ちょっと一服



某日午前。
百間川の橋の上から、眺める。
3羽のシラサギが昼食を狙う。
およそ4分ばかり付き合ったけど、収穫なし。
その間、3羽ジッと動かず。
見飽きて場を去りはしたけど、尺度の違う根気強さを思わずにいられない。


この11日に、ダグラス・レインさんが死去したね。
2001年宇宙の旅』で HAL9000の声を演じた人。
ハルといえば、その静かな声。
静かな声といえば、ハルを思うほどにボクの頭の中では1つの独立したボックスに収まる声だった。
概ねで静かな声というのはさほど印象に刻まれないものだけど、ハル=レインの声は転写作用が大きかった。
声だけが出てきて姿がないから……、と思ってしまいがちながら、姿は常に、ゆるぎない自身に満ちた”健康体”としてのディスカバリー号という宇宙船というカタチで出ている。
HAL9000ディスカバリー号
しかもチャンとした目的意識を持って。
なのでこの”健康体”は、内部に搭乗した3人の科学者と2人の飛行士を、当初は良き善玉菌ではあったけど、悪しきなガン細胞にそれらが転化したと考えだす。
コンピュターが殺人を犯した初事例とかいうけど、HAL9000は自身の健康維持のためのウィルスの駆除を開始した……、と、いまだこうやってアレコレ解釈したくなる。
だから、近頃の自動車業界やらがAIの自動運転めざして躍起になってるけども、はたしてボクはその手の車に乗りたいか? といえば、ノ〜ノ〜と今は答えるっきゃ〜ない。



17日の午後、講演。
推薦入試に文化祭。ピタリ重なって先生方不在。やや空席が目立つコトになってしまったけど、しかたない。
でも、思わぬ方が聴いてくださったり。


ほぼ定刻にて終え、某所でかる〜く乾杯。
打ち上げは来月某日と決まってるから暫定乾杯、でもこの機会はこの時でしかないから、ナ。
イベントは常に裏方に徹してくれる方々あって成立するもの。終えて一同しちゃうのは嬉しいなぁ。
ホッとしますなぁ。
かる〜くなつもりが、チャカポコ3時間。


翌日18日。
某高層マンションの一室にて、ミニなパーティ。
講演がらみじゃなく、プライベート。
やや慣れ親しんだ、見晴らし良きそのマンションから別マンションに我が友が転居というコトで、惜しむような、祝うような、が同居した「猪鍋パーティ」。
幸いかな、何ぁ〜〜んも気兼ねしないですむ仲ゆえ、やっぱ、この団欒、ホッとしますなぁ。
病欠となったKちゃんをば心配しつつ、シシ肉つっつき、熱いジューシーな脂をばビールで流し込む。



来岡中のS氏持参の、コマイなる魚を初めて食べる。
氷下魚、と漢字でかくそうな。
北海道産。岡山には出廻らない。
タラの親戚らしいが、骨組み頑丈でちょっと食べ方にコツあり。
熱々が旨く、これは日本酒の肴じゃな……、即座に思ったら、S氏いわく「その通り」とのこと。
ハシでなく手掴みでもって背骨をさけるようにしてかぶりつけば、身離れがよくって、骨は綺麗に分離する。



ひとしきり食べ、大いに談笑後、ケーキ。
ワタクシめが、ラ・セゾン・ド・フランスという店で買ったもの。
いや〜、しかし、これが甘いのなんの。
アルコールと肉でまったりした胃がその甘味に驚いて、やや拒絶ぎみ。
「若い頃ならペロリじゃけど、さすがに年齢……、甘すぎぃ〜」
オノケーちゃまが笑う。
けども全員、完食。


ああ、しかしだね、新幹線とローカルの速度違いを上から目線で眺められるこのマンションとはお別れだ。
甘い口元ほころばせ、少し寂しい感じを呑み込んで、記念写真をば撮ってもらう。
でもま〜、「次は転居パーティだな」と大いに北叟笑む。
いうまでもないけど、次はケーキはよしましょう。
……、などと思いつつ、フッと巻頭で紹介のシラサギの姿がよぎる。
小魚追ってジッと我慢で川面を見つめる姿が、チラリ。

木材史 ~前哨~


以下、11/17講演に向けての下準備の点描――。


某日。
取材訪問時に急病で入院となってしまった浄土寺の前ご住職さんと、電話対談。
途中ひどく咳き込まれたりで、まだ全快には遠いようだけど、貴重なお話をうかがう。
くれぐれもお大事に。



※ 浄土寺の大湯屋跡のそばにある歴代(?)の重源像。


某日 to 某日
木材がらみの記述を求め、何冊か本をヒックリ返したり裏返したり。
11/17の講演ではたぶん触れないけども、ほほ〜っ、と思うこと幾つか。
例えば―― 中世のいっとき、奈良や京都の宮中でのマナイタの扱い。
概ねで杉か檜の板であったようだけど、魚を調理した場合、一回使えば捨てられたこと。
刺し身は江戸時代になってからで、この当時は膾か焼くか干すか程度なものだけど、宮中の庫裏(台所)においては、使用したマナイタは即座に焼却したらしい。
そう……、穢れの思想だ。
割り箸は江戸時代に出来たものだけど、そのはるか以前に、すでに「使い捨て」があったのが、これで判る。
中世は仏教思想が広範囲に浸透した時代、穢れという感覚と情緒がマナイタのような道具にまで「観念」のなせるワザとして沁みてるコトに、ちょっと衝撃させられた。



使用される板が杉か檜というのも、これも仏教、プラス神道的感覚だ。
要は、白くなくっちゃ〜いけない。
純粋なカラーとしてのホワイトではなく、木目の天然の白っぽさがツボ。ブナなどの茶色いものじゃダメなんだね。
そこに「無垢」な気配がなくっちゃ〜いけなかった。
面倒な観念だけど、白=純血、純血=穢れないもの、穢れなきもの=清浄、といった感覚がドド〜ンと横たわっていたことは確かだろう。
この感覚は今に継がれ、例えばトイレの、座る部分を除菌しなきゃ〜落ち着かないみたいな、 過剰な潔癖症感覚を発酵させる元になっている。
日本人はヒノキの家を好み、それを一番とする……、という感覚もそうだ。神社もお寺も皆、檜。
武家も商家もそれに準じての総檜造り。木目の白さこそが一番で、二番はないんだな。
そこがやや緩和したのは幕末になってから。西洋人の木材感覚が注入されてからだ。
外壁をペンキで塗りつぶす発想なんてありゃ〜しないし、そもそもペンキも初めてだったから、長崎の高台にグラバー邸が出来たさいは、地元の皆さん、あっけにとられたろうね。


某日。
某所にて打ち合わせ。
進行手順を話し合ってるさなか、念頭に浮いたのが、甚九郎稲荷のリア・ビュー。
北隣りの広い地所が放送局新社屋の建造というコトで更地になりつつあって、従来は見えなかった姿が今のみ、見えている。



本殿の左右で枝葉を茂らせた2本の樹木。
1本は銀杏だと記憶するが、もう1本は何だったかな?
昭和20年の空襲後の再建時に植えられたもの。
樹高は10数mくらいか、概ね70年で、ここまで育っておごる。
繁華で背丈あるビルが林立の街中に悠々と枝葉を茂らせる。規模小さきとはいえ神社という場所はヒトの手が加えにくい。それが幸いしてる。
講演内容が”木材”ゆえ、余計に眼にとまるまま印象づけられた。
工事の都合上、この先、剪定されて樹高も縮まり多少こざっぱりとはなるようだが、今後もまた繁茂し、やがて出来上がる放送局の壁面に緑の葉陰をおとすだろう。
悠々と繁って欲しいところだ。


※ ギターを手にして打ち合わせか? と思っちゃ〜いけない。
11/17の翌月、12/15に予定の『打ち上げケン忘年会』の予行演習も次いでにヤッてしまったというワケで、だからギターなのだった。
実は12/15にはOH君のライブがあって、ボクはその手伝いに出向く予定でいたんだけど……、諸般の都合でこの日しかヒトが揃わなくなっちゃって、
「許せ、我が友……」
『打ち上げケン忘年会』をば優先というコトになっちまったのだから、ま〜、しゃ〜〜ない。

『明治大正昭和 岡山木材史』
岡山シティミュージアム 4F講義室
2018年11月17日 土曜日 午後2時〜4時(開場は1時半)

お時間にユトリあれば、お越しください。
木材がらみでのチョット知らなかったコトを、会場にてお伝えします。♥

パッションフルーツ移動


晴れた午後。
脚立、剪定ばさみ、スコップなど準備し、パッションフルーツをウチに入れる作業。
去年より10日ばかり早いけど、自分のスケジュール上、しかたない。
毎度のことながら面倒なり。
が、毎度ながら、この作業で”冬の到来”を感じるというか、冬への覚悟がうまれる。



しかしこの夏の熱さと暑さは、植物にも影響が大きかった。
パッションフルーツとて、暑ければイイわけもなく、耐え難い温度がある。
極暑のさなかは昨年の半分ほどしか葉が茂らず、茂り出したのは9月も終わりの頃。
実もほとんどならなかった。



ともあれ剪定と伐採。
ほとんど枝葉を切り落とし、幹部分をば室内に入れ、これで越冬の準備は出来た。



転じて庭を眺めるに、ナスは盛りの時期にさほど収穫出来ず、秋になって密かに新芽が出ての「秋ナス」がドド〜ンと収穫できちゃったという妙なことも起きた。
暑すぎたんだ。
秋ナスは秋ナスで……、異様な生育を示してた。



この部分写真だと、なんだか海の生き物みたいじゃあるけれど、いいのかよ〜、と思えるホドにでっかいし、妙に曲ってら。



今頃になってやっとイチジクが実ってる。
というか、実ってはいたけど、熟れるタイミングがメチャに遅い。
これもまた暑熱のせいか?
カタチもいささかケッタイなのも出来て、これなど……、お尻のようだ。



この数年で急速に浸透するポリゴナム。
和名ヒメツルソバ
岩場に置く園芸品種として明治の時代に入って来たらしいけど、近年、野生化だ。
この数年で、我がミニガーデンを含めて近隣至る所で見られる。
路地の横手やガーデンのあるオウチの庭などなどなど、あちゃこちゃ、大繁茂といっていい。
これもまた夏の圧倒的な暑さがもたらしたものだろう。



かつてのセイタカアワダチソウみたいな侵略っぷり。
セイタカ……も実は明治末期頃に園芸用として日本に入ったものらしい。
明治はありとあらゆるものを無制限無節操でテンコモリに引き寄せちゃった、メチャな時代だ。


ポリゴナムは地を這うだけで背丈がなく、いささか愛らしくもあり、どのオウチでも、
「まぁ、いいか」
と放置しているようで、なのでいっそうあちゃこちゃに見る。
園芸屋さんにとっちゃ、売るべき品種なんだけど、自然繁茂の威力に販売はゼロに近いだろね。



暑さで伸縮に変化があったものの、しかし、4つ足や2足の生命体より植物や樹木の方が生命力は強そうだ。
たかが半日のノラ作業でもう翌日は筋肉痛の2足歩行のボクより、だんこ強い。
およそ3億年前の地球も、「恐竜の時代」になる前では、いわば「植物の時代」がなが〜く続いてたことからもそれは判る。
温暖化で気温高く湿潤でもあったから地球は熱帯な沼地だらけで、樹木は茂りに茂ってた。
ただ、それゆえに歩いたり走ったり出来る進化方向に進まなかった。
根をおろして不動、そこで大きくなる、子孫は種でもって飛ばす、というカタチに落ち着いちゃった。
その生体サイクルで枯れ枝や葉が堆積し、腐らせる菌がいないんで地熱と積み重ねの圧力でもってギュ〜っと圧縮されて、今の石炭となったワケだ。
やがて地表を歩行出来る生き物らが跋扈しだし、草食な恐竜たちがグングン育まれ巨大化して、地球はいわば「時間制限なし食べ放題」の御食事処となったワケで、もし植物や木が歩けるものだったら、恐竜達の我が世の春は来なかったかも知れない。
葉っぱ、食べられてたまるかとスタコラサッサ。
ま〜、しかし、我がミニガーデンの草木どもが夜中に歩いたり出てったりするのは困るから……、地に根を下ろすという進化の袋小路に潜ってくれたのは幸いと思わないとイカン。



などと妄想ぎみに書いてたら、集金がきた。
このシーズンになると、町内会のヒトがくる。
「赤い羽根募金」
正直なところ、町内会が集金するというのはおかしい。
基より「赤い羽根」は米国が指導、戦後の戦災者救済の一助としてGHQの元ではじまる。
それが手を変え、何やかんやの救済という風に間口を広げて今にいたる。
義援金をおくるコトに異議はない。けども、町内会が”集金”するのは、これは不当だ。

共同募金は寄付者の自発的な協力を基礎とする

そう社会福祉法は定める。
町内の顔見知りが集金に来る以上、やすやすとは断れない空気もあって、余計に腹立たしい。


ちなみに、あの危なっかしいオスプレーって1機の購入価格、86億円(!)。
さらに以後の維持費が購入した17機分、今後20年で4600億円を米国にお支払いだそうな。
で、2015年度の「赤い羽根」の募金学は全部で、184億円。
いっそ、これ、逆にした方がイイのじゃないか?
オスプレー欲しけりゃ募金を募れって〜具合に。
危なっかしいシロモノを維持する4600億円もの巨費を社会福祉に廻せば、ずいぶん涼やかになろうに。

明治の煉瓦


某日。
11/17講演のため、湯迫の浄土寺を訪ねる。
1週間前にアポをとってのちゃんとした取材。
前住職さんにお話を聞くということで学芸員Mと共にお約束時間に出向いてみるに、緊急入院され、連絡せずでまことに恐縮とのこと。
「あらま〜」
いやいや、くれぐれもお大事に……、というワケで結果として前住職さんの奥さんから僅かばかりの情報を得るという次第になって、退院されたらまた出向くというコトになっちゃった。
ま〜、しかたない。
壮健がなにより。御回復を切に願う。
聞こうとしたのははるか大昔の重源のこと。
彼は東大寺再建を一身に担ったさい、鎌倉時代の年齢常識をはるかに越えた61歳なのだったから、たいしたもんだ。
前住職さんの入院とを比較する気はないけど、壮健の一語が明滅しっぱなしの一日だった。


浄土寺鎌倉時代からの古刹。ここにかつて東大寺再建のリーダーたる重源が2年ほど住まい、湯治場が置かれた。
岡山の湯治場。奈良の東大寺。その再建の最高責任者・重源坊 ―― この関係と、いったい湯治場は、「善意の施し」としてのものであったか ―― その考察を次の講演でちょっと話す予定。



かつて湯治場であった場所。今も冷泉がわく。


某日。
旧後楽館高校の地所、すなわち亜公園であった場所に新造されるRSK山陽放送の社屋工事の現場から、甚九郎稲荷の境内へと、明治期の警察署の遺構(煉瓦の家屋土台部)が移される。
保護されるべき文化財として忘れられていた煉瓦のアーチ構造……。
遺構をすべて残すことは出来ない。
そこでアーチ部分の1つのみを保存するという方向でもって、作業が行われた。
 



模型再現の明治の警察署。アーチ部分が今に残る。


この先、これをどう保存し、どう展示していくか、幾つか考えなきゃいけないことがあるけれど、工事と共に消え去るという最悪だけは回避できた。
山陽放送さん、甚九郎稲荷を管理する岡山神社さん、解体工事を担うY産業さん、地域の方々、等々のご尽力あっての移動。
アーチ構造のまま持ち上げられるかと心配したけど、Y産業さんの巧みな技でもって無事に移動完了。





※ 上2枚撮影:久山信太郎氏


とはいえ、煉瓦構造を支える土台となっていた御影石とは分離しなきゃいけなかった。アーチが壊れる可能性が高かった。
それで取り外し後、これは取り合わえず、横に置くカタチで甚九郎稲荷に設置。
だからあくまで仮設置。2分割にして置かれた。
とはいえとはいえ……、重機がなきゃ持ち上げられない作業でもあるから、しばしはこの状態というコトになろう。



岡山警察署は、亜公園が閉園し、地所を岡山県が買い取って、同所にあった天満宮甚九郎稲荷と合祀させ移動させた後に明治39年に出来上がったもので、これは昭和20年の空襲で焼けるまで機能していた。
その家屋の土台部の煉瓦遺構なんだ。
天満宮甚九郎稲荷に移動し、ず〜っと年数が経っての平成の、2018年10月31日に、今度はまた警察署の痕跡が甚九郎稲荷に移動するというのは、なにやら御縁ある円環という感じがしなくもない。



※ 手前の石は関係なし。左が礎石の御影石2本、奥が煉瓦アーチ。


工事で出た幾つかの煉瓦砕片を頂戴している。
これは11/17の岡山シティミュージアムでの講演(2時からです〜)で、ちょっとだけ披露しよう。
明治時代の煉瓦製造の困難さを示す重要な、証拠なんだ。
というのが、煉瓦というのは窯で焼き固める焼き物なんだけど、西洋から入ってきた新技術としての煉瓦作りに明治の日本は苦労しているんだ。
明治時代の煉瓦構造物に我々がノスタルジーをおぼえる1つの原因は、その焼きムラにあるんだ。
既成品になりきらず、バラつきがあって、結果それで1ケ1ケに表情ができちゃってるからなんだ。
で、天神町の岡山警察署の煉瓦遺構だけど、砕片を手にしてみるに、煉瓦の中程まで火が入っていなくって、いわばナマヤケなんだよ。



鮮烈なほどの赤土色。
明治39年から平成の昨日まで119年間、この状態だったんだ。
でも砕片となって外気に直に触れたからね、この先、乾燥し、色の鮮烈さは失われるだろう。
なので一部の砕片はサランラップで覆い、11/17の講演まで鮮度を保持すべく努力してみることに————。

明治お肉史 part.2

近藤勇新選組の屯所で盛大に牛肉を喰っていたというのは、1つの定説というか、歴史の1コマと語られて、久しい。
彼が登場する映画を観ても、たとえば司馬遼太郎原作で昭和38年封切りの『新選組血風録 近藤勇』では近藤勇そのものの肉食シーンはないけど、お仲間どもが鍋を囲っているし、準主役の木村功が横浜で入手した肉(豚肉)を屋敷の門番に見せて門番を閉口させるというシーンもある。


比較的最近、中井貴一が主演した浅田次郎原作『壬生義士伝』(みぶぎしでん)では、近藤本人が大いに喰らっているというシーンもあった。
幕末の頃のトリビア集的な本には、「近藤勇は牛肉を好み、12人前を食べた」という記述が平然とあったりもする。これなどは近藤勇という人物の豪快っぷりや尋常でないっぷりを甚だしく広言するが、しかしだよ……、おかしいじゃないか。
そも、肉食がまったく浸透していない時代にあって「12人前」という、その1人前の肉量の根拠はどこから?
基本となる量すら定まってもいないのに、どうして12人前という数字が出て来るのかしら?
こういうのを”混同の勇み足”という。エエかげんなハナシと云わざるをえない。



※ 『新選組血風録 近藤勇』のシーン。木村功が豚鍋を作り、そこに市川右太衛門扮する近藤勇がやって来て、「養父療養中につき獣の穢れは遠慮願いたい」と苦言する。



※ 『壬生義士伝』より。椅子(!)に座っての食事シーン。


椅子はともあれ、近藤役の塩見三省沖田総司役の堺雅人が良い演技だった。中央は土方役の野村祐人。一方で主役の中井貴一は……、このヒトはどんな役をやっても結局は”善良でマジメな中井貴一”以外の何者でもなくチョット物足りない。
このシーンでは塩見扮した近藤が手づかみで肉を鍋に入れる。近藤勇という人物にボクは好感しないけど塩見の演技はどのシーンも好感。終始笑顔でエクボが愛らしかった実像の近藤に、四角い顔立ちとも相まって、イチバン近い、これは名演だったんじゃなかろうか。


根堀り葉掘り精査したワケじゃないけど、近藤勇の牛食が「事実化」したのは、子母沢寛が昭和3年に出版した『新選組始末期』から、続いて「新選組遺聞」、「新選組物語」と続くいわゆる”新選組三部作”から、らしい。
子母沢寛は大正半ば頃から頻繁に京都に出て取材を重ね、
「生き残りの老人の話は疑わしいものもあったが、私は『歴史』というのではなく現実的な話そのもののおもしろさを聞き漏らすまいとした」
と後書きに記すとおり、必ずしも史実の徹底追求が目的ではなかった。
とはいえ、知った範疇でもって作品化し、創作を加えていないから後年になって、これが第一級の新選組研究の文献になったというのは、むろん良く判る。
カポーティが『冷血』を生み出すはるか前に、子母沢はルポタージュのみで”小説”を編むという新鮮な手法を開拓していたワケだ。



司馬遼太郎浅田次郎も、でもって、それを原作とした映画も、いずれもがルーツを下っていくと、この子母沢の作品での近藤像がベースになっている。


けどもだ……、今あらためて久しぶりに書棚からホコリを被った子母沢の3部作を引っ張りだし、ウシだのギュウの一言一句を探して”原典”にあたってみようとしたんだけど、あら不思議や、どこにも3冊の中に相当する記述が、ない。
なるほど、新選組屯所前に、猪肉を売る女が出没し、隊士がそれを買っては煮て喰ってたという記述はあるけど、ギュウは出て来ない。
さて?
あれ〜?
ホントウは どこで育ったやら コンドウギュウ 
ひょっとして、これは司馬遼太郎がスタート?



※ 司馬遼太郎の1962年作品『新選組血風録』。映画『新選組血風録 近藤勇』のこれが原作で、食肉のシーンも描かれる。


※ その映画の牛鍋シーン。幕末〜明治における牛食は「酒の肴」であって「夕飯のおかず」じゃ〜ない。


”食物の歴史本”などと照合していくと、今、いささか近藤勇の牛食は過剰に描かれていると、いわざるを得ない。
幕末、西洋人がかなりいる横浜ですら牛肉入手は至難だったから、京都では増して困難であったはず。
そうであって、近藤勇が牛肉を好んで食べたというのであるなら、闇的なルートで牛を解体したであろうし、鮮度もかなり落ちたものという予測もできる。
映画『壬生義士伝』での近藤は沖田総司らと鍋をつついているが、画面中の肉は鮮度が良すぎる。
もし、そこに史実らしきを反映させるのなら、肉は赤が退色し、いささかグレーがかった色合いがいいだろう。
このシーンでは焼き豆腐と一緒に煮込んでるらしいが、これはハナハダいただけない。



なるほど、スキヤキは関西がスタートだけど、時代がそぐわない。
肉と一緒に具材を入れるスキヤキの興隆は明治半ばになって始まり、関東大震災後の大正末にやっと関東方面にも伝搬したというのが、”食物の歴史”的な本では通説として紹介される。
スキヤキ専門の店は神戸元町「月下亭」が明治2年(1869)にはじめたというが、その「月下亭」はいざしらず、新選組が羽振りが良かった頃の当時の流通事情を思えば、当然に鮮度の悪い肉だから、味噌で煮込んで匂い消しにし、具材はネギのみだったろう。
豆腐やらの具はかなり後年、ひょっとすると大正期になってだ。
映画は幾らでもウソを紛れ込ませられる素敵なメディアだけど、しかし主題に即してのウソでない史実の上に立脚すべきという、いわば背景描写のアプローチの重厚を思えば、鍋の中の煮えた豆腐らしきは『壬生義士伝』という映画の減点材料だ……。


福沢諭吉が想い出を綴った『福翁自伝』によれば、安政4年(1857)頃、大阪に牛肉を食べさせる得体の知れない店が2軒あったという。
そこの客はゴロツキと大阪船場適塾蘭学を学ぶ貧乏生徒のみで、一般ピープルは近寄りもしなかった旨を記している。
これが正しいのなら、近藤勇は牛肉は食べなかった……、とは断じられない。
京都界隈とて、その手の怪しい肉を扱う人物がいたとて不思議はない。
一説では、新選組の連中は、牛ではないけど、屯所でもって養豚していたともいう。
喰うために豚を飼育していたという。
「一般的じゃ〜ないけれど例外は常にある」
のたとえ通りで、やはり、何らかのカタチでもって牛肉を入手したのじゃないかとは、思われる。



しかし、どうもホンマの所を探ろうとすると、曖昧さが後味として残る。
明治から今に至るまで、まだ僅か150年なのだけど——  近藤勇が牛肉を食ったか食わなかったか、どんな味付けだったか、どんな風に食べたか――  このあたり、いま1つ、シャキッとしない。
歴史というものは、あんがいと大雑把で、部分に眼を近寄せると、たちまちに輪郭がボケるんだね。
そのフォーカスの曖昧具合が不思議。



過日。ピカピカ晴天の日曜、某氏宅屋上でのサンマ・パーティ。
某BARの20周年記念と某カップル成立の祝いを含め、にぎやかに。
そこで横浜から参加のS氏に、「太田なわのれん」(前回記事参照)の話しをば聞く。
明治時代の廉価な牛食提供と違い、そこからの連綿たるヒストリーが今や老舗中の老舗に同店を押し上げて、一人前のオーダーで1万円は軽く超えるようで、S氏をして、
「親族の祝い事あって一度行った。食べた。うまかった。しかし高額、当然にそうそう出向けない」
とのことながら、”明治から続いてる”というその継続こそが華。
一度行った、というそれだけでもはや充分……、羨ましい(苦笑)。


ながくなった次いでゆえ書き足しておくけど、明治の牛肉流行の背景には、神社優遇の政府の意向とが重なってる。
ながく親しまれた神仏習合が廃され、寺社が分けられ、そこに多数のオッチョコチョイが跋扈して、廃仏毀釈という弾圧的憂き目にお寺さんは直面し、戒律重視で肉食大反対の声をあげるどころか、自分のお寺を守るに精一杯というワヤな状況に晒されたもんだから、運動としての反対が出来ないまま、いわば時代に流された。
神道の方はもとより肉食を禁じていない。諏訪大社御頭祭(おんとうさい)の神饌は鹿肉だし、類する神社も多数ある。
そういう絶妙な違いと、そのパワーバランスの崩れが背景にあっての、明治の牛鍋大ブームだったと、いえなくもない。

明治お肉史 part.1

今回は11/17の講演内容に触れようとも思ったけど、チョット浮気。
明治の頃のお肉についてを。


ご承知の通り、明治になって日本は牛食するようになった。
ヒンドゥー教徒ジャイナ教の方が多数のインドなどの国が牛食を、イスラムの方々が豚食を今も基本的に忌避するのとは違い、明治になった日本は海の向こうからやって来た慣習にアンガイ容易にのっかった。
西洋人の振る舞いをコピーした。
日本の牛食のスタートは横浜だけど、といって、彼ら西洋人が日本の農家から牛を仕入れたかといえば、そうでない。
西洋人が当初日本で食べたのは彼らの船に積んで持ち込んだ肉であって、仕入れの先は隣国・清の港だ。
(腐敗防止には氷を使った。ボストン氷といい、はるかボストン港より横浜港まで運ばれた。当然に遠距離ゆえ溶解率も高くて高価だが、やがて医療目的でこれは日本でも販売され、やがて明治20年代にはかき氷に転用される)


大昔、卑弥呼の時代にこの国に牛はいない。馬もいなかった。
魏志倭人伝』は卑弥呼の都に牛馬がいないコトを奇異な光景として記述した。
やがて大陸から運ばれ、家畜として定着をする。平安の頃には牛車に使うなど、あたりまえに存在するものになる。


お江戸の時代、日本の農家は、なるほど牛を飼っているし、売買の対象でもある。
けども、それは喰らうものじゃない。
農業にとって牛は労働力として大事なものだから、母屋に住まわせている。
田畑では酷使するものの、夜は、1つ屋根の下、半ば家族的なポジションに牛を置いてるんだ。
だから、それを食べるために売ってくれ〜には、ひどく拒絶した。
ましてや肉食はご法度、いけませんというコトになってもいたから、山くじら(猪肉)や鶏(かしわ)は食べても、牛肉は心理的にも生理的にも食卓に登るものじゃなかった。
肉提供の最大の抵抗者は、牛を飼育している農家だった。


元治元年(明治元年の7年前-1864)に幕府は、洋人の食に対応するため、横浜の居留地海岸通に屠牛場を設ける。
しかし、上記の通りのありさまで近隣から牛を入手出来ずで、屠るとは知らせずに神戸界隈から牛を買い取って運んだという。
今のABE政権もそうだけど――いわば外圧に晒されるままに国民を騙す。牛を供給できるカタチにもっていったワケだ。



けどもま〜、好事家多し……。
一方で日本人は知らないモノへの興味の眼圧も高いんだ。
西洋人を真似てオコボレを頂戴するように居留地で食べてみりゃ、これがメチャに旨かった。
外圧どころか、旨味を知った舌が一変し、今度は内圧となって、「もっと喰いて〜」の声をあげさせた。
その声とほぼ同時期での開国だ。欧米文化こそがイチバンじゃ〜んという短絡で急峻な大波がドバ〜ッとやって来た。
政府自ら、西洋化の体裁を整えるようにして、「牛食は滋養豊富ナリ」と推奨するに至る。
結果としては「神戸のウシはうまい」という、いわばブランドとしての地域特性が牛肉に加わわりもする。
いわば、180度の大転換、ビッグバンが生じたワケだ。



その明治元年に横浜で創業した串焼き屋「太田なわのれん」は、炭火の七輪に浅い鉄鍋をかけ、牛肉ぶつ切りを味噌で煮、さらにネギを入れて肉の臭みを消すという方法を産んだ。
店先にのれんを掲げ、「うしなべ」と書いた。
これが牛鍋の最初の事例ではないけれども、文字として登場させたのは、この「太田なわのれん」だったようである。

そう……、ギュウナベではなく、ウシナベと云ったんだ。
で、アレヨアレヨという間に、鍋で牛肉を食べさせる店が横浜から東京へと増えてった。
肉を薄切りするスライサーなんかナイ時代だし、屠牛場も増えはしたが、鮮度という一点は曇ってる。
それで味噌で煮て匂いを消すが、ほぼ定番化した。



けども、ウシナベという単語は広まらなかったようだ。
明治5年に仮名垣魯文が『安愚楽鍋』を刊行した。
これは東京で大流行の牛鍋屋に出入りするピープルを滑稽な筆致で描き出した怪作で、今となっては当時の生活を知る良い参考書でもあるのだけど、ウシナベという表記は少ししか出てこない。
なんでも縮めちゃって云う江戸の気風がそうするのか、東京ではウシヤと云っていたようだ。
牛店、あるいは牛鍋店と書いてウシヤとルビづけされている。
時にナベウシなる表現もある。
断髪令が発布されたのは明治4年だけど、明治5年の同書の挿絵をみると、髷を結った者、ザンギリにした者、いずれもが七輪に小さな鍋をかけている――。
ご飯は添えない。酒と鍋だ。




記述を読むに、店の呼称より、もっぱら東京ピープルの関心は、肉の鮮度のようである。
「濱(はま)で屠(し)めたのをニンジンと湯煮にしたのを食べちゃア、実にこんなうまいもんはない」
と同書に、ある。
横浜から東京への距離が、まだ汽車のない時代の物流速度が、そのあたりに潜んでる。
同時に、これは味噌煮でないことも判る。
湯煮た後、醤油をかけたか、あるいは醤油で煮たか、味噌ダレだったか、いささか定かではないけども、少し年数が経って、ルポライターの先駆者とも云われる明治のヒト篠田鉱造の『明治百話』には、

 明治二十年頃の四谷の三河屋(牛肉屋)へ、月四回は欠かさず、掛取りや注文取りの帰りがけに押しあがって、杯一を極めるのが、番頭の約得、三河屋のおかみさんはよく知っていまさァ、ある日押登るなり、女中に向かって「姉やん、鍋に御酒だ。ソレからせいぶんを持って来てくンな」と吩咐けたら女中は怪訝な顔をして、帳場へ往ったものだ。おかみさんも解らないので、こりゃ解らないのが本統さ「何でございます。せいぶんと抑しゃいましたのは」と、ワザワザ問い合せに来たので、大笑いだった「ナニサ、玉子のことだよ。せいぶんをつけるからさ、この山の手では流行らねい言葉かい」と言ったもんだ。

※ 岩波文庫・下巻「集金人の約得」より抜粋。



ここでは生タマゴの活用が新規なものとして描写されている。
たぶん、明治20年頃にはもう味噌煮でなくても大丈夫な、鮮度を持った牛肉が市中に出廻っているのだろう。
ナマタマゴを使うことは、明治20年代になってやっと始まったらしきコトもこれで判る。


我が岡山で牛肉を食べさせた第1号は、可真町(千日前付近の旧名)の『肉久』と云われる。
肉久と書いて、ニクキュウと読む。
開業は明治8年頃で、珍しくもこの店では椅子に腰掛けるカタチで座敷ではない。それで「座敷スキ」と後に呼ばれもした。
牛肉にネギやその他を含め、タマゴ1ケがついて1人前5銭。
「すきやき」の名と、ネギ以外の諸々を一緒に煮る方法は関西がスタートなので、『肉久』はその関西スタイルだったろう。
この店を紹介しているのは当時出版された『岡山商工往来』だけど、当時の様子を描く別の本では、上之町(現在の天神町)の『和久七』が第1号と書かれていたりもして、どっちが1番だか2番だかよく判らない。
『和久七』は今は実に瀟洒で感じの良い写真館『島村写場』になっていて、2階のスタジオでパチリと写真を撮影してもらえるけど、同家には、明治の『和久七』時代の鉄鍋が現存する。


ウシナベ→ウシヤ→ギュウナベ
この名前の変遷を、ボクは面白がってる。
この岡山じゃ、そこはど〜だったろう?
というのが『亜公園』の中にも牛鍋屋があったんだ。
『和久七』から直ぐそばだ。いわば競合店だよ。
ご両者、鍋を当時、どう云ってたか、ウシナベかスキヤキか、そこを想像してるワケだんわ。


それともう1つ――牛丼のみがギュウドンといってウシドンじゃないのに、豚丼や鶏丼はなぜブタドンにトリドンなのか?
音読み、訓読みのこの分別化がわからない。
さらには、「親子丼」や「他人丼」や「木の葉丼」といったやや美しくって優しげな響きある単語を編み出した方々の俊才っぷりにも興味をもつ。
「親子丼」をオヤコドンブリじゃなくオヤコドンと命名したのは、どうも明治17年頃の神戸を起源とするようだけど、ふ〜〜む。
どうでもヨロシイことだけど、ちょっと、どうでもヨクもない。


〜続く〜

岡山神社 − 社報


岡山神社さんの社報『さかおり』に、寄稿している。
10月の秋期大祭に併せて刊行配布の最新号だ。
今回は、甚九郎稲荷の石門についてを書かせてもらった。
岡山神社に出向く方あらば社務所で頂戴できると思う。ご一読あれ。
ここでは、その石柱について補足的に触れておこう。



この石門(柱)は今は甚九郎稲荷の玉垣の一部と化して、あまり注目されていないけど、大まかにいえば、これはかつての「亜公園」内にあった天満宮の”鳥居”(石柱)で、当時は独自に立っていた。
「亜公園」の基礎構想には岡山神社内の天満宮と密接にからむ諸事情があって、だから巨大な複合娯楽施設だったとはいえ園内に神社(天満宮)を設置することは、最初から計画されていた。
その後およそ10年、同園は市内最大の観光スポットとして盛況だったが、明治38年には閉園となり、園内天満宮甚九郎稲荷に移設された。
石柱も移動し、上の写真の通り、稲荷入り口にある。


鳥居というのは、2つの柱を結ぶ「貫(ぬき)」と「笠木(かさぎ)」が頭上にあるのが基本だ。
参拝者はその下を潜り抜けるというのが通常の構造だ。
しかし、この石柱にはヌキもカサギもない。
だから、細かにいえば、これは鳥居じゃ〜ない。
が、鳥居として”機能”するという門柱だ。



※ 岡山神社の鳥居「随神門」を例に解説 ♥


鳥居のない神社というのは、実はとても少ない。
ボクが知る範囲では全国に2例しかない。
群馬県太田市の石原賀茂神社と、さいたま市浦和区の調(つき)神社が、そうだ。
石原賀茂神社のは甚九郎稲荷と同様に石柱だ。
調神社のは巨木に育った2本のケヤキを柱とし、注連縄で結んでいる。
ご両社ともに鳥居のない事を逆に”誇り”にしておられ、たしか太田市では観光スポットのスタンプ・ラリーの1箇所に同神社を指定していたと思う。



※ 太田市の石原賀茂神社


だから実は、甚九郎稲荷に立つ2柱はとても稀有な存在なんだ。
これが「亜公園」内にあった頃の明治時代を思えば、訪ね寄ったヒトは皆さん、まずはこの石柱のところで足を止め、
「今よりお参りいたします」
一礼したに違いなく、神域の境界として今よりはるかに重要な役を担っていたと、これは断言できる。
鳥居らしきカタチじゃないけど、それでもコレは鳥居だろう……、かすかな訝しみをおぼえつつも参詣した筈だ。



※ 「亜公園」で販売されていた「亜公園之図」の一部分。石柱が確認できる。
何故にこのカタチとなったか……、もはや空想するしか手がないが極めて稀れな門(鳥居)だというコトをご理解いただきたい。



※ 模型再現による天満宮。このカタチがそっくり移築されたのが甚九郎稲荷だ。
今の甚九郎稲荷は戦後に造られたもので赤く塗られているけれど、焼失前、明治から昭和20年8月まではヒノキの木目がよく映えた社(やしろ)だったんだ。



※ 「さかおり」表紙。亜公園の集成閣と天満宮の模型を大胆にあしらって斬新、クール♥


ちなみに寄稿した記事では、鳥居の色についても言及している。
鳥居といえば誰もが赤(朱)色を思いがちだけど、実は全国神社を統計的にみれば大半は白系列なのであって、それは木造構造物たる本殿や拝殿のヒノキの白に呼応して……、と、そのあたりの消息は11月17日のシティミュージアムの講演「岡山木材史」の中で多少、触れようかと思う。
なぜに日本人はヒノキ造りの家を好むのか……、どうも、その木目の白さに秘密があるようなのだ。



11/17講演のチラシはこちらからダウンロードできます。