ひっくり返るな大仏さん

稲が育っている。
台風前日の秋色な空。
水田のあぜ道を縫うように自転車で駆け、湯迫(ゆば-岡山市中区)の浄土寺を訪ねる。
うちから近いので、訪ねるというホドのもんでもない…。




龍ノ口山を背にしたこの寺は、すぐそばまで出向いても存在に気づかないほど、上の写真の通り、クリーミ〜色の湯迫温泉のビル家屋に覆われている。
湯迫温泉に蚕食されているようなカタチ。下写真の温泉歓迎のゲートをくぐって、初めて、お寺があると判る…。
本堂を含めて社殿はいずれも江戸時代以降のものらしいけど、749年に創建されたというから、もう1269年も前からある古刹ということになる。
山裾に向けて墓が居並び、温泉旅館の後ろにこんなのあるのか…、そう思えるほどに意外と広い。
岡山市教育委員会が建てた看板を読むと、創建時は現在の数倍の面積をもっていたようだ。国府(今でいう県庁)のそばだし、それに相応する規模の大寺院だったろう。




かつてここに重源(ちょうげん)が来て、しばらく滞在し、あれこれと指図したことは間違いない。
奈良の大仏再興に尽力した、偉い仏僧として今に伝わる。
岡山は備前焼の地だ。大仏殿の瓦などを焼かせつつ、この浄土寺に湯治場を設け、ここを基地にして大仏復興の寄進を薦めた…、ということになっている。実際、東大寺の刻印が入った瓦が出土している。
湯治場があったことを物語る小さな溜まり(泉)もあり、石碑が立つ。




しかし、あれこれ本をめくるに、重源というヒト、ただも〜偉いヒトという一括りでは語れない人物だ。
座して仏法を語るような僧ではない。
重源の足跡をたどると、あまりに振幅が大きすぎ、等身がみえない。



等身が見えないというコトでは奈良の大仏もそうだ。
でっかい。
それが丸焼けになった。
1180年の12月。平重衡(しげひら)の軍による近隣への放火が広がり、アレレっという間に燃え移って、見るも無残な姿になった。
父親の清盛の命令での、大衆(たいしゅ・僧兵)を多数抱えていうことをきかない興福寺などを威嚇する目的での進撃と放火だが、重衡自身、まさか東大寺にまで火が入り、大仏殿まで燃えちまうとは、おそらく思っていなかったろう。
結果、彼は朝廷勢から徹底的に恨まれた。
挙げ句、平家憎しと義経に一ノ谷で追いこくられ、捕まって三重の木津川に連れてかれて首をちょん切られた。


焼けた大仏は、誰もそれを復活復旧出来るとは思わなかった。
大仏殿そのものが火ダルマになり、焼けた梁や柱や瓦が大仏の上に崩れ、数日かけて燃え続けて、火にくべられたサツマイモ同様なメにあった。
溶けて首が落ち、手が落ち、胴体も火ぶくれて崩れている。イモなら喰えるが、大仏は溶けた銅や水銀などで土壌も汚染した。
で、胴体は座したカタチのまま、炎天下に剥き出され、しかも、後ろに引っくり返りそうになっている。
そこで背後に土を盛った。山を造って、引っくり返らないよう応急された。


重源が復興の最高指揮官として任命されたのは、それから5年後のことだ。
自ら「やります」と名乗り出たというハナシもある…。
5年の歳月が、盛土に草を茂らせている。
焼けただれた末に5年放置されて錆を浮かせた巨大な仏像が、これまた巨大な山を背もたれにして座っている。
もはや誰も、その山は取り除けない…、と思ってた。
けれど重源は、大仏内部に潜り込んで調査し、重心を考慮した芯棒を入れたり溶銅を前方部に流し込むなどで補強を行い、後白河天皇の許可も得ずに山を撤去した。
当時も今も、天皇の許諾なく勝手に事を起こすというのは出来ないハナシながら、重源はそれをやった。
結果は上々で、大仏さんは山の背もたれがなくても座ってる。
結果の上々に、天皇すら文句のつけようがない。そも後白河天皇の命題は大仏復興にあるワケで、文句どころか、褒めるっきゃ〜ない。
重源61歳。強硬だ。
自立自座した大仏は太陽の日差しを浴びつつ、足場が組まれ、山であった背後に3つの炉が設置され、鋳型を起こされたりと、修復作業が進む。



※ 現在の大仏殿は2度めの消失後に江戸時代に造られた3代目。重源が復興させたものより一廻りも小さく横幅も28mほど縮んでる。


さて一方で、復旧プロジェクトは天皇や公家や武家の財布だけでは賄いきれない大規模なものだった。
巨大仏だけでなく、東大寺そのもの、その周辺までの再建整備だ。
そこで勧進という手法がフル活用された。
全国の一般人に寄付を募った。日本全土に向けて、ボランティア活動を募った。むろん、これには
「素直な気持ちで寄付すりゃ、あんたは極楽に行けまっせ」
という仏教的次第をからませてある。
が、重源の言葉はもう少しきつい。
勧進しなきゃ〜、あんた、まもなく白癩黒癩(しろはたけくろはたけ-重度の皮膚病)にかかりまっせ。で、それで死んでも無間地獄に落ちて脱出不可能だっせ」
ビビらせた。
脅しだ。
これは複数の彼の書いた文章にも残っている。赤い羽根を交換に渡したりはしない。


ただ、彼は恫喝しただけでもない。
より巧妙にボランティア活動に仕向ける策を、造った。
初期の鎌倉時代…、当時、一般に、お風呂はそうあるワケもない。ノミやシラミと共存してるようなアンバイが普通で、だから皮膚病にかかる率もずいぶん高い。
そこで重源は、湯治場を設けた。
効能をうたい、湯を使わせた。


以前にこのブログで浄土寺の湯治場のことを書いたことがあるけど、今はも少しオベンキョウしたから、もうちょっとリアルな感触で…、浄土寺のそれを眺められる。



当時、重源は朝廷から備前国の一部を「知行国」として得ている。
東大寺復興のために彼自身の財源確保の場として備前の一部地域(万富界隈)が彼に与えられたワケだ。
で、そこでは稲や麦が収穫される。古くからの焼き物の産地でもある。
要は税として重源はその収穫を受け取れる次第。公家でも武家でもないイッカイの僧侶が荘園的に地所を取得した初例か?



で、浄土寺の湯治場だ。
その背後は龍ノ口山。この山に旭川がぶつかっているから、山はその水を吸収し、それが南面の平野の土壌を肥沃にするという効果もあって、浄土寺の周辺を掘れば、良質な地下水が湧いてでる。雄町の冷泉はその代表だ。
その湧いたのを沸かせた湯治場だ…。現存する水の溜まりは、そのごくごく一部だろう。湯治場であったと思われる場所は今は湯迫温泉の駐車場だ。



おそらく地域の小集落ごとに”お呼び”がかかり、湯を使うよう薦められたはずだ。
多少の想像も含めていうなら、この湯治場につかって肩こりをほぐしたりシラミを退治したりした人達は、さらに湯上がりに粥も振る舞われた。
あるいは麦飯のようなものだっかも知れないが、ともあれ、湯と飯でほっこりはさせられた。
米であれ麦であれ重源の知行国の収益から出したものだ。
で、その振る舞いの御礼として、彼ら一般ピープルは重源に…、労働力を提供することになる。ま〜、すなわち労働力をば寄進というカタチで。



※ 金網の中の”冷泉”。


備前焼の瓦製造には、これは技術が要るから当然にそれなりの対価が、といっても、それはボランティア・ベースにのっとった少額な支払いであったろうが、木材を引く縄のような消耗品、それも頑丈で太くて長いのを作ろうとすると、そうそう専門職があるワケでもない。大勢の人が共同で作業しなくちゃいけない。
縄は、麻苧(あさお)を綯いて造る。麻縄だ。
湯につかった方々は、縄を造る作業を集落総出となって無償でおこなった。
初めて縄作りにチャレンジするワケではない。縄を綯う作業は農家の基本作業でもあったから、別にひどく苦労するわけでもない。ただ、求められるのは日常のサイズでない…。
大仏を覆う大仏殿を造るには、巨木が何100本も要る。1本が16〜20m、太さが1m70cmを越える。
それを引く太く長い縄がとにかく大量に必要だ。
縄不足は深刻で、重源の訴えで、朝廷から二度に渡って全国に督促されたほどだった。



大仏殿に使えそうな巨木は当時ですら、もう近畿圏にない。
周防国(山口県)でやっと大木が見いだされ、それらを使うことになるけども、遠方だ。
切り倒し、杣(そま)から川に運ぶだけでも大変な量の縄がいる。
川から海に運ばれた巨木は、今度は筏に乗せられるが、筏を頑丈に組み上げるには、やはり縄だ。
奈良では100頭を越える牛が1本の木を引っ張るけど、ここでも大量の縄だ。



重源は勧進のために全国のあちゃこちゃに湯治場を設けている。だから湯迫の浄土寺のそれも、大仏殿のための縄の確保のためにあったとも、云えるよう思う。
と、それにしても、奈良の大仏なんか岡山生まれで岡山に育ってるヒトは見たことはない。当時は写真なんぞはないから、ただもう重源が云うところの巨大な仏像を想像するしかない。
すでに400年ほど前から奈良にそれがあるという話は知ってはいても、見たことがなく実感がない。ましてや、それを修復すると云われたって…、
「この坊さん、話を膨らませて、でぇれ〜ホラ吹きじゃぁ」
信じられないヒトもあったろう、と思う。
けども、そこを重源は、
「風呂にはいれたんは仏のおかげ。忘れちゃ困りまっせ」
冷ややかに薄めを開けて睨みつけ、
「おかげをないがしらにするなら…、あんた確実に地獄行きやっ」
二の句をつかせなかったに、違いない。
そこには偉い坊さんというよりは、ヤクザもビビるような、あるいはヤクザ者すら掌でひっくり返すような強靭なコワモテが、まさに大仏のようにデ〜ンと居座ったヒトという印象を濃く残す。



重源の活躍…、というか暗躍に近い諸々の行為はまた日をあらためて紹介してもいい。
重源のことを書いた本は複数あるけど、書いてる人の立ち位置で重源の姿はまったく違うものになっている。やはり聖者として書かれているものが多いけど、花田清輝の『御舎利』(『小説平家』収録)と伊藤ていじのは聖者の看板を外して醒めた視点と考察が冴えている。高橋直樹の『悪党重源』はこれは小説だけど、ややヤリ過ぎで疾走ぎみ…。


史実の中の重源は、建久2年(1191)に室生寺の五輪の塔に納められていた釈迦の、いわゆる仏舎利が33粒盗まれたさいに、泥棒したと訴えられ、それで彼は東大寺再建を放っぽり出して一時、失踪逃亡したりもする。
森林伐採の重労働をボランティアさせられた周防の地元民とそのまとめ役らが不平不満を募らせるや、
「お〜、お〜、お〜、ワイの後ろにゃな」
源頼朝の名をちらつかせ、平家のように一族もろとも滅ぶで…、強権力の存在を匂わせて相手を竦ませた。
えらい坊さんというよりも、ドエライ怪物のような人物だ。


と同時に、その怪物のいささか理不尽な振る舞いを前にして、日本人は総じて…、おとなしいという印象を濃くする。
重源の「あっち向けぇ〜あっちッ」の号令にいとも容易に従ってるようで、どうもその心魂の根っこが判らない。
ま〜、もっとも、今どことなく東京オリンピックのためなら…、という妙な空気が兆しつつあって、国が大学生に向けて、単位取得の加算などをちらつかせてボランティアを「強いる」ような、国家総動員的方向での流れが加速しているのも重源の時代とそう変わらないし、それに応えようとする心情もまた多のようであるから、国家的プロジェクトのリーダーになった者には、あんがい「助かる」国民性なのかもしれない。
という次第で、重源という存在に興味ありで湯迫温泉の後ろに隠れた浄土寺を訪ねてみたわけだ。


え〜、ちなみに、灯台モト暗しじゃないけれど、湯迫温泉にはつかったことがない。
小学生の時に近隣の地域に転校して来たさい、周辺じゃ〜同温泉はラブホテルとして、いかがわしく見られていた。規模もささやかだったよう思う。
今は湯迫温泉白雲閣といい、ちゃんとした温泉と大衆演劇とおいしい料理でもてなされるらしく、京阪神方面からのお客も多いとか。
見栄えのいい送迎バスもあって、よく眼にする。
エエこっちゃね。
いやもちろん、ラブホテル時代(?)にも、エエ思い出がいっぱい造られた場所じゃあったろうけど、背後のお寺さんとこの…、やや昭和レトロな匂いがしないでもない温泉施設の関係までをボクは知ろうとは思わない。

たまげたカツパン

チキンラーメンが誕生から六〇年という。
60と書くより六〇と書いた方がふさわしいよう感じるのは、郷愁としての昭和の流れを意識するせいかも。
六〇年前とは昭和33年だ。長嶋茂雄がデビュー戦で4打席4三振し、1万円札が発行され、東京タワーが完成し、今の天皇が妃殿下との結婚が決まった年で軽井沢という避暑地の存在を国民の多くが知ってチョット憧れた頃だ…。
とても毎日は食べられないが、チキンラーメンは今も、2〜3週に1度っくらいは朝方食べる。
生卵1ケをおとし、出来上がってコショウふりかけ。
一緒にビール(たいがい発泡酒だけどね)。
馴染みきった味だから、うまいとコトさら思うワケもないけど、馴染みきった安定が無我の妙味を誘う。
何も考えず飲むお水みたいに、いわば時折りに摂取しなきゃ〜な必需な食べものとして。
どう転んでも偉大な発明の1つに違いない。
しかし、そのインスタントなカップラーメンの日替わりメニューみたいな新製品の連打にゃ、辟易だわ。
アイスクリームの味だとか、フジッコ昆布の味だとか、謎肉が入ってますとか、京都だの金沢だのご当地の名を冠にしたのとか、とかとか…。
僅か数週間で店頭から消えていくそれら転がる石のような状況に、う・ん・ざ・り。



※ チキンラーメンノベルティ・グッズ。付箋のセット。


前の土曜。ルネスホール。
久々に高砂高校のジャズバンド「ビッグ・フレンドリー・ジャズ・オーケストラ」をば聴く。
ブラスバンドでなく、ジャズバンド。
OJF(おかやまジャズフェスティバル)の関係で、10年ほど前、今は亡きF氏と同校部室を訪ねたことがある。
真っ黒にペイントした壁に張り紙やら落書きなんぞもあって、高校ではなく大学の部室が想起されるような、自由な空気と闊達があって好感だった。
当然に生徒は3年で卒業するから、「ビッグ・フレンドリー・ジャズ・オーケストラ」のメンバーも入れ替わる。
こたび久々。
残念にも、かつて味わったノビノビが薄かった。枠から外れるダイナミックがなかった。
彼らが悪く、彼らが小粒になったのではなく、たぶんに廻りの大人が、彼らをおとなしく飼育された者にしちゃってるんだろう。
いわゆる”甲子園での高校生らしさ”みたいなケッタイな空気を、彼らに吸わせているんだろう。
3年組の演奏時、1、2年組が踊りつつ客席を練り歩く演出があったけど、大人のおばさん(おそらく父兄)がそれを主導して、何やら生徒はその後をついていくだけというていたらく。
高校生の自主のフリをさせる大人に、う・ん・ざ・り。
タバコの吸い過ぎは害あるというけど、大人のでしゃばりもまた害甚大。子供の健康によろしくない。



翌日曜、ジャズ喫茶JORDANでTRIO LIVE。
なかだのタカちゃんに藤井氏に佐藤氏。
高校生の初々とうって変わり、こちらしっとり大人あじ
ライブの途中、なぜかキンキンに冷やしたミカン缶を食べて〜〜、と思う。
けど終演の頃にゃ、もう忘れてら。で、数日後の今、思い出した。
ベースの佐藤氏はノッてくると中腰になる。その様子がチャ〜ミング。
良い味が出て好感。



ライブ後に国体町の某所へタクシー移動。
お線香をあげ、ごくささやかな慰霊の集い。
良い顔の遺影。
帰る直前、”ご近所”でちょっとしたボヤ騒ぎ…。市内中の消防車がやってきたような騒動。
階下に降りると避難した方々もかなりいた…。
でも、オ〜ゴトにならずホッ。



月曜。自転車で中央警察署に出頭。
OJFがらみの道路占有使用の許可申請
署の近く、RSKメディアコムの建物を壊して新たに造られた中区役所。外周の”石”が撤去されずに区役所の一部となっているのは、喜ばしい。
ただ、それらが寺田武弘という作家の作品だというコトを知る人は少ない。
知ったからといって、ド〜ッって〜こともないけど、路と施設の区切りのただの石じゃないって〜コトを念頭においてチョット考えたりするのも、良いでしょう。
かつて寺田から直に聞いたけど、「蹴ったり上がったり、座ってくれたりすりゃイイんだ」の一言が適切だったよう思える。



70年代の末だったか、これらの石が配置された頃は周辺はさほど繁華でもなかった…。いわばポツンとメディアコムという当時のIT施設の牙城めくがあるきりで、近場には田んぼもあった。
けど、いまやそこは繁華っぽい街の重要な四つ角に変わり、周辺も変わって、「こんなところで座るの目立ってカッコ悪ぃ〜」という状況だから、その変化を含めて、置かれている”作品”をば味わうのも、また一興かと。
この30〜40年の合間の地域の激動をジッと眺めいったモノリスとしての”作品”だ。転がらない堂々こそ、この作品の命の宿りと思えばこそに。



某日朝、マイ・マザーのお薬をば薬局に取りにいった次いで、コメダ珈琲再訪。
気になってたカツパンをオーダーしてみる。
まだモーニングの時間帯。
やや大きなトーストとゆで卵を喰らいつつ、カツパンをば待つ。
と…、やってきました気になってたヤツ。
メニュー写真に騙された…。
運ばれてきた時にはもう手遅れ、想定外のでかさと厚さ。



揚げたてのカツのコロモが口の中でサクサクッ。良い音たてる。
音を食べるとはよくいった。
揚がって数分内で音はしなくなるからセミより短命だ。
旨い。
しかし、その分厚さ。10年前ならペロリたいらげだったかも知れないが、ビフォ〜&アフタ〜、10年後のコンニチでは…。
ましてトーストを食べた直後ゆえ、2切れは頬張ったけど、ラスト1切れはもうダメ。
こっそり紙ナプキンに包みいれ、お持ち帰ってしまいましたとさ。
このボリュームゆえ、お昼ごはんは食べずじまい…。
おそるべし、コメダ珈琲のカツパン。
しかし、くじけない。
次は「コメチキ」じゃな。
大人は反省しない。

似た顔

ときに、とてもよく似た顔を見ることがある。
最近だと、『刑事フォイル』のサム運転手と、『007 スペクター』のヒロインが劇的なほどに似ていて、あとで調べてみるまでボクは同じ女優じゃな…、そう思い込んだりもした。
前歯中央の歯と歯の間に隙間があるところ、目元とその視線、プローポーションなどなど…、あまりに似てるんで、同じ俳優じゃな、と喜んでしまったワケなのだ。
映画『影武者』で家康や信長の間者どもがたいそう訝しみつつも、ついに「まちげ〜ねぇ、ありゃ信玄公よっ」断言したように、相似としてではなく、本人だ〜ァな見極め確定だったワケだ。
しかし残念にも、違う役者だ。
妙な気分をちょびっと味わったことはいうまでもない。



※ 『刑事フォイル』のハニーサックル・ウィークス

※ 『スペクター』のレア・セドゥ。


かつて平安時代の中頃、能因という歌人がいた。いわゆる中古三十六歌仙の1人だ。
能因法師と書かれることが多い。公家に産まれ、どこかの時点で出家した。
出家したといっても、公家は公家だから、基本は「あそび」の人であったろうと思う。そも、宮中の女流歌人の伊勢に憧れ、かつて彼女が住んだ摂津に転居したというアンバイだから、日々、歌詠みして過ごせる楽勝の趣味的人生だったような気がしないでもない。
けれどまた、このヒトが思わぬカタチで「努力」していた点で、滑稽というか、愛嬌あるヒトと思えて、それで印象を濃くして久しい。



※ 佐竹本三十六歌仙絵巻より。伊勢。


彼の歌、

「都をば 霞とともに立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関

は高名だが、ちょいと後に、

「都にありながらこの歌をいださむことを念なしと思ひて、人にも知られず久しく籠もり居て、色をくろく日にあたりなしてあと、「みちのくにのかたへ修行のついでに詠みたり」とぞ披露し侍りける」

と、「古今著聞集」に暴露されている通り、実は陸奥(みちのく)の白河なんぞには出向かず、都に隠れて日焼けにいそしみ、さんざん色が黒くなった時点で、
「いや〜、大変でしたよ」
公家仲間らの前にあらわれて、上の歌を披露したという逸話が、なんとも愛嬌あって、ボクは好きなのだ。


京都方面から陸奥を旅したというなら、おそらく1ヶ月ほどは、留守ということになろう。その1ヶ月を自宅に隠れ、行ったように見せるためにこっそり庭で日焼けに努める…、その姿カタチが愛嬌だ。
行ったコトにして、歌にハクをつけてるわけだから、これは大変な「努力」といっておかしくはない。
だから当然に、ご近所の方は、
「あれ? 今の能因さん? でも、旅に出てらっしゃるハズ、他人の空似かしら」
チラッとは彼を目撃し、そのたんびに、似てあらざる人を思ったんじゃなかろうか。まさか本人在宅とは考えもしないんで…。
それに色が黒かった。色の白さこそが公家たるを証す大事ポイント、白い顔をさらに白粉で塗る入念さだ。
色黒の公家というのは、ありえない。
「やっぱ、他人よ」
ここでは、別人だろうと確定的に見極められたワケだ。



※ 白河神社参道。福島県白河観光情報HPより


この可笑しみを歌舞伎にしちゃったのが岡本綺堂だ。
大正9年に帝国劇場で初演された彼の作品は、ずばりタイトルが『能因法師』だった。
現在は岩波文庫の『修善寺物語』に収録されているから容易に読める。
自分の歌にハクづけるために日焼けにいそしむ能因は、お仲間の1人に在宅がばれ、そこからドタバタがはじまり、やはり歌で有名になろうとしている加賀なる女性とその連れたる愛人までやってきて、悲恋を題材にした歌が出来たので、そのハクをつけるために愛人に別れて欲しい、そうでなければ悲恋の歌が嘘っぽくなる…、と能因を上廻る可笑しなことを云い出して、いよいよ舞台は大笑いな座となるというハナシだ。



岡本綺堂のこの1編でも、「似た人」というのが主題を盛り上げる道具になっているのは云うまでもないことだけど、能因の「苦労」あって、彼の歌は今も残っていると思えば、ま〜、平安時代の公家とその周辺というのは、かなり可笑しく、かつ可怪しい。
実の生活よりも、1つの歌にかけた、文字通り、”賭けた”、エネルギーのその使用法が、どうにも愛おしい。


そういう、ど〜でもイイことを、マ〜ちゃんこと茂成氏ともっと笑いつつ話したかった。
先週土曜に贈った本はここで紹介のものとは別なものだったが、マ〜ちゃんはたぶん読まないままに逝ってしまったろう。
南無三こんなに早くとは夢々思っていなかった。
残念でならないが、しばし、彼が残してくれた滑稽な話をば思い出し、クスクス笑おうと思う。
なので今回は能因法師を…。
諧謔を好む人だったゆえ、哀悼しつつたむけとして。


が、以上を書きつつ、ちょっと考えてしまうのだった。能因法師ははたして最後まで隠れ通す気がホントにあったのかと…。
途中でバレることを前提に、どこかの時点でバレるように行動し、自身を笑いの矢面に立たせるコトで話題作りを兼ねさせて、逆に歌の秀逸を目立たせようとしたかも…、と勘ぐった。
行かなかったことで逆に、作者能因と遠い国たる陸奥を際立たせたと。

「都をば 霞とともに立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関

そうであるなら、この心眼的ポエジーを世に出すために、能因さんはケッコ〜戦略を練ったような気がしないではない。
暴露されることも含めて、大いに笑われようが歌のヒットがためなら何でもヤッちゃうぞな、迫力を感じないでもない。
であるなら、笑われようが飄々として動じないスケールを持ったヒトとも思える。笑いをとるコトで自身の作品に他者を引きつける、いわば捨て身的大転換の戦術を遂行できた人物として評価を変えなきゃイケナイ。
もちろんまったく裏腹に、「ものくさ太郎」みたいなテッテ〜した横着ものだった可能性もまた捨てきれない…。
心情として我が身とを重ねると、こっちの方こそ似てくるワケもあって、親近感も増すます募りマスと。

空中庭園〜後楽園〜

すぐそばに住んでいるのに、案外と多くの人が気づいていないか、意識していないコトって…、あるよ。
たとえば、岡山の後楽園だ。旭川の中洲というカタチになっている。
園内の巨大な池と縦横にめぐらされた水路は、訪ねるたび、眼が和む。
けど、それらの水が旭川の水面より4mほど高いところにある…、というコトには眼が向かない。
そう、後楽園は広義な意味での「空中庭園」なんだ。


だのに、後楽園のオフィシャル・ホームページとかじゃそのコトに触れてない。
「歴史・概要」のページでも庭の造りやら家屋のコトだけで、水がどうやって運営されてきたかのヒストリーが、まったく出てこない。
バビロンのそれと同じく、後楽園は実に偉大な工夫が凝らされた『水があっての』庭園なのに…。


今はポンプで毎分6トンもの水を組み上げている。
それが園内の池となり水路の流れとなっている。当然に電気代が半端でない。
夜はモーターを止める。
なので、閉園後の後楽園内の水路は流れていないんだ。
これも知られていない。
しかし、それが結局は淀みを生じさせ、園内水路に敷かれた小石にアオミドロなんぞの緑藻を発生させる原因になっている。
何度か後楽園にホタルを放す試みがあったけど、水が流れないではホタルは育まない。
実は不自然の極み、なのだ。



※ 後楽園内の沢の池にある島茶屋。

※ 園の南端、水が淀みがちな花交(かこう)の池。昨年秋に撮影。近年は改善されつつあるが…。


けども、昭和40年代前半(1965年頃)までは、はるかお江戸の時代よりズ〜〜っと、後楽園内の水は昼夜問わず流れてた。ごく自然に流れてた。
どこから水をひいていたかといえば、園からおよそ6Km離れた龍ノ口山のふもと、そこに旭川からの水を分岐させる取水口を設けて、水路で結んだ。
これは1687年(貞享四年)の後楽園着工時から14年かけての基礎の基礎としての工事だった…。
当初は取水口は5ケ所あったけど、昭和9年の大水害で現在の中区祇園の場所1ヶ所のみに再設定した。
その6Kmのゆるやかな勾配の流れは後楽園の左側、現在の蓬莱橋のやや下手に設けられた「木箱管」に入って、なんと旭川の流れの下をくぐって、サイホンの原理でもって後楽園内に噴出する。
これが旭川より4mも高いところに池を出現させ、かつ園内の水の流れの演出となっていたワケだ。
昼夜問わず、それも電気代ゼロ円で水が循環すれば、後楽園の環境は今よりはるかに天然で、当然にそれに応じた植物なんぞも育っていたことだろう。
素晴らしい。
およそ50年ほど前までは、そうだったんだヨ。



※ サイフォンの原理



※ 上空からみた龍ノ口山麓(中区祇園)の取水口


6Km弱離れた龍ノ口山のふもと、旭川の取水口は今も整備され、なかなか良い環境に置かれてる。
そこで分岐された水は旭川荘(岡山県立支援学校)の裏手を今も綺麗に流れている。これは祇園用水といい、シーズンになるとホタルが舞う。
この水路は少し進むと分岐され、その内の1本が後楽園にまっすぐに向かう。それが後楽園用水だ。
が、それを辿っていくと、アレレレ…、就実女子大学の横から岡山プラザホテル横あたりでは宅地化で邪魔者扱いされ、土中に埋設された土管みたいな扱いになった末、後楽園のところで…、旭川へと結ばれるカタチになって、今、水はまた旭川へ返されてるんだ。
というか、捨てられている。


なんでそんなバカなことになってるかといえば、昭和30年代の後半に龍ノ口山のふもとに、旭川荘関連の養豚場が出来、その汚水が流れて後楽園にやってくるかも…、という懸念が生じてのこと。
それで後楽園のそばに機械施設を設け、ポンプに切り替えた。
後楽園すぐそばの旭川から直に取水することになった。
そうこうする内に後楽園と龍ノ口を結ぶ水路界隈も宅地化がドドンと進み、「どうせ使わないんでしょ」ってな感覚で水路はちぎられたり地下排水口みたいなアンバイにされ、今にいたるというワケだ。



※ 赤いラインが後楽園用水。プラザホテルの真横を通るが、埋設されているから判らない。


しかし、それから50年が過ぎ、旭川荘も綺麗に整備されてもはや汚水は生じないのだから、モーターポンプなんかやめて、水路利用の本来に戻すべきとは思うんだけどね〜。
ポンプの電源を落とせば水が止まっちゃう今の後楽園は、過去の叡智と努力を活かしていないんだ…。
後楽園のオフィシャル・ホームページは、ホントはこの6Km弱の長大な水路があっての「空中庭園」としての後楽園であったというコトをチャンと記すべきと思うんだがなぁ。
ま〜、「幻想庭園」というのも悪くはないですけど、集客がための催事イベントと後楽園造園の根本原理は違うハナシ。
なが〜い眼で後楽園という存在を見直し、100年先200年先の「岡山が誇れる文化遺産」として、やはり、ポンプじゃなくって龍ノ口山のふもととを結ぶ水路の復活に向けて努力すべきと思うんですがなぁ〜。
さらに云えば、その水路もまた観光資源に値いするものなんだ。
旭川・そこから人工で造られた独自の水路・人工の浮き島後楽園。この3つを同列で再考察すべきと、思う。



総社の備中国分寺五重塔が倒壊したさい県の文化課にいて復興に尽力した臼井洋輔も、『岡山の文化財』(吉備人出版)で、
「水こそが後楽園の生命である」
と、高低差を巧みに利用した江戸時代の叡智に感嘆している。
臼井によれば、旭川本流は龍ノ口山付近から後楽園までの間で9m落下しているのに対して、後楽園用水は同じ距離ながら5mしか下がっていないために、この人工的に作った4mという差が、旭川より4m上空へ水を運ぶ…、と記し、現在捨てられているその水量は、ポンプ汲み上げの倍という。
「この量こそが後楽園を最も美しく仕上げる設計時の水量であったはず」
現状を愁いている。
同感だ。

中国文学十二話

あの大雨以来の雨。久々に庭木に向けてホースを伸ばしたり巻いたりから開放された。
おしめり程度ながら、若干の涼を感じないでもなかった。
お盆さなかの昨日までは暑かったね〜。
その暑熱の中、墓参り。
日中より朝がラクだろうと、午前9時にお墓に出向いたけど、なんのなんの…、早や強烈に暑く、蠟燭に点火しお供えたら、な〜〜んとアッという間に半分溶けちゃった。
あまりのコトに写真撮るのも忘れた、ワ。
別に怪異でも何でもなく、ただも〜ひたすらの暑さが石を熱くして蝋を溶かせただけのコトながら、とろけるチーズみたいな蠟燭にゃ、おでれ〜た。


かつてその昔、大雲寺に「岡山模型」というのがあって、そこの女主人が県北は奈義の日本原高原・自衛隊駐屯地に戦車見学にいったさい、鉄板の塊たる戦車がどれくらい熱くなるものか…、隊員が生卵1つをエンジンを止めた戦車のデッキ部に割り落として見せてくれたが、たちまちに煮え、透明の白身が瞬時で真っ白になったというハナシをしてくれたコトがある。
今は搭載の電子機器冷却にクーラーが内蔵されているけど、乗員用のクーラーというのは依然としてないようだから…、戦車というのは「住まう」場所じゃない…。女主人いわく、
「夏場の戦車は手袋なしじゃ〜触れんし、中は蒸し風呂なんて〜もんじゃぁナイ。ありゃ蓋したフライパンじゃ」
フイにそんな、遠い昔の声を思い出したりもした。



ともあれ、墓所の暑さと熱さで喉カ〜ラカラ。
そこからほど近い所にコメダ珈琲東岡山店というのが出来たばかりだから、都合よし。
アイスコーヒーで喉湿らそう。
既に汗いっぱいかいたから、コーヒーはノー・シュガーを好むが、ちょっと糖分をと思いシュガー入りを。11時までモーニングというから、ゆで卵のをオーダーしたら、さすがお盆だ、早朝から来客多しでタマゴが直ぐには茹で上がらないという。しかたない、小倉餡のトーストをチョイス。
ところがま〜、運ばれてきたアイスコーヒーの甘いのなんの。
近年これほどの甘汁を吸ったコトなし。くわえてオグラアン。
甘味ダブルス。というかオグラアンすら霞むコーヒーの甘さ。
名古屋ビトは朝からこんなアミャ〜のか…。
脳、溶けないか?
またぞろ怪異をおぼえた。
「加糖にしますか?」
以後、同店で問われたら、「NO! NO! NO!」三連チャンで応えるっきゃ〜ない。
しかし次は、みそかつパンじゃな…。



怪異といえば、仙人やらオバケやらの怪異談。やはり中国が本場かな…。
本場というのもおかしいけど、はるか大昔からオモシロイのがあるし、そこから想を得て、国木田独歩芥川龍之介などなどが新たな小説を作ったりもして、なかなか奥深い。
けど奥深いというのは、それだけ永きに渡ってアレコレな話が創られているというコトでもあって、そこに分け入るには、ちょっとしたガイドがあった方がいい。
キリスト登場前の紀元前1000年頃の「詩経」から紀元後1300年代の「西遊記」やら「水滸伝」までだけでも、も〜2300年をかるく越えるから、ハンパでない。



※ 「邯鄲夢の枕」より。茶店で横になる主人公の盧生。今から変な夢世界に落ちるという場面。唐の時代の喫茶店は憩いの場ゆえ横になってもイイという文化事情もチラリと判るの図。


明治33年に生まれ1968年に没した、奥野信太郎という人がいる。
慶應義塾大学の文学教授だった人で、昭和30年代にNHKのFM放送で12回に渡り「朝の講座」という番組の中で「中国文学十二話」というのをやったそうな。
没後にこの放送の速記録が本にまとめられた。
これがガイドブックとして、素晴らしいんだ。
時折り引き返すみたいにボクも読む。
3000年を越える時空の中に綺羅星めく生じた数多の作品とその背景をば、この先生は実にうまく案内してくれ、かつ、そこに見解を含み入れ、硬くなく、柔らか過ぎず、芯のある良い湯加減というアンバイでもって誘ってくれる。
という次第で、本日の読書は『中国文学十二話』。
はるか前、何かのおりウッカリ表紙に油染みをつくってしまったけど、これもま〜、この本の味わいとして…、ワンポイント。甘いコーヒーをこぼしたワケじゃない。



しかしまた奥野先生は、実は奥野先生そのものがオモシロくもある。
なにしろこの先生ときたら、戦前は外務省北京在勤特別研究員というチョットないポジションにつき、戦中は中国の人に中国文学を教え、戦後は日本で中国文学一筋だったにも関わらず、えらい学者でござ〜いの証明書みたいな論文はほとんど書かなかった。
昭和30年代頃は、このヒトは随筆家として知られ、また酒場でのハナシがメチャに面白いヒトだった。
専門である中国文学のことは随筆の中や酒場で雑談的に披露されるだけだった。なので学者仲間や門下生は酒場にノートを持ち込み、先生の話す文学的エピソードを「うわ、おもれ〜」とメモってた。
そんなんだから、学問における出世をめざすような人には奇異で奇っ怪な存在、
「なんで論文書かないの?」
ズイブンに惜しんだようだ。
けど本人は平気。学内に籠もったベンキョ〜の虫より、かつて神仙と遊んだ中国の詩人めく酒を傾け大いに談笑磊落するをよしとした。
NHKの講座も、講座終了後にNHKは本にまとめたく、大先生に依頼してはいたけど氏は自身の語った速記録を受け取ったものの、結局、書き起こさないままこの世を去った。
それでこの本は弟子というか門下生の村松暎がまとめた。
村松によれば、大先生は放送時、原稿もメモもなくほぼ’即興だったというから、やはりスゴイ。
どうスゴイかは、読んで知って欲しいが、長大な中国文学とその歴史を奥野信太郎はあったかい血として体内に循環させ、講義や酒場で多くを魅了させたと同様にマイクの前に立っていたようなのだ。



この奥野大先生をしてガ〜ンと云わせたヒトが、かつてあったそうな。
彼は学生になった頃にどこかのお寺さんで森鴎外が話すのをライブで聴いたことがあり、その席で鴎外は寺の、とある碑文の解説を頼まれ、しばし一読後、『春秋左伝』の中の一節を原文のままにスラスラと口にし、ややこしい碑文の中にその『左伝』を典拠とする部分があることを一同に、これまたスイスイ〜っと告げたんで、それでガ〜ンだったという。
上には上があるというコトだろうか…。時代に応じたスーパースターが出てくるのは当然として、何か、明治の日本はその輩出量が大きいよう思えるのは、それほどに明治が苛烈な時でアレコレの摩擦係数が高いから研がれるモノもヒトも多かったと短絡に解釈したいような…、気がしないではない。むろん、奥野信太郎も含め。


ちなみに最晩年頃の奥野や教授になった村松暎に学んだヒトに、草森紳一がいる。
あのおびただしい多岐に渡った探求と随筆的書籍の数々は、門下生としての本領発揮という次第だったか。
後年、草森は昨品社の「日本の名随筆 別巻95」の『明治』を編んださい、「板垣退助の涙」という一文を自ら寄せ、明治期の演説と70年代学園紛争でのアジテーション演説を比べ、かたや漢文調が入って大袈裟だけどリズムがあって情念を煽るに適していたが、70年代のそれは漢文調(脈)がないから、ただの怒号でしかなかった…、と奥野信太郎同様おもしろいところをついて読ませてくれた。

足攣りバス

帰宅中にバスの中で、左足のふくらはぎが攣った。
ま〜、痛いのナンの。
バスは慣習として同じ席に座るけど、宇野バスの場合、その席がやや広いのとやや狭いの2種があって、たまたまその時は狭い方だ。
膝が手前の席にあたって居心地がとても悪い上に、足攣りだ…。
身をよじらせ、シューズを脱いで片足をあげたりさげたり、片足のみアグラをかくような按配で他方の足にのっけ、足首を伸ばしたり縮めたりして緩和に務めるも、不自由な姿勢、狭いシート…、よろしくない。



※ これは広い方。狭い方はエコノミークラス症候群を招きそうなホド不自由。


なので、いつもなら退屈の30分の乗車時間が、1人ジタバタしてる内、あっという間に過ぎちゃった。
下車。
自宅門前まで3分のところを脂汗浮かせつつ、トホトホ5分ほどかけ、ウチに転がり込むよう入って、居間でストレッチ。
短時間での過度のアルコール摂取と運動不足と水分補給怠りの3要素が見事にからんでの足攣りだったんだろうけど、あんまり経験したか〜ナイね。



大事なご友人が、ピーター・オトゥールの『チップス先生さようなら』を観たいというので買い、同時次いでと、オトゥール主演のDVD『ロード・ジム』も買う。
『闇の奥』のコンラッドが原作だし、前々から観たいとも思っていたので、良い機会。
例によって速攻で観られないけど、手元にあればいつでも…、という次第。
はじめて彼の映画をみたのは、『アラビアのロレンス』じゃなくって、1966年作の『天地創造』での天使役だったかな…、中学校の時だ。体育館に生徒全員が着座して見せられた。
で、あの青い眼の透明さにはずいぶんビックリしたもんだ。それが天使という役(ソドムの町の頽廃を検分にくる)にピッタリで、いっそ畏怖めいた戦慄すらおぼえ、ちょっと人間に見えなかった。ま〜、天使だからな…。
文部省指定の優良作というコトで体育館鑑賞だったんかな? オトゥールの青い眼以外、印象がない。



そういう天使が足攣りバスに乗り合わせていて、ちょいと足に触ってくれてスィ〜〜ッと痛みが引いていく…、なんて〜目にはあわないね、残念。
ヴィム・ヴェンダース監督の『ベルリン・天使の詩』では、なるほど天使はヒトに寄り添ってはいるけれど何も関与は出来ず、ただヒトの痛みに共感するばかりで、結果、天使自身が勝手に疲弊してるって構図で、ヒトと天使の物理法則的な乖離をおぼえたもんだけど、しかしバスの窓から外を眺めるに、たとえば岡山駅前とかの歩道を天使のような少女やお姉さんやおばさんが歩いていたりもして、眼はどうしてもそれを追うね〜。



疲弊で思うけど…、翁長雄志沖縄県知事はとても残念だった。
地方自治とは何か。民主主義とは何か。その事を一身に背負い、その矢面に立っての奮闘が彼を疲れさせてもいたろう。
闘病しつつ最後まで職務についた知事の廻りには多数の天使らが寄り添い、共鳴した無念を抱えて悶々とし、何も出来ないままにただただ肩を落とし、うなだれたはずと思いたい。
一神教の神さんの使徒だから、天使もまた選民主義…、そこに知事も選ばれたであろうという前提で。
チップス先生が惜しまれつつ退場したように、知事もまた…。



で、お盆。しっかり仏教…。
天使じゃなく、坊さんが間もなくやって来るんで、華宵庵の本店で和菓子を数個。
あとは、悪癖じゃ〜ないけど、習癖として、お布施なんぞを包んで…、南無阿弥陀ぁ〜ぶつぶつぶつ。

ありそうでないハレー伝

この前、マイ・マザーの部屋にいたらTVのクイズ番組で、司会のタレントが、
ニュートンといえばリンゴですが…」
そう切り出したんで、
「まだ、そんなコト云ってるんかぁ〜ン」
鼻で笑って、つい悪態をついてもみるのだった。
米国でもヨーロッパでも、もう14〜5年前から、リンゴに言及されることはないらしきだから、したがって14〜5周の周回遅れな感じをおぼえたわけなんだ。


それは後世に創られた美談的創作として認識が進んでいるようで、いまだニュートンのリンゴがテレビで語られたりするのは、どうも我が国だけのような感もなきしにあらず。
いわば真顔で、義経はモンゴルに渡ってジンギスカンになったんだぞ〜、みたいなコトを云っているに等しい。
なるほどニュートンのウールズソープの家の庭にリンゴの木はあるけれど、その落下が、決定的な何かを示唆するものではなく、関係も証拠づけられないんだから、当然にその言及はなされないというのは、まぁ自明のこと。
昨今はもっぱら、アイザック・ニュートンエドモンド・ハレーと、敵対するカタチでのロバート・フックの人間関係で語られていることの方が多いようだ。
もちろん、この関係はすこぶる面白い。誰もが知る「細胞」という単語をつくったフックも、ニュートンら同様にスーパースターながら、この関係においては悪役だ…。



※ ニュートン肖像画。荒ぶる金髪(かつら?)がおよそ250年後の英国ロックシーンの到来を物語るヘア・スタイルかどうかは知らん…。


けど一方、TV画面に文句云いつつも、ボクとて、リンゴの話に愛着がないワケでもない。
ウィリアム・テルの、息子の頭上のリンゴに向けての矢と同じく、良く出来たハナシ。内心はかなりお気に入りであったりもする。
着想が素晴らしく、この”作家”の技量に感服もする。
たぶん1番によかったのは、ミカンとかトマトではなく、リンゴを持ち出したことだろう。
リンゴの形と重さの感触は誰もが知るところで、それが重力という存在の頃合いにうまくフィットしているとも思える。スイカだとハナシが重すぎ、ココナツは硬すぎる。かといってメロンだと…、甘すぎる。
メタファーとしての「禁断の果実」とか「善悪の知識の実」とかいうのもからめたろう。カトリック教会に批判的だったニュートンのハナシゆえリンゴが1番に象徴的でもあったろう。彼は教会には批判者だけど熱烈なキリスト教徒で、イエス復活の日を数式で見極めるというような試みにも熱中したヒトだった。


けどまた逆に、リンゴに関して云うと、そのサイズと重みに重力というのが規定され拘束されちゃうようなペケなアンバイもこの逸話にはあるワケで、ま〜、そのようなことで誤解されても困ります〜〜という「公平な科学的見解」もあってアチャラの国々ではリンゴ話を止めにしたのかもしれない。



しかし、アイザック・ニュートンにしろエドモンド・ハレーにしろ意外や日本には伝記本がない。
ハレーはかの彗星で、ニュートンはリンゴで、共に誰もが名を知る有名人だけど、その業績じゃなくって人物の履歴となる伝記が翻訳されてない。変だね〜〜。
記述としてまったくないワケでもなく、彼らの業績を記した本にその付随的エピソードは紹介されるけど、単体の伝記書籍は探しにくい。



※ 竹内先生の本は判り良い。初歩の初歩を知るに最適。


※ ハレー肖像画。荒ぶらないけどニュートンより長い黒髪かつら(たぶん)がちょいとクール。


引力を受けて運動する物体はどういう軌道を描くのか?
この問題を数式で解いたニュートンに対し、ハレーは驚愕歓喜し、強く出版を進める。
英国王立協会から出版がきまる。
けど協会では前年だかに出した超豪華な「魚類誌」がさっぱり売れずで大赤字を抱え、ハレー達協会員の給料さえ出せなくなって、その本を支給することで給料とするという大赤貧だ。
そこをハレーが頑張って、ニュートンの本「プリンキピア」を協会から出させた。
ハレーが出資、自腹をきったらしい。
彼はどうやって印刷費を工面したか? 支給されていた『魚類誌』を売ったとして、どれっくらいのマネーと交換できたのか…? 彼の奥さんはそのことでエラク苦労したんじゃないのか…?
そんな下世話を知りたいんだけどねぇ。
そこを物語ってくれる伝記本が出てね〜〜の。
なんで?



※「魚類誌」は、稀に今でもオークションに出品されたりする。
最低落札額が£ 8,872.93というから…、だいたい1億2千万円以上用意しておけば、手袋なしで自室でページをめくる楽しみを味わえる。むろん、ハレーが生きてた頃は数万円くらいの、ま〜、それでも当時としてはとんでもなく高い本だったはずだけど。


※ 展示中の「魚類誌」と、欲しそうなヒト。


云うまでもなく、ハレーは彗星の発見者じゃない。
過去の古文献を丹念に調べ上げ、目撃例としてあった幾つかの彗星が実は同じものというコトをニュートンの引力の法則に基づいて計算し合致させ、軌道を導いて次の到来も示した。
嘘だと思うなら50数年先の某年某月が来るのを待ちんしゃい…、そう「予言」して世を去った。
で、その通りに彗星が現れた。ハレーの計算は立証され、そこでやっと彗星に名がつけられた…。



※ セーガン先生の良書。


台風だの大雨だのの天気図でおなじみの風向きを表す線と矢羽根記号は、実はそのハレーが発明したものだし、彼は海中に大きな瓶(かめ)を沈め、空気を送る管をそれに連結させて自身が乗り込み、3時間以上海中生活を送って、これを事業化。港湾界隈に沈んだ船の金属パーツなどを回収する仕事を成功させたりと、後のヴェルヌも驚く冒険をやってるユニークさ。
彼の伝記を読みたいじゃないか。


かつて英国王立協会にあったロバート・フックの肖像画は現存しない。
協会に復帰したニュートンが焼いちゃったというのがモッパラな噂。
やはり荒ぶる金髪…。


ハナシ次いでの余談ながら–––––––。
理科大のK先生から、本1冊、
「これオモシロイ」
とのことで借り受ける。



※ 『宇宙に命はあるのか』小野雅裕/著


ややタイトルと中身が乖離しているけど、内容良し。ジュール・ヴェルヌのことから昨今の宇宙に向けての技術者の話など開拓史的なノリで綴られ、映画『ドリーム』を観たさいと似たワクワクした知る喜びをあじわえた。
しかし、表紙はいけない。
偏狭なナショナリズムすら感じて、かえって損してるような気がしないでもない。それに、本がこっちを挑み見てるようで愉快でない。
こういうのって、ちょっと不思議。絵の人物が視線をそらしてりゃ、ここでブ〜たれるコトもないんだけどね、視線が強すぎ野望ギラギラなんだよね。
眼がいやらしいんだ、この絵は。
自分の本ならマジックでサングラス書き加えてもいいけど借り物ゆえ、ねぇ。
その点、ハレーの肖像画はいいね。こっち見てるけど穏やか。こっちに眼をやってるけどコッチに興味を示していない。
だから逆に、「先生っ、ボクいますよ〜ここに」とこちらがこの絵を注視しちゃうんだ。
アップでハレー先生をば…。チョイとモナリザっぽい蠱惑あり。