前回の金魚譚を読んでくれた某ちゃんに、
「元号、嫌うほう?」
柔らかい問いをもらったけど、その逆です。あんがい好みにしてる。
なるほどたしかに、市役所やら警察署など、
「えっと……、今ナン年だっけ」
ジャズフェスの道路使用など申請時に窓口で躊躇したり困ったりもするし、そういう時、川の流れみたいな西暦は便利だね~、とも思うけど、それはソレとして、元号は1つの括り、1つの箱、1つの塊として接してみると、日常日々のお役立ちではなく、顧みるという点でもって、イメージとしての時代の輪郭がトレース出来るのが、ありがたい。
1892年の春と云われるより、明治25年の春と云われた方がイメージ硬化が早い。
元号を使ってるのは地球上で我が国だけじゃあるけど、こういう場合、いわゆるグローバリズムの足並みなどド~デモよく、いっそ元号がまだあるコトを喜ぶ。
漢籍由来でも和歌由来でも、典拠なんて何でもイイとも思ってる。
いっそ、「令和」でなく5月から「正直」だったりしたら、発表会の席上にしゃしゃり出て自己アピール1色の首相がどのようにショウジキ元年を解説するか、シゲシゲ眺めたいようなサディズム含みの気分も湧く。
ともあれ西暦と元号の2本レールは悪くない。
昭和生まれの身の上としては、平成、令和、と変わるワケで……、これから生まれるであろうヒトにすれば、
「も~ダイブン前の時代じゃ~ん」
ちょうどボクたちが明治の方々や事物を想うみたいに、オールディーズな括りの中に置かれていくのも、致し方ない。そこはチョイと口惜しいけど、その口惜しい気分もまた元号が運んでくる特性だから、しかたなく受け入れよう。
改元は老化を促しもする。
それを新陳代謝と解いせるかどうかは個々で違うだろうけど。
「令和」の起用で急に『万葉集』が売れだしてるらしいですな。
にわかっぷりの綿の軽さに若干の苦笑を禁じ得ないにしろ、興味を持つのは良いことだ。
という次第でボクも右にならいましょう……、というワケにはいかないんで、ボクはボクで書棚から堀田善衛の『定家明月記私抄』を取り出し、アチャラコチャラと拾い読んでるのだった。
鎌倉時代の公家・藤原定家の名をサダイエと読むか、テイカと読むかはまだサダまっていないけど、「新古今和歌集」や「小倉百人一首」を編集した歌人だ。
上の絵はその定家の像といわれてる肖像画。
でも『明月記』は歌集じゃない。彼が56年に渡って綴った日記だ。
その間には幾つか改元も、ある。
日本に生まれたヒトは概ね50年も生きりゃ、たいがい改元を経験できる仕組みになっている。
定家の場合は、治承(じしょう)、養和、寿永、元暦、文治、建久、正治(しょうじ)、建仁、承元(じょうげん)、建暦、建保(けんぽう)、承久、承応、元仁、嘉禄(かろく)、安貞、寛喜、貞永、天福、文暦(ぶんりゃく)、嘉禎(かてい)、暦仁(りゃくにん)、延応、仁治(にんじ)まで……、な~んと24回(うわっ!)も経験しちゃってる。
なんでそんなに変えたかといえば、概ね、天変地異(主に地震だ)が原因だ。元号を変えることで荒ぶる自然やそれに伴う飢餓などの鎮静を祈願し、リセットし、政り事の安泰を図ったワケだ。
地震災害のたびにが、これが今に続けば……、昭和、平成、令和だけじゃ~とても収まらない、ネ。
定家の記述には「客星」の名が随所に登場し、彼が天体にかなり興味を持っていたことが知れる。星の運行もまた元号に関わってくる大事ポイントだった。
星で吉兆を占う陰陽師がお友達だったせいもある。
主に日常的でない天空現象、彗星などの出現に惹かれ、お友達の陰陽師・安倍泰俊に過去の事例を問い、星の出現と凶事の関係を考えてもいたようだ。
近年の研究で、星に関する幾つかの部分は定家が直に書いたのではなく、安倍泰俊から届いた星の資料書類をそのまま本に綴じちゃったのではないかという説もある。
ともあれそれで、カニ星雲が誕生することになる超新星爆発のことが記述され、当時のヨーロッパにもない観測記録として、この日記は有名になった。
カニ星雲
承元5年(1211)、定家が50歳の時の3月に元号は建暦に変わる。この改元は16歳の土御門天皇に譲位が強いられ、弟の14歳の順徳が即位するという妙なアンバイでのものだけど、その直前(前年末)に彗星が2度現れ、「光芒東に揺曳」という事件があって、定家は関連を匂わせるべくこれも日記にしたためる。
「2033年までに火星への人類到達をめざす」
との発表をおこない、そのための予算獲得に動き出したことが報じられたので、ボクなりに面白いタイミングだな~とも思ったりした。
この火星行きのためには、2024年までに月への人類送り込みが先行し、その成果を踏まえての2033年という期限を導いたようだが、鎌倉時代の定家に聞かせたら、
「なんとっ!」
言葉編みの天才をして、しばし驚愕して口をパクパク……、だろうとチョット悪戯っぽく、かつ意地悪っぽく思ったりもした。21世紀と13世紀の背景の違いを見せつけても仕方ないけれど、よくよく月をモチーフに歌を詠んだ定家に、この変容を伝えてはみたいとも思うのだった。
『明月記』は全編漢字一色の上、返り点もなく、極めて難解な文らしい。
そこを掘田善衛(ゼンエイじゃないよ、ヨシエですよ)という感度の高い文学者が”私抄”として、フィルターとして、綴ったのが『定家明月記私抄』というわけだ。
『明月記』の1篇1篇を読み進めつつ堀田善衛の深々な感想が続くんだ。だから翻訳本じゃない。
堀田善衛 1918年(大正7年) - 1998年(平成10年)
掘田の読み解く藤原定家は、革新の最前衛で波に立ち向かってる言葉の実験者だ。単語と接続詞の無限の組み合わせを、ただもうそれしかないという所にまで追い込み運び込みして、1つの文とする途方もない天才だ。その1つ1つの文の中に情景と人の心がのっている。
だから『定家明月記私抄』という本には定家という天才と堀田善衛という天才の2つが同居してるわけで、この相乗にただもう圧巻、圧倒されるワケなのだ。なので定家を読みつつ、掘田を読むという次第で1粒で2度美味しいとかいってる程度じゃ、いけない。
掘田が『明月記』に接したのは大学生の時、いつ招集されるか判らない戦争のはじめっ頃で、その不安の焦燥にかられつつ炙られつつも、死ぬまでに是非読みたいと古本屋に発注したらしい。
掘田は中国で敗戦を迎え、かろうじて命をつなぐ。敗戦後2年めに日本初となるアガサ・クリスティの翻訳をおこない、1951年には『広場の孤独』で芥川賞。1961年の映画『モスラ』の原作者の1人になったりする。
(C) 東宝映像 東京タワーのセットを見る掘田善衛(左)
ボクは『モスラ』でこの作家名を知るが、興味を抱いたのはもっとずっと後になってだ。
50年代半ばから彼は海外によく出かけ、1977年頃にはスペインに家を持った。
『定家明月記私抄』はそのスペインで書き上げた。
藤原定家の『明月記』は19歳から70代に至るまでの記録だけど、掘田は定家の歩みと歩調をあわせるようにして半生をかけ、この日誌的な書と向き合い続けていたわけだ。
その時間の悠長に驚かされる。
ボクは読む速度が遅いヒトですけど、それでも2週間で掘田の本は読める。しかし、掘田が挑んだ時間の長さを思うと、たかが2週間で読んじまってイイのか……、堀田善衛に向け、藤原定家に向け、申し訳ないような気にならないワケじゃない。
掘田が読み解こうとした時間の堆積は定家の人生と重なりもして、まさにこの本は2艘の舟の1本の帆柱の行方を見詰めるというカタチにもなって、ボクの興味深度はやたら深い。
まして掘田はこれをスペインの永遠のような青い空の下で書き上げてるんだ……。
スペイン。ラ・マンチャ地方。Eっちゃん達が記念撮影した場所だね、ここは。
この本は定家の歌の個々を解説するのではなく、定家の生きた時代、公家の社会の様相を知るいったんにもなっているし、また逆にそれだから定家の詠んだ歌の真相のそばに寄れるような感もある。
掘田も書いているけど、公家はやたら忙しい。
雅びなお遊び世界に生きてるよう印象される京の公家の実態は、それはそれで実に苦労が大きく、難儀な日々をおくるという点で今のボクらと「せわしなさ」という所では変わらない。
周到に気遣い、気配りしてなきゃタチマチにどこかから足を引っ張られたり非難ゴ~ゴ~だったり、という空気も同じ。いやむしろ、定家の公家世界の方がその濃度はひどく高い。
定家自身もワンランク上の仕事上のポジションを目指すも、難しい。
朝の早くからアチラの御殿コチラの御殿へと挨拶やらご機嫌伺いに出向く。
職業歌人としての誉れは徐々にアップしつつも、公家格式の中で定家の家柄は2流だから、常に格上に気遣いしなきゃいけない。
たとえば帝の女院(愛人だ)は10人を超えるがその1人1人の住まいに定期的に行って挨拶する。
ひょっとすると帝の子を産むかも知れない方々のお屋敷に向け、牛車にのり、10名前後の従者を従えて出向き、従者一同は門先で待たせておくのも格上への配慮、礼を尽くしているのをそうやって示し、その上で贈収賄(出費も甚大)があり、忖度が重ねられ、さらに宮中でのおびただしい儀式を儀礼通りにこなし、さらに法会あり加持祈祷あり、でもって、お遊びもある。
その遊びもまた、とてもくどい。真冬の凍てつく寒さの中、格が上の方々の蹴鞠プレーをただ眺めるだけに2時間も3時間も座ってなきゃ〜いけない。
「公家に産まれるんじゃないわ」
な感想が浮くほどのテンヤワンヤ。
そのテンでワヤな日々をしかし定家は克明に記しつつ、日常に埋没しない精神飛躍を文の中で化学変化をおこさせるワケなのだ。
定家はこの日記をもって公家界における1つの地位を、詩歌のみではない新たな文章表現が出来ることを頼りに、政り事に新規なポジションを確立し起こそうと努めたようであるけど、残念、それは実らなかった。
定家の没後、息子はこの日記を価値なしと判断し、まして歌集でもなかったから、親戚のおじさんに、譲ってしまう。
このおじさんの血が今に続く冷泉家は幸いだ。譲渡によって、どえらいモノを手にしちまった。その時には判らなかったにしろ、徐々に知られ、江戸時代には、
「あの歌の神様の日記だぞ」
価値重量がドンドン増して『明月記』は今や国宝だ。
公益財団法人冷泉家時雨亭文庫より転載
それを昭和の文学者・堀田善衛が掘り返し、たがやし、精査し、考察し、土中の雲母の煌きを見出していくんだから、た・ま・ら・な・い。
『万葉集』だけが日本じゃ~ない。令和時代を迎えるまでの長大な堆積の厚みとそれが発酵し芳香している最前列が令和の日本だし、その中に鎌倉時代の『明月記』や昭和時代の『定家明月記私抄』があると思えば、日本を味わうべきな本はまだまだ山のようにありますなぁ。
定家の歌に関しては『新古今和歌集』の、これがいいと、思う。
大空は梅のにほひにかすみつつ 曇りもはてぬ春の夜の月
「水を吸った綿」という表現があるけど、この作品には「綿を吸った水」というような、転換というか……、おぼろで不可解な世の中がいかに霞んでいっちゃっても、ただ1つのみ月があるという、嗚呼無情な、研いだ抽象が潜んでるよう思えて、やたらな凄みを感じる。
しかもただ静物画として風景を詠うでなく、いつかどこかの春にヒトがそのような無常観を持ってたということを背景に置いた上でもって、”曇りもはてぬ春の夜の月”と、ヒトの心を詠いつつ、しかし情動には距離を置くという大転換をやってる……。
心情はもはや問題じゃなくって、元号なども含めてヒトの世のうつろいなんか問題じゃなくって、より巨大なスケールでの天体の運行を定家は、眺めてる……、とそう思えば、これは稀有の視線、これぞクール・ジャパンな究極のポージングかとも思える。
アームストロング船長はあくまで人類をキーに名言を残したけど、人類の気配すら消したこの歌の超越がいい。
こういうのを憶えておいて火星に降り立ったら、チョット呟くというのもイイだろう。
堀田善衛の著作についてはまた触れたい。