甚九郎稲荷 今年も


極端な雨に次ぎ、極端な暑さ、しかも無風で湿度も高い…。
庭に出ただけで汗ダ〜ラ。
きっと皆さんもグッタリでしょ。
4日降り続いた時には庭は水田状態で根腐れをあんじる程だったのに、一転、カ〜ラカラ。
葉も萎れ、毎日確実にお水をあたえないと芯枯れちゃう。



急転はなはだしい。
なので、ドシャ降りの雨中、ホースで庭木に水やるシュールなおじさんの姿なんぞを想像してつかの間の涼味を想う。
むろん水害でえらい目に遭ってまだ仮設住宅もあてがってもらえない方々多数なワケで、冗談やめてよなハナシじゃあるけど, この暑さの次はまた台風か…。


この数年、ウチの庭はセミの住処になっちまい、厚かましい暑さの中、夜明け早朝よりミンミンミンというかグヮンワンワンの大音声。
金木犀を住まいにして20匹くらい。
これが一斉に鳴くんでご町内最大ボリューム、野外ライブハウスになりにけり。



でも不快じゃないね、夏の声だから。それどころか住処にしてくれているのを悦ぶ。
求愛の声。一夏限りの命と性。
とはいえ…、なぜ一斉に鳴くのだろう。しかも一斉に中止したりもする。
大コーラスじゃ、個々が目立たない。
それでは本来の目的の、パートナーを見つけにくいのではないか。
しかし抜け駆ける者がいない。1人ソロをとる者がいない。目立とうとしない。
徹底した横並びの平等主義。
悪くいえば、個人より共同が重んじられる全体主義
比喩として、いささか今の日本のようでもあると云いたいところだけど、ま〜、セミ社会はそんな薄っぺらじゃあるまい。
きっとセミ女子は、大コーラスの中の1つの声のみウットリ聞き分ける感度のいい耳を持ってるんだろう。
鳴き声をよく聞くに、最初のミはグ〜ッと伸ばすの。ミ〜〜〜ンって。
それからミンミンミンミンをしばし続け、最後はミミ〜ッ、で閉じるんだ。ちょっと尻下がりに終える。
「届いてるぅ? 君の耳ぃ〜ッ」
ってな感じの閉じ方で、最後の所に小さく、”ッ”を置いてるから、今度聞いてミミ。



日はめぐって、またやって来た祭。
明治の後半から今に至る、甚九郎稲荷の夏祭。
この稲荷のそばに住んでるわけもなく、ましてや氏子でもなく、あくまでもビジターとして本年もまた詣でる。賑わいを眺め、クジを引き、巫女舞いに眼を細める。
祭は去年と同じ、一昨年と同じ、その前と同じと、曜日に関係なく毎年7月の24日と25日に決まってる、というその絹目のような整然なパターンがとてもいい。
1年の真ん中あたりで1つ必ず打つ句読点、ともいえる。
ここで行を換えるとかいう大袈裟な次第はないけど、要は、毎年参加の恒例が高齢のボクに何か不可思議のワンポイントを付与してくれるわけだ。
災害多きな風土ながら、日本に住まい生きてることを、わけてもこの岡山という1地域に生息しているのを、シミシミ沁み染みと、感じさせてくれるワンポイントなのだ。
世界視野では神社神道というのは実にマイノリティながら、そんなシェア的なことはど〜でもよく、その神道的なものと仏教的なものとが明治以前には実に仲良く合体していたというようなコトもチラリンコと考えつつ、過去あって今があり、そこに立ってる自分をチョイっと意識する。
といって昨今台頭ぎみなヤスクニ的愛国戦隊に加担するというワケはない。



という次第で手を合わせたり手をうったり一礼したりと、神妙顔で稲荷の拝殿に立つ。鈴は鳴らさない。
神社の神さんは呼ぶもんじゃない、あくまで依ってくるものと思い決めてるんで鈴には触れない。


ぁあ、それにしても暑かったねぇ、暑いというか蒸すんだね〜、境内が狭いから余計に汗がダ〜ラダラ。今回は、某L新聞の編集長女子たちと稲荷で合流。
巫女舞が終わり、しばし稲荷関係の方々と歓談。
誰が蚊にイチバンさされたか…、と笑う。



そのあと、近場で冷っこいのをグ〜ッと。


ちなみに、え〜っと、今年の福引はこんなのが当たり。