小津安二郎の『晩春』(昭和24年作品)に、能のシーンがある。
この映画が語られる時には、ほぼ必ずそこが言及される。
イチバンに怖いシーンといってよろしい。
能が怖いのではなく、主演の原節子の表情変化がとにかく素晴らしく…、ヘタなホラー映画よりはるかに怖い。
舞台上の演目は『杜若(かきつばた』。
これは鬼に変じるものでなくって、花の妖精(?)と1人の僧のオハナシでいわゆる夢幻能、怖いものではないのだけど、春爛漫なファンタジー的舞台と客席中の1人の女性の心の変容が一種の無残の対比として描かれる。
昭和24年当時の娘さんは、27歳で未婚というのは親にとっても世間にとっても違和ある年齢だったんだろう。
そこを原節子演じる主人公は、未婚のまま、父との同居こそが最高と心底明るく笑って譲らない。
しかし、父に再婚のハナシが持ち上がり。その能の席に再婚予定の女性がいることで、表情に"鬼"がでる。
本来、舞台上の能にそれは出てくるものだけど、ここでは客席の中の原節子に出るから、怖い。
ヤモメの父親との同居継続を強く望んでいる彼女の中には、永遠の子供でありたい、父親コンプレックス、甘え、近親相姦的ラブ、…、などなど観た人ごとに感想は色々あら〜ナ、なのじゃ〜あるけど、ボクには、能を観賞しつつにその表情を演出した小津安二郎の巧さに関心が向かう。
むろん、演出に応えて演技した原節子がダントツにすごいワケだけど、息をのむ。ここはちょっとスチール写真では判らない…。
家族愛というか父への愛、そこに他者が入ってくる事への拒絶、さらには自身が結婚する事、すなわち新たな家族構成に組み込まれる事への恐怖…、それがダブルスな葛藤になって逆巻き、能楽堂の中で修羅が表情となる。
親子で能を観賞したあと、
「ゴハンを食べてくか?」
との父親の申し出を無視し、
「用があるから…」
と同じ方向に向かって歩きつつ距離を置き、やがて次第に足早になる娘を、父が眼で追うカタチとなってくシーンもまた、すこぶる印象深い。
普通こういうシーンならば、右と左、まったく違う向きにと演出しそうなものを、小津は同じ方向に歩む2人をとらえた。
スクリーンの中で徐々に開いていく距離感が、何とも疼かされる。
舗装されていない道路から彼女は脇にあるジャリ道へと父親から離れ、そこを歩むのだけど、よく考えてみるに、それは線路が敷かれようとしている場所なのだと思える…。
(敗戦して4年めの映画ゆえ、日本中が復興のさなかだからね)
なので、住まっている場所の変化がその砂利道で顕され、結婚という命題ゆえの変化の兆しとその怖れが、2重構造で組み入れられている…、とそう解釈してもいい。
父の思惑。娘の葛藤。
そこには、やがて敷かれるであろう2本の鉄路が暗示されても、いよう。
同じ方向に向きつつ、ぴったり寄り添いつつ、2本は重なることが出来ない。
あるいは同時に、このシーンでは、能舞台の"橋掛かり"が示されているのじゃなかろうか。
装置としての橋掛かりは、現実から夢幻への入口であり出口…。
娘を持つ父親の気分の、その深淵。
父への娘の、その深淵。
橋掛かりを同一方向に歩みつつ、両者は別次元へと向かうという、これぞ映画の深淵…。
事実、この歩行シーンから以後、映画は父と娘の狭間に隙間が出来たのをクッキリと描きはじめる。
能という舞台装置と演出法を、映画という表現方法に小津はうまく昇華させたよう、思える。
最後の最後のシーン。原節子が嫁いでいった夜の父親の笠智衆の告白とグッタリなうな垂れで、ことの顛末が種明かしされる次第ながら、で余計に印象深く映画は終わるわけだけど、残滓のような後味が何時までも残るのは、昭和24年での社会通念と今のそれとの差異から来るものなのだろうか?
あるいはこの映画の主役2人をシテとワキに例えるなら、そのラストシーンでもってシテである原節子が実はシテを演じたつもりがホントはワキだったみたいな、能という舞台芸能を大いに援用したあげくに映画表現に組み入れたどころか、そこから映画でしか不能な表現にまで運びあげた小津の卓越ゆえなのか…、それが残滓めく後味なのか…、ここは何度か観直してみなっきゃ〜いけないようだ。
ただ小津は、同じ年に公開となった黒澤明の『野良犬』のようには戦後を描いていない。
主人公親子は物資のない庶民ではなくハイソサエティーに属する生活をおくり、そこを描写するから、「ゴハンを食べてくか?」と、外食のようなコトが平然とおきる。
そも、戦争に負けてたった4年の時世で能観賞できる身分…、での物語。
が、けれどもまた、それも当時の姿の1部なのじゃ〜あろう。庶民ではない生活を描いちゃいけないワケはない。
むしろより注意深くに眺めるに、小津は随所で、横文字を出す。
たとえば、江ノ島近くの誰もいない湾岸道路に設置されたコカコーラの英文看板や道路標識。
たとえば、復興リニューアルの銀座のモダンな建物と横文字看板。
それらをなぜ彼は丹念に映し出したのか?
シーンとして頻繁に挿入したのか?
たぶん、黒澤とは真反対のカタチでもって小津は、戦後の日本を、英語というカタチで異なる文化慣習に浸食されるのを描写したんだろう。
その光景は日本ではない。が、しかしマチガイなく日本でもあるワケだ。
巻頭の女性たちの茶の湯のシーンでの丹念なお辞儀と、茶菓子のヨウカンひときれへの礼節、あるいは能のシーンでの和の味わい。
が一方で主人公の原節子はパンを好みジャムをつけるという新たな慣習に馴染みつつもある。
映画が造られた昭和24年の日本は連合国(GHQ)の占領下(1945〜1952)。
当時は配給制で食料事情はよろしくない。ジャムは嗜好品で主に米国からの援助物資として入ってた。
その従姉妹にいたっては、オリジナルのケーキを焼いて、立ち食いし、「バニラ」の量に言及したりもする。
「鬼畜欧米」とか叫んで和一色の閉じた日本が戦後わずか4年で早や欧米化している様相を、批判でもなく批評でもなく、淡々に描き出して、そこもまたやはり秀逸な"記録"といってもイイような気がしないでもない。
コカコーラの看板が示す通り、黒船来航時以上の大きな津波が津々浦々で生じている…。
多くの見解は、「この映画は古き良き日本人の姿を描く」というコトになってるフシがあるけど、たぶん、そうではあるまい。
小津作品は『東京物語』が白眉といわれるが、ボクは『晩春』こそと思って久しい。
父と娘の物語ながら、和と洋(とくに米国的な)の物語ともいえる。
占領されているという気配はこの映画からは窺えない。お江戸から一気に明治になっての大変化を日本人全体が平然と呑めたように、焼け野原から復興への変化もまた同様に平然と呑んで順応しているそこに…、何だか共通のヘンテコな日本の隷属隷従な特有性みたいなものがあるのを、小津は気づいていたのかもしれない。