で、どういう次第か、妙にクッキリとおぼえているシーンもあったりで、まず手始めにと読んだ『アッシャー家の崩壊』は、巻頭の邸宅を紹介する部分でもって、かつて、映画『サイコ』のあの暗鬱な屋敷の描写を観たさい、咄嗟にストレートで結ばれたこの小説の家屋との同一が、また蘇ってきて、何10年ぶりといっていい記憶の復活を感じて、これは新鮮だった。


遠い昔に、『サイコ』は家の白黒テレビで観た。
だから『アッシャー家の崩壊』を初めて読んだのは、それより前でなくてはいけない。
しかし、今、ボクの手元にあるポオ全集のその巻は、1974年が初版だから… 映画より後で買ったことになる。
「あれ?」
時間がうまく整合しない。
いったい、ボクはどうやって『アッシャー家の崩壊』を読んだろう?



ま〜、それはいい。
最初に読んだ時の感覚は、とにかくもうやたらに怖かった… としか云いようがない。
墓所に埋まったはずの妹の亡骸が… の戦慄は、文字を追いページをめくるのを躊躇させるような怖さに溢れていた。なので、真夜中トイレに行くにもナンギした…。
けども、こたび再読するに、そんなには怖くない。
むしろ、翻訳の文体の巧みに鮮烈をおぼえ、初読時の怖さは薄れていて、少し残念だった。
でも、前夜の真夜中の民家のシルエットがポオを思い出させてくれたのは確かなんだから、不満はない。
むろん、その民家近隣に沼などあろうはずもないけど… 沼という天然なものを魔界めくな世界への入口ないし通路めくな背景装置として描いたポオのワザの卓越は、後の数多の小説なり映画がそこを踏襲したことでいっそうオリジナルさがコーティングされる。
ドイルの『バスカビル家の犬』にせよ、鏡花の『夜叉ケ池』にしろだ。映画『サイコ』ではよりポオ的ゴシックな、怪奇な屋敷と沼がスペシャルなセット・メニューとして出てきたではないか。


沼イコール怪奇は、だから怖いイメージとして長く君臨するワケで、ポオ以後、表現者は小説であれ映画であれ、そこから抜け出せない。
近年の数少ない別例として、ラッセル・クロウの『ロビン・フッド』では、沼に落ちた羊を救おうと沼に入ったケイト・ブランシェットが逆に沼に囚われたのをラッセル扮するロビン・フッドが易々と羊ともども救出するという、沼の描写として実に画期的な爽快をやらかして、いささか喝采ものなのだけど… ハナシが脱線した。



例の通り、寝っ転がって本を読むと、ボクはすぐに眠くなる。
なので何ページか進むとウトウトし、手にした本をドサッと落として、その音で眼がさめ、また読み進めるといった、3歩すすんで2歩後退を繰り返すことになるんだけど、ともあれ… ポオだ。



手元の文庫版は全部で5冊。
いまさら順追って読む必然はない。
20代の頃だかに読んだ『黄金虫』は、改めてお久しぶりに接したら、ずいぶんシャレた"宝探し"の逸品である事に気づかされたし、『メエルシュトレエムに呑まれて』は小学4年の夏休みに子供向け翻訳版で読んだのが最初だったけど、チャンとした大人版たるをこうして読み直すと、少年時に味わった、あの大渦巻の怖さが、今は別の角度でもって詩的な恐怖を醸し出している事にも気づいて、またぞろ、新鮮な波動を味わった。
ポオは、やはり途方なもい存在だ。


文庫版全集の『黄金虫』が丸谷才一が翻訳していたバーションというのも、ボクには新発見で、この訳文の巧妙とユーモアに気づくには、55歳を越えなきゃワカンネ〜かもな… 年長者の優越をおぼえもした。
いや、しかし、それはおかしい。ポオは30代の頃にそれを書いてるんだから、55歳を越えて、「ハッとしてグ〜ッ」なんて云ってるようじゃ手遅れだ。



The Unparalleled Adventure of One Hans Pfaall


ちなみに再読して感じ入った1篇は、『ハンス・ブファアルの無類の冒険』かな。
ヴェルヌが『月世界旅行』を刊行する30年前、1835年に書かれた、滑稽な月旅行の話。
滑稽と書いたけど、シラノ・ド・ベルジュラック的滑稽譚ではなく、ハンス・ブファアルなる奇妙な人物がまったく奇妙な方法でもって市長に渡した手記の内容が、真実なのか嘘っぱちなのか –––––気球で月へ行き・帰ってきた話–––– それをエライさん達があ〜でもないこ〜でもないとアタマをひねってる風刺的描写が、滑稽で辛辣かつ哄笑めくな味わい。
この1篇にボクは、15年前、2000年に毎日新聞がスクープして大問題に発展した「旧石器ねつ造」事件を重ねもする。
この現実におきた嘘っぱちにおいて右往左往した学者さん達の横顔を、すでに180年前、ポオが滑稽譚として描いているのに感心もするんだけど、低音部に嗜虐的風刺を置きつつもSFな味覚を壊すことのない小説作法がやはり何といっても良かアンバイ。
ポオは、やはり途方なもい存在だった。



という次第で、この数日はやたら寝っ転がってポオと会う。
物ぐさ太郎の何もしないダ〜ラダラには、まだ遠い。



余談ながら、上記の立花隆の本では「捏造」をめぐっての学者世界のトンデモな問題点がよく抽出されたけど、それから15年経っても、小保方某のSTAP細胞事件が出るように… なにか変わり映えしない情勢がやはり横たわっていて… ま〜、"おもしろい"としか云いようがない。
およそ180年前のポオが生きた時代もそうだったのだろう。というよりも、ポオ自身がスクープ記事的な捏造表現でもって、『軽気球夢譚』という小説を新聞に載せているのだから、おもしろい。
それを全集の佐伯彰一の硬派な解説でボクは知った。ポオの小説を多くの読者は本当のニュースとして… 読んだらしい。
かつてオーソン・ウェルズは「火星人襲来」のドラマをニュース仕立てでラジオ放送して、米国中が大騒動になったという放送史上高名な事件を引き起こしたけど、そのはるか前にもう、ポオはそれをやってたワケだ。
今夜は… その『軽気球夢譚』の後半部を読む。
ワクワク。