明治お肉史 part.1

今回は11/17の講演内容に触れようとも思ったけど、チョット浮気。
明治の頃のお肉についてを。


ご承知の通り、明治になって日本は牛食するようになった。
ヒンドゥー教徒ジャイナ教の方が多数のインドなどの国が牛食を、イスラムの方々が豚食を今も基本的に忌避するのとは違い、明治になった日本は海の向こうからやって来た慣習にアンガイ容易にのっかった。
西洋人の振る舞いをコピーした。
日本の牛食のスタートは横浜だけど、といって、彼ら西洋人が日本の農家から牛を仕入れたかといえば、そうでない。
西洋人が当初日本で食べたのは彼らの船に積んで持ち込んだ肉であって、仕入れの先は隣国・清の港だ。
(腐敗防止には氷を使った。ボストン氷といい、はるかボストン港より横浜港まで運ばれた。当然に遠距離ゆえ溶解率も高くて高価だが、やがて医療目的でこれは日本でも販売され、やがて明治20年代にはかき氷に転用される)


大昔、卑弥呼の時代にこの国に牛はいない。馬もいなかった。
魏志倭人伝』は卑弥呼の都に牛馬がいないコトを奇異な光景として記述した。
やがて大陸から運ばれ、家畜として定着をする。平安の頃には牛車に使うなど、あたりまえに存在するものになる。


お江戸の時代、日本の農家は、なるほど牛を飼っているし、売買の対象でもある。
けども、それは喰らうものじゃない。
農業にとって牛は労働力として大事なものだから、母屋に住まわせている。
田畑では酷使するものの、夜は、1つ屋根の下、半ば家族的なポジションに牛を置いてるんだ。
だから、それを食べるために売ってくれ〜には、ひどく拒絶した。
ましてや肉食はご法度、いけませんというコトになってもいたから、山くじら(猪肉)や鶏(かしわ)は食べても、牛肉は心理的にも生理的にも食卓に登るものじゃなかった。
肉提供の最大の抵抗者は、牛を飼育している農家だった。


元治元年(明治元年の7年前-1864)に幕府は、洋人の食に対応するため、横浜の居留地海岸通に屠牛場を設ける。
しかし、上記の通りのありさまで近隣から牛を入手出来ずで、屠るとは知らせずに神戸界隈から牛を買い取って運んだという。
今のABE政権もそうだけど――いわば外圧に晒されるままに国民を騙す。牛を供給できるカタチにもっていったワケだ。



けどもま〜、好事家多し……。
一方で日本人は知らないモノへの興味の眼圧も高いんだ。
西洋人を真似てオコボレを頂戴するように居留地で食べてみりゃ、これがメチャに旨かった。
外圧どころか、旨味を知った舌が一変し、今度は内圧となって、「もっと喰いて〜」の声をあげさせた。
その声とほぼ同時期での開国だ。欧米文化こそがイチバンじゃ〜んという短絡で急峻な大波がドバ〜ッとやって来た。
政府自ら、西洋化の体裁を整えるようにして、「牛食は滋養豊富ナリ」と推奨するに至る。
結果としては「神戸のウシはうまい」という、いわばブランドとしての地域特性が牛肉に加わわりもする。
いわば、180度の大転換、ビッグバンが生じたワケだ。



その明治元年に横浜で創業した串焼き屋「太田なわのれん」は、炭火の七輪に浅い鉄鍋をかけ、牛肉ぶつ切りを味噌で煮、さらにネギを入れて肉の臭みを消すという方法を産んだ。
店先にのれんを掲げ、「うしなべ」と書いた。
これが牛鍋の最初の事例ではないけれども、文字として登場させたのは、この「太田なわのれん」だったようである。

そう……、ギュウナベではなく、ウシナベと云ったんだ。
で、アレヨアレヨという間に、鍋で牛肉を食べさせる店が横浜から東京へと増えてった。
肉を薄切りするスライサーなんかナイ時代だし、屠牛場も増えはしたが、鮮度という一点は曇ってる。
それで味噌で煮て匂いを消すが、ほぼ定番化した。



けども、ウシナベという単語は広まらなかったようだ。
明治5年に仮名垣魯文が『安愚楽鍋』を刊行した。
これは東京で大流行の牛鍋屋に出入りするピープルを滑稽な筆致で描き出した怪作で、今となっては当時の生活を知る良い参考書でもあるのだけど、ウシナベという表記は少ししか出てこない。
なんでも縮めちゃって云う江戸の気風がそうするのか、東京ではウシヤと云っていたようだ。
牛店、あるいは牛鍋店と書いてウシヤとルビづけされている。
時にナベウシなる表現もある。
断髪令が発布されたのは明治4年だけど、明治5年の同書の挿絵をみると、髷を結った者、ザンギリにした者、いずれもが七輪に小さな鍋をかけている――。
ご飯は添えない。酒と鍋だ。




記述を読むに、店の呼称より、もっぱら東京ピープルの関心は、肉の鮮度のようである。
「濱(はま)で屠(し)めたのをニンジンと湯煮にしたのを食べちゃア、実にこんなうまいもんはない」
と同書に、ある。
横浜から東京への距離が、まだ汽車のない時代の物流速度が、そのあたりに潜んでる。
同時に、これは味噌煮でないことも判る。
湯煮た後、醤油をかけたか、あるいは醤油で煮たか、味噌ダレだったか、いささか定かではないけども、少し年数が経って、ルポライターの先駆者とも云われる明治のヒト篠田鉱造の『明治百話』には、

 明治二十年頃の四谷の三河屋(牛肉屋)へ、月四回は欠かさず、掛取りや注文取りの帰りがけに押しあがって、杯一を極めるのが、番頭の約得、三河屋のおかみさんはよく知っていまさァ、ある日押登るなり、女中に向かって「姉やん、鍋に御酒だ。ソレからせいぶんを持って来てくンな」と吩咐けたら女中は怪訝な顔をして、帳場へ往ったものだ。おかみさんも解らないので、こりゃ解らないのが本統さ「何でございます。せいぶんと抑しゃいましたのは」と、ワザワザ問い合せに来たので、大笑いだった「ナニサ、玉子のことだよ。せいぶんをつけるからさ、この山の手では流行らねい言葉かい」と言ったもんだ。

※ 岩波文庫・下巻「集金人の約得」より抜粋。



ここでは生タマゴの活用が新規なものとして描写されている。
たぶん、明治20年頃にはもう味噌煮でなくても大丈夫な、鮮度を持った牛肉が市中に出廻っているのだろう。
ナマタマゴを使うことは、明治20年代になってやっと始まったらしきコトもこれで判る。


我が岡山で牛肉を食べさせた第1号は、可真町(千日前付近の旧名)の『肉久』と云われる。
肉久と書いて、ニクキュウと読む。
開業は明治8年頃で、珍しくもこの店では椅子に腰掛けるカタチで座敷ではない。それで「座敷スキ」と後に呼ばれもした。
牛肉にネギやその他を含め、タマゴ1ケがついて1人前5銭。
「すきやき」の名と、ネギ以外の諸々を一緒に煮る方法は関西がスタートなので、『肉久』はその関西スタイルだったろう。
この店を紹介しているのは当時出版された『岡山商工往来』だけど、当時の様子を描く別の本では、上之町(現在の天神町)の『和久七』が第1号と書かれていたりもして、どっちが1番だか2番だかよく判らない。
『和久七』は今は実に瀟洒で感じの良い写真館『島村写場』になっていて、2階のスタジオでパチリと写真を撮影してもらえるけど、同家には、明治の『和久七』時代の鉄鍋が現存する。


ウシナベ→ウシヤ→ギュウナベ
この名前の変遷を、ボクは面白がってる。
この岡山じゃ、そこはど〜だったろう?
というのが『亜公園』の中にも牛鍋屋があったんだ。
『和久七』から直ぐそばだ。いわば競合店だよ。
ご両者、鍋を当時、どう云ってたか、ウシナベかスキヤキか、そこを想像してるワケだんわ。


それともう1つ――牛丼のみがギュウドンといってウシドンじゃないのに、豚丼や鶏丼はなぜブタドンにトリドンなのか?
音読み、訓読みのこの分別化がわからない。
さらには、「親子丼」や「他人丼」や「木の葉丼」といったやや美しくって優しげな響きある単語を編み出した方々の俊才っぷりにも興味をもつ。
「親子丼」をオヤコドンブリじゃなくオヤコドンと命名したのは、どうも明治17年頃の神戸を起源とするようだけど、ふ〜〜む。
どうでもヨロシイことだけど、ちょっと、どうでもヨクもない。


〜続く〜

岡山神社 − 社報


岡山神社さんの社報『さかおり』に、寄稿している。
10月の秋期大祭に併せて刊行配布の最新号だ。
今回は、甚九郎稲荷の石門についてを書かせてもらった。
岡山神社に出向く方あらば社務所で頂戴できると思う。ご一読あれ。
ここでは、その石柱について補足的に触れておこう。



この石門(柱)は今は甚九郎稲荷の玉垣の一部と化して、あまり注目されていないけど、大まかにいえば、これはかつての「亜公園」内にあった天満宮の”鳥居”(石柱)で、当時は独自に立っていた。
「亜公園」の基礎構想には岡山神社内の天満宮と密接にからむ諸事情があって、だから巨大な複合娯楽施設だったとはいえ園内に神社(天満宮)を設置することは、最初から計画されていた。
その後およそ10年、同園は市内最大の観光スポットとして盛況だったが、明治38年には閉園となり、園内天満宮甚九郎稲荷に移設された。
石柱も移動し、上の写真の通り、稲荷入り口にある。


鳥居というのは、2つの柱を結ぶ「貫(ぬき)」と「笠木(かさぎ)」が頭上にあるのが基本だ。
参拝者はその下を潜り抜けるというのが通常の構造だ。
しかし、この石柱にはヌキもカサギもない。
だから、細かにいえば、これは鳥居じゃ〜ない。
が、鳥居として”機能”するという門柱だ。



※ 岡山神社の鳥居「随神門」を例に解説 ♥


鳥居のない神社というのは、実はとても少ない。
ボクが知る範囲では全国に2例しかない。
群馬県太田市の石原賀茂神社と、さいたま市浦和区の調(つき)神社が、そうだ。
石原賀茂神社のは甚九郎稲荷と同様に石柱だ。
調神社のは巨木に育った2本のケヤキを柱とし、注連縄で結んでいる。
ご両社ともに鳥居のない事を逆に”誇り”にしておられ、たしか太田市では観光スポットのスタンプ・ラリーの1箇所に同神社を指定していたと思う。



※ 太田市の石原賀茂神社


だから実は、甚九郎稲荷に立つ2柱はとても稀有な存在なんだ。
これが「亜公園」内にあった頃の明治時代を思えば、訪ね寄ったヒトは皆さん、まずはこの石柱のところで足を止め、
「今よりお参りいたします」
一礼したに違いなく、神域の境界として今よりはるかに重要な役を担っていたと、これは断言できる。
鳥居らしきカタチじゃないけど、それでもコレは鳥居だろう……、かすかな訝しみをおぼえつつも参詣した筈だ。



※ 「亜公園」で販売されていた「亜公園之図」の一部分。石柱が確認できる。
何故にこのカタチとなったか……、もはや空想するしか手がないが極めて稀れな門(鳥居)だというコトをご理解いただきたい。



※ 模型再現による天満宮。このカタチがそっくり移築されたのが甚九郎稲荷だ。
今の甚九郎稲荷は戦後に造られたもので赤く塗られているけれど、焼失前、明治から昭和20年8月まではヒノキの木目がよく映えた社(やしろ)だったんだ。



※ 「さかおり」表紙。亜公園の集成閣と天満宮の模型を大胆にあしらって斬新、クール♥


ちなみに寄稿した記事では、鳥居の色についても言及している。
鳥居といえば誰もが赤(朱)色を思いがちだけど、実は全国神社を統計的にみれば大半は白系列なのであって、それは木造構造物たる本殿や拝殿のヒノキの白に呼応して……、と、そのあたりの消息は11月17日のシティミュージアムの講演「岡山木材史」の中で多少、触れようかと思う。
なぜに日本人はヒノキ造りの家を好むのか……、どうも、その木目の白さに秘密があるようなのだ。



11/17講演のチラシはこちらからダウンロードできます。

11/17-講演のお知らせ

11月17日の土曜に岡山シティミュージアムで講演します。
今回のタイトルは『明治大正昭和 岡山木材史』。


木材を通して、明治から今にいたるまでの文化的諸事情を、3部構成でお話しようという企て。
ボクは明治の時代を担当。
大正から昭和にかけては、岡山市立中央図書館の前館長・大塚利昭氏が担当。


第1部となる明治時代は「亜公園」がらみでもって話をします。
なぜなら、亜公園を創った片山儀太郎は木材商だったから。
岡山の木材商・久志屋に嫡子として迎えられ、豊島から儀太郎さんが12歳でやって来たとき、時代が変わります。
お江戸の時代が終焉。明治になります。
そう、儀太郎さんは12歳までは江戸時代のヒトだったんですな。
彼が生まれた頃に桜田門外の変があったりもします……。



幕藩体制から明治新政府への移行は、大転換です。
ハチャメチャといってよい激変は日本中を振動させます。
この時期、実は木材商は川面の木の葉のように、揺すぶられ翻弄されています。
収入の大半は武家やお城関係の建造や修築で得ていたのが、その肝心の武家がなくなったワケで、途端に木材が売れなくなります。
そうでなくとも幕末頃からの政情不安定で家屋が新造される割合もメチャに減っていました。
岡山の場合、多数あった木材商は明治10年頃には、なんと9軒にまで激減します。
市内に、たった9軒ですぞ……。


その大難な時代を、若い儀太郎さんはどう乗り越えたのでしょう?
何をどうやって、アッという間に巨大な収入を得たか?
この大転換の時期、彼もまた木材業としての大転換を率先して行います。
ん? それはどんなの? ———

ま〜、そういうトコロから話し出す予定です。
自分で云うのもオカシイですが、結構、おもしろい話です。
もちろん、木材そのものが話のキーですよ。
大塚氏との対談で進める予定の第3部では、桃太郎のおじいさんの話も登場し、
「あらま〜! そうだったの〜」
という気分も味わえると思います。
この講演は、シリーズ「知らない岡山」という流れの中で企画されてますくらいで、世の中、あんがいと気づいていない事、知らなかった事が多いんですね。
詳細は後日にまた紹介しましょう。

日時 2018年11月17日 土曜
   午後2時〜4時 
場所 岡山シティミュージアム 4F講義室
料金 無料


前回の講演では定員オーバーとなって複数の方々がロビーのモニターで聴講ということになってしまって、申し訳ないやらアリガタイやらでしたが……、開場は1時半からです。少しお早めにお越しくださればお席があると思います。



 告知フライヤーNo.1 - 市内に配布されるチラシはチョット異なる予定。まだ本日の時点で出来上がっていないワケで…… ^^;

ジャズ・アンダー・ザ・スカイ

昨日。6日。下石井公園の広大なグラウンドに大きなステージと客席が出来、大勢の賑わいの中での音楽イベントを行っていたハズなのだったけど……。
台風接近だ。
どう影響が出るか判らない。先週のイベントをはるかに上廻る規模のイベントゆえ慎重さもまた増加し、これはもう伏せてなきゃいけないコトでもないから記すけど、開催2日前には「中止」が確定した。
行政との共同事業なので開催有無の最終決定は行政サイドがおこなうワケなのだ。



自然の振る舞いには抗えない。その振る舞いの中で右往左往するっきゃない。
で、こたびフタを開けると……。



6日の朝7時前。日差し眩いお天気だァ。
前回の台風で吹き飛んだ金木犀の花は、第二陣をいっぱいつけて近寄れば良き香り。日差しに葉を揺らせてる。



パッションフルーツの葉陰の向こうにゃ、青い空。
あじゃぱ〜」
暴風雨になる予報がこれなんだ……。


ハシゴを外された――これならイベント、オッケ〜だったなぁ、とつい思ってしまうけど、それは結果オ〜ライな感傷だ。
いささかに安全性の確保という点が一人勝ちした感もあるけれど、中止を悔いても詮無い。ましてや6日が仏滅だったから……、なんて〜コトはまるで関係ない。
今から20年後の天気予報なら、きっとより精度高い予測が出来ると思うけど、今はまだ途上、20年後の未来を生きてるワケでなし。


でも、実はコッソリじゃあるけれど、自分の直感は、こうなるんじゃないかしら……、ずっとそう囁いていた。
けども、『直感予報』は根拠なし、科学じゃないし、と嘲笑されるから、あまり役立たない。
こうしてポッカリと1日が、浮いた。


しかし、奇妙にも、このポッカリを悦んでるようなトコロもある。
はるか昔にあじわったフイに休校となったさいの気分に、近い。
先週土曜に次いで、またもの長時間”ワーク”に耐えられるのか、年齢的な衰退をおぼえないワケでもない。
それで、実際は消失そのものなのに、ポッカリ空いちゃってフリーになった浮遊錯覚が、ま〜、ある意味で気分を高揚させもする。
お・か・し・な・も・ん・だ。


庭池の金魚も、想定しなかった好天に、なにやらボンヤリしちゃって浮いてるような感じがしなくもない。しばし眺めてたけど、水面近くに浮上したまま、ボ〜〜ッを続けてるんで、こっちが見飽きてしまった。


けども、じゃ〜、このポッカリを有意義に過ごす原資に出来るかといえば、これさっぱりチャンメン
「おっ、今日は時間たっぷりンこ!」
目覚めて、布団の中で足をバタバタさせただけで、ヘルシーお野菜たっぷり具沢山どころか、結局は、DVDで映画を1本観る程度……、なのだった。


夜になってOH氏と合流、ライブハウスのMO:GLA へ。
毎度、この音楽祭のたび、楽器手配やら打ち上げ会場などで世話になってる関係もあって、御礼と若干のお詫びをかねて。
とはいえ旧知にして懇意 ―― 遠慮なし、忖度なし、本音な話でケラケラ笑う。
いつのまにやら、へつらい・つくろい・嘘八百・風向き次第、が横行する世になっちまっているけれど、キチリと歯車が噛み合う風情や心地よし。
この心地は科学じゃないし、政治的バカ力学でもない。いわば人情、いわば義侠、いわば仁義がらみ、その好感。
開催出来なかった鬱憤がこの歓談で多少薄れる。
早々の中止決定でガックシな1日となったけど、なぁ〜に、この良き仲間たちとまたチャレンジすればイイ。
リターン・オブ・ザ・ジャズ・アンダー・ザ・スカイ。



前回、OH氏とのツーショットはないと書いたけど、OH氏指摘するに「1枚あるよ」とのコト。8年前に森山良子さんを呼んださい撮ったという。
ほほ〜、なるほど。
せっかくだ。見比べてみよう。




歳月に これまでの花 これよりの桜かな  
西川織子 作

ちゅうぎんまえジャズナイト

土曜の朝の7時にマイ・マザ〜の朝食を用意し、お食べいただき、後片付けが済んだ頃合いにkosakaチャンの車が迎えにやって来て、セブンイレブンのコーヒーを車内で啜りつつ会場に運ばれる。
ながい1日のはじまり。
毎年繰り返してきた「ちゅうぎんまえジャズナイト」。
今回17回目。



イベント済ませて帰路についたのは夜の11時頃。
く・た・び・れ・ま・す
近頃は自転車で出かけるよりバスでお気軽にを繰り返しているから、余計、足腰脆弱。
体力の衰えハナハダシ。
裏方としての音楽イベントの醍醐味を味わう以前のモンダイがジワワ〜っと、体力限界という名で攻め寄ってくる。
身体のアチャコチャから隙間風が入ってくるみたい。哀しや秋の風。
けども、年にただの1度のY事務局長らとの昼食は、我がお・た・の・し・み
中国銀行本店から僅か120m、いつもの「じゅん平」。
勝手に冷蔵庫からビールをば取り出し、グラスに移してグビ〜ッと呑むその旨さ格別。
今回はミックスフライ定食で、Yもボクもアジフライにはソースじゃなくってお醤油タラ〜リ。
いいね〜、アジフライに熱々な唐揚げやコロッケやらやら。
揚げ物は、二律背反の醍醐味こそが命だぞ。
宇宙空間と大気圏のハザカイを味わうがごとく、表面のカリッとサクッとの歯ごたえに対する中身の柔らかジュ〜シ〜さが、熱さフ〜フ〜ッと相まって天上的旨味になるワケだ。
「じゅん平」の場合、揚げて即にテーブルに運ばれるから、旨味率ほぼ100%。
揚げもまた”鮮度”が大事なんだわさ。



しかしこたびは……、台風大接近。
開場直後まで雨に濡れる椅子席をタオルで拭き拭き、どうなるコトやらと案じてたら、開演と同時頃に雨はピタリとやみ、終演後も落ちず。
「どうなってんのかしら?」
逆に訝しむホドであったけど、結果オ〜ライ、肩の荷の一部がおりた。



ステージ進行中。


終演後、Eっちゃんに頼まれていた名渡山遼のCDをば、お客に混ざってこっそり並んで買う。
並んでモノ買ったの……、ヒチャチブリ。
で、内ジャケットにサイン入れてもらいましたとさ。
毎度、イベントのたびミュージシャンのそばに付き添ってお客の対応をしてきた身としては、妙に新鮮。並んでるのをスタッフのA嬢が見つけ、「何してんですかフクイインチョ?」声かけられて思わず声が出ず、苦笑した。



さてと次土曜は、別会場の下石井公園。
また次の台風の接近予報が出てる……。
どうなるコトやら。
とはいえ、イエ〜イエィ♪、会場で味わい吸う空気の味覚というのは、これは特別だ。
ピンと張った弦の綺麗な音色の振幅が、体内で共振するみたいなイベントの醍醐味は、かけがえないお宝時間。
日常にないテンションの張り具合の中に身を置くのは、好きだな〜。
トシをとると、心と身体がうまく連動しなくって、きっと諸君もいずれは判る時が来ると思うがね、そのさいは慌てず騒がず、
「ぁ〜、しんど」
タメ息つきつつ、タメ息ついちゃってる自身を愉しむよう心がけるべし。



あるようでなかったイインチョとフクイインチョのツーショット。
しかも背景中央では名渡山遼がリハーサル中という、レア極まる1枚。
ドンピシャ・グッドタイミングな撮影はMIEちゃん。感謝。



台風一過。
朝の5時半に庭にでると金木犀の花がほぼ全部…、風にやられてた。
今秋は香りを楽しめないことに。

パーティ2つ

季節の巡りは、およそ50年前とはまったく違う。
50年前の小学校の絵日記では、8月の朝顔の絵が描けたけど、今や、8月に朝顔は花をつけず…、10月になろうという頃合いで盛りとなる。
気温が50年前とは違いすぎ、8月や9月前半は朝顔には暑すぎる辛抱月ということになるんだろう。
歓迎すべき変化じゃぁ…、ないね、きっと。



懇意のマリッジを祝う集い。
懇意を偲ぶ集い。
たまたま連続。


2つは一緒でくくれるような性質じゃ〜ないけれど、人を思う気分昂らかは、お・な・じ。
基礎となる母音の「あ」と「い」、そのもの。
なので、それゆえ、『愛』とは安直過ぎ。そんなペタンコとはチョイ、色彩が違う人の集い。



いずれの会場も初めての場所だったから新鮮が加わりもし、卓上の料理がいっそう美味かった。
かたや小笹が植わった小庭をガラス越しに見る小料亭での、ごくごく少数、ハッピーブラボ〜の酒席。
祝いのブーケとプレゼントにニッコリのご当人は来春には横浜方面のヒトになって、この地からはチョイと離れるけど、な〜に構やぁしない。
新天地での新鮮を充分に味わいつつ、すこやかにお元気に〜〜ィ、と杯を重ね、お箸を動かす。
定番のお刺身とは別に焼きサンマも出ました、な。
ペロリたいらげ2〜3度乾杯。



近頃の料亭では自家製のお豆腐というのが、流行りだそうな…。仕事の付き合い上、宴席に出ることが多いT君が教えてくれた。
お豆腐そのものよりダシの甘みが美味しかったので、オチョコにこっそり注いで呑んじゃった。
それを肴に別のオチョコで常温酒を、クイっ。
クイっクイっ・クイっ。



かたや偲ぶ会。
とはいえラフなスタイルでの大勢な集い。



故人となったマ〜ちゃんに連れてかれた土佐は久礼で、カツオのたたき、その藁焼きを食べさせられたさいの驚きは今も新鮮なまま炯々として体内にある。
いや実は、たたきがまったく苦手で、これだけは生涯ゼッタイにハズレのアメダメだす〜と思い決めてたのが、海を見下ろす丘の上の黒潮工房でいともたやすく粉砕され…、
「ありゃ??!」
喰えるじゃん、旨いじゃん、2呼吸で鮮烈されちまったのを、思い出す。
もう10年も前だ。




そ〜、あれから一緒に何度も土佐に行った。そのたびに新鮮なたたきと接した。
ボクが産まれ育った山間の津山では味わえない…、要は、鮮度のモンダイなのだった。
プラス、やはり、そのたたきの本場本拠地の空気感が、食べられる下ごしらえの味付けとしてあったには違いない。なので今もって、カツオのたたきは岡山では食べない習癖をいっそう強固にしちゃってるワケだけど、教わるコト大な高知の海を見下ろす御食事処だった。



で、その新鮮をパーティで、むろん、たたきじゃないけれど、パーティというカタチの中におぼえて、ちょっとタメ息なんぞをついちゃった今日この頃。
この先、共に高知にゃ出向けなくとも、な〜に構やぁしない。
カサブランカ』のボガード風にいえば、
「ボクにはあの日の土佐がある」
ボギーは手巻きシガレットの煙にくるまれてそのセリフを云ったけど、こちらはニンニクからめたワラ焼きの煙をいぶすように思い出しつつ、気分を真似てみるのだった。



ちなみに、偲ぶ会に出向くバスの中で50円硬貨を拾う。
ゴエンでなくゴジュウエン。
このエンはどういうコウカあり? 
とか思わず黙ってポッケに入れ、帰りのバス代の一部に活用させていただいた。
縁といえば、近いうちに納骨されるマ〜ちゃんの墓所とウチのそれとが同じ分譲墓地ということかしら。20数歩で「こんにちわ〜」な距離が妙に嬉しかったりする。

聊斎志異

雨中の午後、カサさして、今月29日の「ちゅうぎんまえジャズナイト」のための、地域への挨拶とお願い。
市の文化担当者さんと共に、複数の町内会長やら地域企業を順次に巡る。
全国津々浦々の屋外ライブイベントは、きっと似たような挨拶やお願いを裏方がやっているんだろう。地域の方々の協力なくしては屋外イベントは成立しない。
でもって、お天気が常に問題。だんとつ協調から遠い。
だから、当日だけは降ってくれるな…、との思いが募る。身勝手だけど、ま〜、これだけはしかたないのだテルテルボーイズ。


挨拶廻り後、会場となる中国銀行本店前近場の「倉敷ぎょうざ」で餃子1パックをば買う。
程よいニンニク加減がわが好み。焼き立てをハフハフと口の中で転がしつつビールで流し込むのが好き。
雨中行軍の自分へのご褒美じゃ〜ん、なんて〜コトは思わない。自腹きってご褒美もあるまい。
本場中国では餃子といえば水餃子だけど、個人的には何といっても焼き餃子。
麺に炒飯に焼き餃子。この3点でもって我が中華は完結しちまうのだッチュウカ。



その中国で生まれた…、『聊斎志異』を複数、持っている。
およそ400年前の作家・蒲松齢(ほ・しょうれい)の作品集。聊斎(りょうさい)は彼の書斎をいい、聞いた話やらを書きとめつつ創案で膨らませ、その書斎で綴ったもの。


大きな活字で読みやすいけど全話をギュ〜ギュ〜詰めにしちゃってるからとっても重い大判のは書棚に置き、お手軽サイズな文庫版を別室ベッドの横に置く。あっちでも、こっちでも…、読めるように。なので複数。
実際は500話を越えてるんだっけ?
日本で流通しているのはその内の半分くらいの翻訳かなぁ?
小篇の数は忘れたけど、1分内で1話読めるのが多数なのがいい。
餃子のギョの字は拾えないけど、人がいて、怪異あって、ヘンテコな展開となれども、それを実に淡々と僅かな文字数で記してあるだけ…、といったら過言だけど、その淡々っぷりがいい。
就眠直前に適当にページを開いて、そこにある小篇を1つか2つ読んで、お・や・す・み、だ。



いっとき杉浦茂にハマってた頃は、彼の『聊斎志異』にも眼を通したけど、とても残念なことに杉浦ワールドと聊斎志異ワールドは、同じ異界ハナシだというのに相性が悪かった。
上中下の3巻描き下ろしの予定が2冊は出たけど下巻がとうとう出版されなかったところにも、不首尾がうかがえる。
惜しい話だけど、しかたない。『聊斎志異』の奔放と杉浦の奔放は方角が違うものだった。原作を杉浦的に翻案しようとすればするほど、両方の魅力が崩れてった…、という感じだった。



その点では諸星大二郎は天晴、『西遊記』なども含め中国の古典の奇っ怪をよく咀嚼して、実に味わい深い。
たぶん、そのコマ運びの突き放し方がうまいんだと思うが、彼の中国もの、『西遊妖猿伝』を含め、『諸怪志異』も『碁娘伝』も『太公望伝』も…、ベッドの横に置いてる方が、安眠しやすい。これもまたページを選ばず、開いたところを眺めてる内にトロリンコ、お・や・す・み、だ。



ま〜、そういう本をベッドに置いてると、時折り、影響が夢に出る。
弓の名人がいて、その人の警護でボクを含め複数が彼を取り囲んで、遠方まで旅してる。
途中で敵の弓矢が飛んでくるのを、コルクを分厚く表面に張ったカサでふせぐ。
名人を中心に置いて我らがカサをさして、守るワケだ。
飛んでくる音はしない。ただカサに弓が刺さる感覚のみ。
夢なのに、コルク張りのカサが実にうまく描写される。
けど、押しくら饅頭みたいになって、歩きにくいったらない。
そのうえ、密集してるから暑い。
7〜8人で亀の甲羅の役をやってるワケでボクはその内の1人だ。
「あと6里だ」
誰かがいう。ということは後24キロも…、その状態で歩かんとイカン。
それはいかん。やってらんない。
と、うまく場面変わって、お城の中で弓の名人から、「ごくろうさん」とか云われるシーンになる。
コルクのカサには弓矢がいっぱい刺さってる。

と、また場面というか印象が変わって、なにやら長老みたいなのが、
「それらの矢は我が方が賜ったもの。だからこの国では矢は作らなくていい、流用して使うべし。で、1本は警護の者が取って持ち帰ってヨシ、イワシを干したのと一緒に玄関に吊って家宝にせ〜」
ワケわからんことを云い、その横手にイワシ販売の屋台が出てる。
それでオシマイ。
実に『聊斎志異』的な小咄だと、目覚めてニッタリ笑う。
が、すぐに、も少しパンチが効いたオチが欲しいなぁ、などと残念だったりもする。
けど、そうやって覚えてるのはごくごく時たま。
たいがい目覚めた途端、消えてっちゃう。
ま〜、そこが中国幻想譚の影響っぽいところ。淡いはかなさというもんだ。
消えることを惜しんでもしかたない。


ハイ、ぎょうざ。写真でちょっとおすそわけ。
1パック40ケだからね…。2夜、愉しめるよ。