定家明月記私抄

 前回の金魚譚を読んでくれた某ちゃんに、

元号、嫌うほう?」

 柔らかい問いをもらったけど、その逆です。あんがい好みにしてる。

 なるほどたしかに、市役所やら警察署など、

「えっと……、今ナン年だっけ」

 ジャズフェスの道路使用など申請時に窓口で躊躇したり困ったりもするし、そういう時、川の流れみたいな西暦は便利だね~、とも思うけど、それはソレとして、元号は1つの括り、1つの箱、1つの塊として接してみると、日常日々のお役立ちではなく、顧みるという点でもって、イメージとしての時代の輪郭がトレース出来るのが、ありがたい。

  1892年の春と云われるより、明治25年の春と云われた方がイメージ硬化が早い。

 元号を使ってるのは地球上で我が国だけじゃあるけど、こういう場合、いわゆるグローバリズムの足並みなどド~デモよく、いっそ元号がまだあるコトを喜ぶ。

 漢籍由来でも和歌由来でも、典拠なんて何でもイイとも思ってる。

 いっそ、「令和」でなく5月から「正直」だったりしたら、発表会の席上にしゃしゃり出て自己アピール1色の首相がどのようにショウジキ元年を解説するか、シゲシゲ眺めたいようなサディズム含みの気分も湧く。

 ともあれ西暦と元号の2本レールは悪くない。

 

 昭和生まれの身の上としては、平成、令和、と変わるワケで……、これから生まれるであろうヒトにすれば、

「も~ダイブン前の時代じゃ~ん」

 ちょうどボクたちが明治の方々や事物を想うみたいに、オールディーズな括りの中に置かれていくのも、致し方ない。そこはチョイと口惜しいけど、その口惜しい気分もまた元号が運んでくる特性だから、しかたなく受け入れよう。

 改元は老化を促しもする。

 それを新陳代謝と解いせるかどうかは個々で違うだろうけど。

 

「令和」の起用で急に『万葉集』が売れだしてるらしいですな。

 にわかっぷりの綿の軽さに若干の苦笑を禁じ得ないにしろ、興味を持つのは良いことだ。

 という次第でボクも右にならいましょう……、というワケにはいかないんで、ボクはボクで書棚から堀田善衛の『定家明月記私抄』を取り出し、アチャラコチャラと拾い読んでるのだった。

 

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 鎌倉時代の公家・藤原定家の名をサダイエと読むか、テイカと読むかはまだサダまっていないけど、「新古今和歌集」や「小倉百人一首」を編集した歌人だ。

 上の絵はその定家の像といわれてる肖像画

 でも『明月記』は歌集じゃない。彼が56年に渡って綴った日記だ。

 その間には幾つか改元も、ある。

 日本に生まれたヒトは概ね50年も生きりゃ、たいがい改元を経験できる仕組みになっている。

 定家の場合は、治承(じしょう)、養和、寿永、元暦、文治、建久、正治(しょうじ)建仁、承元(じょうげん)、建暦、建保(けんぽう)、承久、承応、元仁、嘉禄(かろく)、安貞、寛喜、貞永、天福、文暦(ぶんりゃく)、嘉禎(かてい)、暦仁(りゃくにん)、延応、仁治(にんじ)まで……、な~んと24回(うわっ!)も経験しちゃってる。

 なんでそんなに変えたかといえば、概ね、天変地異(主に地震だ)が原因だ。元号を変えることで荒ぶる自然やそれに伴う飢餓などの鎮静を祈願し、リセットし、政り事の安泰を図ったワケだ。

 地震災害のたびにが、これが今に続けば……、昭和、平成、令和だけじゃ~とても収まらない、ネ。

 

 定家の記述には「客星」の名が随所に登場し、彼が天体にかなり興味を持っていたことが知れる。星の運行もまた元号に関わってくる大事ポイントだった。

 星で吉兆を占う陰陽師がお友達だったせいもある。

 主に日常的でない天空現象、彗星などの出現に惹かれ、お友達の陰陽師・安倍泰俊に過去の事例を問い、星の出現と凶事の関係を考えてもいたようだ。

 近年の研究で、星に関する幾つかの部分は定家が直に書いたのではなく、安倍泰俊から届いた星の資料書類をそのまま本に綴じちゃったのではないかという説もある。

 ともあれそれで、カニ星雲が誕生することになる超新星爆発のことが記述され、当時のヨーロッパにもない観測記録として、この日記は有名になった。

 

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                 カニ星雲


 承元5年(1211)、定家が50歳の時の3月に元号は建暦に変わる。この改元は16歳の土御門天皇に譲位が強いられ、弟の14歳の順徳が即位するという妙なアンバイでのものだけど、その直前(前年末)に彗星が2度現れ、「光芒東に揺曳」という事件があって、定家は関連を匂わせるべくこれも日記にしたためる。

 たまたまこの4日だかに、NASAが、

2033年までに火星への人類到達をめざす」

 との発表をおこない、そのための予算獲得に動き出したことが報じられたので、ボクなりに面白いタイミングだな~とも思ったりした。

 この火星行きのためには、2024年までに月への人類送り込みが先行し、その成果を踏まえての2033年という期限を導いたようだが、鎌倉時代の定家に聞かせたら、

「なんとっ!」

 言葉編みの天才をして、しばし驚愕して口をパクパク……、だろうとチョット悪戯っぽく、かつ意地悪っぽく思ったりもした。21世紀と13世紀の背景の違いを見せつけても仕方ないけれど、よくよく月をモチーフに歌を詠んだ定家に、この変容を伝えてはみたいとも思うのだった。

 

 『明月記』は全編漢字一色の上、返り点もなく、極めて難解な文らしい。

 そこを掘田善衛(ゼンエイじゃないよ、ヨシエですよ)という感度の高い文学者が私抄として、フィルターとして、綴ったのが『定家明月記私抄』というわけだ。

 『明月記』の1篇1篇を読み進めつつ堀田善衛の深々な感想が続くんだ。だから翻訳本じゃない。

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          堀田善衛 1918年(大正7年) - 1998年(平成10年)

 

 掘田の読み解く藤原定家は、革新の最前衛で波に立ち向かってる言葉の実験者だ。単語と接続詞の無限の組み合わせを、ただもうそれしかないという所にまで追い込み運び込みして、1つの文とする途方もない天才だ。その1つ1つの文の中に情景と人の心がのっている。

 だから『定家明月記私抄』という本には定家という天才と堀田善衛という天才の2つが同居してるわけで、この相乗にただもう圧巻、圧倒されるワケなのだ。なので定家を読みつつ、掘田を読むという次第で1粒で2度美味しいとかいってる程度じゃ、いけない。

 

 掘田が『明月記』に接したのは大学生の時、いつ招集されるか判らない戦争のはじめっ頃で、その不安の焦燥にかられつつ炙られつつも、死ぬまでに是非読みたいと古本屋に発注したらしい。

 掘田は中国で敗戦を迎え、かろうじて命をつなぐ。敗戦後2年めに日本初となるアガサ・クリスティの翻訳をおこない、1951年には『広場の孤独』で芥川賞1961年の映画『モスラ』の原作者の1人になったりする。

 

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                               (C) 東宝映像  東京タワーのセットを見る掘田善衛(左) 

 

 ボクは『モスラ』でこの作家名を知るが、興味を抱いたのはもっとずっと後になってだ。

 50年代半ばから彼は海外によく出かけ、1977年頃にはスペインに家を持った。

 『定家明月記私抄』はそのスペインで書き上げた。

 

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 藤原定家の『明月記』は19歳から70代に至るまでの記録だけど、掘田は定家の歩みと歩調をあわせるようにして半生をかけ、この日誌的な書と向き合い続けていたわけだ。

 その時間の悠長に驚かされる。

 ボクは読む速度が遅いヒトですけど、それでも2週間で掘田の本は読める。しかし、掘田が挑んだ時間の長さを思うと、たかが2週間で読んじまってイイのか……堀田善衛に向け、藤原定家に向け、申し訳ないような気にならないワケじゃない。

 掘田が読み解こうとした時間の堆積は定家の人生と重なりもして、まさにこの本は2艘の舟の1本の帆柱の行方を見詰めるというカタチにもなって、ボクの興味深度はやたら深い。

 まして掘田はこれをスペインの永遠のような青い空の下で書き上げてるんだ……

 

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    スペイン。ラ・マンチャ地方。Eっちゃん達が記念撮影した場所だね、ここは。

 

 この本は定家の歌の個々を解説するのではなく、定家の生きた時代、公家の社会の様相を知るいったんにもなっているし、また逆にそれだから定家の詠んだ歌の真相のそばに寄れるような感もある。

 掘田も書いているけど、公家はやたら忙しい。

 雅びなお遊び世界に生きてるよう印象される京の公家の実態は、それはそれで実に苦労が大きく、難儀な日々をおくるという点で今のボクらと「せわしなさ」という所では変わらない。

 周到に気遣い、気配りしてなきゃタチマチにどこかから足を引っ張られたり非難ゴ~ゴ~だったり、という空気も同じ。いやむしろ、定家の公家世界の方がその濃度はひどく高い。

 定家自身もワンランク上の仕事上のポジションを目指すも、難しい。

 朝の早くからアチラの御殿コチラの御殿へと挨拶やらご機嫌伺いに出向く。

 職業歌人としての誉れは徐々にアップしつつも、公家格式の中で定家の家柄は2流だから、常に格上に気遣いしなきゃいけない。

 たとえば帝の女院(愛人だ)は10人を超えるがその1人1人の住まいに定期的に行って挨拶する。

 ひょっとすると帝の子を産むかも知れない方々のお屋敷に向け、牛車にのり、10名前後の従者を従えて出向き、従者一同は門先で待たせておくのも格上への配慮、礼を尽くしているのをそうやって示し、その上で贈収賄(出費も甚大)があり、忖度が重ねられ、さらに宮中でのおびただしい儀式を儀礼通りにこなし、さらに法会あり加持祈祷あり、でもって、お遊びもある。

 その遊びもまた、とてもくどい。真冬の凍てつく寒さの中、格が上の方々の蹴鞠プレーをただ眺めるだけに2時間も3時間も座ってなきゃ〜いけない。

「公家に産まれるんじゃないわ」

 な感想が浮くほどのテンヤワンヤ。

 そのテンでワヤな日々をしかし定家は克明に記しつつ、日常に埋没しない精神飛躍を文の中で化学変化をおこさせるワケなのだ。

 

 定家はこの日記をもって公家界における1つの地位を、詩歌のみではない新たな文章表現が出来ることを頼りに、政り事に新規なポジションを確立し起こそうと努めたようであるけど、残念、それは実らなかった。

 定家の没後、息子はこの日記を価値なしと判断し、まして歌集でもなかったから、親戚のおじさんに、譲ってしまう。

 このおじさんの血が今に続く冷泉家は幸いだ。譲渡によって、どえらいモノを手にしちまった。その時には判らなかったにしろ、徐々に知られ、江戸時代には、

「あの歌の神様の日記だぞ」

 価値重量がドンドン増して『明月記』は今や国宝だ。

 

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            公益財団法人冷泉家時雨亭文庫より転載

 

 それを昭和の文学者・堀田善衛が掘り返し、たがやし、精査し、考察し、土中の雲母の煌きを見出していくんだから、た・ま・ら・な・い。

万葉集』だけが日本じゃ~ない。令和時代を迎えるまでの長大な堆積の厚みとそれが発酵し芳香している最前列が令和の日本だし、その中に鎌倉時代の『明月記』や昭和時代の『定家明月記私抄』があると思えば、日本を味わうべきな本はまだまだ山のようにありますなぁ。

 定家の歌に関しては『新古今和歌集』の、これがいいと、思う。

 

大空は梅のにほひにかすみつつ 曇りもはてぬ春の夜の月

               

 「水を吸った綿」という表現があるけど、この作品には「綿を吸った水」というような、転換というか……、おぼろで不可解な世の中がいかに霞んでいっちゃっても、ただ1つのみ月があるという、嗚呼無情な、研いだ抽象が潜んでるよう思えて、やたらな凄みを感じる。

 しかもただ静物画として風景を詠うでなく、いつかどこかの春にヒトがそのような無常観を持ってたということを背景に置いた上でもって、”曇りもはてぬ春の夜の月”と、ヒトの心を詠いつつ、しかし情動には距離を置くという大転換をやってる……。

 心情はもはや問題じゃなくって、元号なども含めてヒトの世のうつろいなんか問題じゃなくって、より巨大なスケールでの天体の運行を定家は、眺めてる……、とそう思えば、これは稀有の視線、これぞクール・ジャパンな究極のポージングかとも思える。

 アームストロング船長はあくまで人類をキーに名言を残したけど、人類の気配すら消したこの歌の超越がいい。

 こういうのを憶えておいて火星に降り立ったら、チョット呟くというのもイイだろう。

 

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             堀田善衛の著作についてはまた触れたい。 

 

 

 

 

魚が出てきた日

 月が変わり、一冬、およそ4ヶ月ほど放ったらかした庭池の水替えを実施。

 オーバーフロー対策の機能はあるものの、浄化の仕組みがない池なので、手動でエッサホッサッと水を掻い出さなきゃいけない。

 いつもなら3月半ばにこの作業を行ってたけど、今年は遅れた。

 さすがにひどく汚れてた。澱んで暗緑色の水の中で呼吸している金魚どもは、まことにお気の毒のかぎり。

 そのせいもあってか……、水を抜いてみると、昨年冬前には5匹いたはずの赤いベベちゃんがわずか2匹になっていた。

 

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 庭池は、ボクが横になって背筋を伸ばせるサイズがあり、深さは横になったボクが肩までつかれるくらいはあるから、50匹越えの金魚が住まえるスケールなのだけど、そこに5匹というのは贅沢ゆとり環境のはず。しかし……、水が汚れてちゃ~いけない。

 広大なお屋敷も荒れ放題のゴミ屋敷という次第だったから、そりゃま~、5匹が2匹に引き算されたのもワカラナイ話でない。

 けども、一気に3匹いなくなるというのは、いつもとチョット様子が違う。遺骸もなければ骨すら、なくなってる。

 

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 さてそうやって水替えて3日が経過。

 しかし透明になった水に、2匹の姿がまったく見えないのだった。たいがい水替えた翌朝には、新鮮復帰に小躍りしたような遊泳姿を見るのが常だったのに、姿がないのだった。

 おかしいな? と思ってアミをいれ、隠れ家となる部分あたりまでまさぐってみたのだけど、頭も尾ッポも出て来ないのだった。

 近年、庭池のあるウチの小庭にはアレコレ野鳥がやってきては、葉を喰らい花を散らすという”休憩処”という有様で、今年はウグイスまでやって来て、ホ~ホケキョ、早朝から騒々しい。

 けど、そやつらが金魚を食べちゃう、というのは考えにくい。

 数年前にシラサギが狙ってたという事はあったけど、今年サギシの姿はない。

 なので、ケッタイな消失現象をマノアタリにして、ミステリ~ゾ~ンに消えてったか……、困惑するのだった。

 けどまた一方、

「ならば買ってくればイイじゃん」

 気分切り替えも素早い。

 

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 この池に入れるのは、金魚すくいの気の毒なヤツを救いだす程度の、ずいぶんと安いのに限ってた。

 けども数年前だかに熱帯魚屋で買った1匹50円ホドの赤いベベのうち数匹は、次第に色が変わり、紅白まだらなものに変じてた。どうやら、和金とコメットが混ざって生まれた金魚だったようだ。

 ま~、そんなこともあり、レッド単色より華やぎがあるから、こたびサカナ屋に出向くや、あえてコメットを求めてみた。

 50円で買える赤いのに比べると、ちょっと高い。

 ちょっと高いといっても、ベラボ~でない。

 5匹調達。

 

 で、池にいれてやった。

 むろん即座にドボンはいけません。水温水質ジョジョに慣らすという手間をかけ……。

 初体験の場所にやって来たゆえ、自由になった5匹はしばし呆然。その後、身隠れ出来そうな岩場の影に入ってった。

 その翌日だ。

 何とか新空間の掌握が出来た頃合いだろうと、昼頃、水辺によって眺めるに、

「え?」

「あれ?」

 7匹いるじゃないの。

 幾重知れずと化してた2匹が、出てきたんだ。

 でもって、新参と一緒に静かに群れなしてるんだ。

 

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 庭池がちょっとした手品を見せたようで、かといって拍手するような性質でもなく、

「なんでかな~?」

 安堵するより、ボクは首をかしげちまった。

「やれ変わるぞ!」

「げんご、げんご~!」

 ここ数日のガラパゴスで激烈にトリック政治的な元号一色の騒擾と、ガラパゴス庭池のミステリ~の相乗とで、首傾けたままポカ~ンと口をあけてるのだったけど、1日付けのワシントン・ポストBBCなど海外メディアが、「令和」を、

〈Order and Peace〉

” 命令と平和”と訳したもんだから、あわてて〈Beautiful Harmony〉、”美しい調和”だと3日めに発表。

 何でハナッから英文で「令和」の意味を伝えてなかったのか……、閉じきったガラパゴスっぷり大いに発揮で、これまた口あんぐり~、Get Angry!

たま大明神

 桑田町の岡山シティホテルでランチ。

 スポーツだかの親善でやってきて同ホテルに宿泊してるのか、背にCHINAのロゴが入った揃いユニホーム10数名の小学生らの食事時間と重なり、その行儀の悪さに辟易しつつ、セッセと皿換え品変え、食べに食べる。

 バイキング形式の食事はどうしてだか、そ~なっちゃう。岡山木村屋が経営参加しているからパン類豊富。でもパンは食べずにやたら、おかずをすくって平らげる。

 満腹。

 

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 おなかごなしにと柳川方面へとヨタヨタ10数分歩き、交差点かどに新たに出来たビルの4階へのぼる。

 そこに和歌山のたま神社から分祀の、”たま大明神”がある。

 昨年の10月末頃に出来上がり、今年2月末頃から誰でも参拝できるようオープンにされた。

 初めて詣でる。

 真新しいノボリが風にハタハタ。

 

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 神社という形態は八百万ヤオヨロズの神を含有するくらいだから、容器として許容幅がひろい。厳格な宗教概念を振り廻さずとも、一定の”規格”を持てば、お社が建つ。そこをテコにすれば、語弊がある云い方だけど、遠回しながら商業的な利用も出来る。

 かつて明治の時代に建立された甚九郎稲荷もその流れにのって建立されたものだったワケだし、神さんを方便にしつつ、「集える場所」の提供であり、「ここから何か始める」の場でもあって、曖昧だけど、これは悪くはない。

 むしろ、その曖昧部分に新造神社の醍醐味があると思えば、た・の・し・め・る。

 ビルの4階テラス部分に配置されたというのもイマドキ風。路面電車が見下ろせる。と云うか、路面電車が見える位置でないとこの神社は機能しないハズ。

 

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           たま神社(たま大明神)からの眺め

 これを造った両備グループの小嶋社長は、

「柳川交差点は交通の要所。和歌山で電車の安全運行を見守っている『たま』を分霊し、岡山の交通安全にも御利益をもたらしてもらおうと企画した」

 といい、

「ネコ好きをはじめ、それ以外のペット愛好家の方もどんどん参拝してほしい。イベントへの活用も考えたい」産経新聞2018.10.13記事)

 ともいってるから、手法としては甚九郎稲荷と同じだ。

 甚九郎稲荷は佐久間甚九郎という架空人物を創案し、その物語を編み込むことで神社としての梁を硬くし、たま神社(たま大明神)は猫のたまちゃんを大明神にもちあげることでストーリーの第1章を幕開けた。

 

 甚九郎稲荷は、岡山城内堀の埋め立て工事がはじまった頃、北之橋(通称・甚九郎橋)のそばにあった祠が撤去されるというコトで、それを同町上之町の光藤亀吉たち若い衆がエッチラホッチラと移転させて小規模な神社として設置したのがスタートだ。

 埋め立て工事は明治14年に開始され数年の期間を要したから、移設建立もおそらくその頃だったろう。現在の同社前の道向かい、入口からみてやや右側あたりに、かつては地域の用場(集会場所)があり、稲荷はその一画に設けられ、火除けの神さん、というフレーズがつけられた。今の串揚げの「山留」の手前の駐車場あたりかな……、この駐車場も来年頃にはマンションに姿を変えるみたいだけど。

 

 明治25年、稲荷のそばに亜公園が出来ると、人は集って同園にたむろった。

 前年の3月に開通した山陽鐡道岡山駅のホームからも、この大娯楽施設たる亜公園中央の集成閣(7階建て)はよく見えた。

 なんせ娯楽施設なのだから、ディズニーランドと同様だ。明治の岡山でも灯りに群れ舞うように人は亜公園に吸い寄せられ、生まれて初めて味わう7階建ての高みに足をすくませたし、入場料というカタチも初めて味わって、

「何で? 何も買っとらんのに……」

 ちょっと意味が判らなかったりした。

 だから、すぐそばながら、亜公園に較べて甚九郎稲荷はさほど脚光を浴びなかった。

 

 亜公園には豪奢な天満宮もあり、これは岡山神社内の天満宮に向かって礼するようなカタチで設置されている。拝殿の横には巨大な「硯り岩」がたっていて、お習字の上達など願うというカタチになっているのは、天満宮とはすなわち学問の神たる菅原道真を祀ってあるからだし、亜公園が建った天神山ははるか昔に太宰府に流される道真が休憩した場所との伝承があって、かつては祠もあった。その祠は江戸時代に岡山神社に移動され、それが同社北側にある天満宮だ。

 だから亜公園と岡山神社はその2つの天満宮でもって結ばれ、共振していたワケだ。

 

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     亜公園内の天満宮 復元模型  神殿は岡山神社に正面が向く配置で建てられた

 13年後の明治38年、亜公園を岡山県が買収。その跡地に岡山警察署、図書館、県会議事堂を造ることになる。

(亜公園は5年で閉園したと書いてる本があったりするが、確かに5年めの時に経営者片山儀太郎を直撃する大きな事件があったものの、閉園時期の記述は、これは昭和の半ば、郷土史家の岡長平の記憶違いが1人歩きしたものだから信用してはいけない)

 最初に着工されたのが岡山警察署で、場所は天満宮のある位置。それで天満宮の処遇が問題になった。神を祀ってるんだからおろそかに出来ない。それで甚九郎稲荷と合祀することにした。

 たまさか、亜公園すぐそばに県所有の土地がある。そこを上之町に無償で貸出すカタチにし、甚九郎稲荷を移動、併せて亜公園内天満宮もそこに移動させ、合体した。

 本殿や拝殿は天満宮のものを移築。鳥居にあたる門柱も天満宮から運んだ。

 元の甚九郎稲荷からは不思議な形の手水鉢や備前焼の獅子が運ばれた。

(この狛犬に関してはまだ不明点が多いけど、筆者は亜公園由来のものではなく初期甚九郎稲荷のコマイヌだと考える)

 当時の格付けは「無格社」であるから宮司は在住しない。岡山神社がそれを代行して今に至る。こうして現在の場所に、現在の配置でもって、甚九郎稲荷は第2期のカタチをスタートさせた。

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            この拝殿や本殿を甚九郎稲荷と合祀させた

 亜公園をなくした上之町や天神町では、なんせ商店が大半だから、町の活性を呼ぶ起爆剤が欲しい。となれば、中心となる施設は甚九郎稲荷をもって他にない。

 そこで皆さん知恵を出し合った。

 祭を創成することにした。

 今に続く7月の祭だ。

 そのために、1つのストーリーが編まれる。

 中村兵衛という作家に『史跡甚九郎稲荷』という小説を書いてもらい、新聞に連載後(中国日報に連載)、大正3年、大坂の出版社から本として刊行。県外者にも興味をひかせた。

 

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 伝承的ストーリーでもって稲荷の来歴を組み立て、稲荷の起源を示しみせた後で、さ~、祭だ。

 境内で行われる類例のない空くじなしの福引。各商店の店先の飾りつけ(ダシ)の数々……。町内あげての総力戦たるイベント創成だった。

 これが大ヒットとなる。

 訪ねみれば、稲荷境内だけでなく、上之町のほぼ全商店が何らかのカタチで店内を飾りつけ、ここぞとばかりにそれを見せてくれるんだから、存分に楽しめるワケだ。しかも稲荷でクジを引けば必ず何かを貰えるんだからお得でお徳、美味しさ2重のイタレリ尽くせりだ。

 年数が経つ内、話題が拡散、評判が評判を呼んで、今からは想像もつかないけど、どえらい規模の祭事になって県外からも人が寄せるほどだった……。

 天満屋デパートが表町に出来て人の流れが変わるに連れ、その勢いは次第に薄れるのだけど、少なくとも大正から昭和初期にかけての甚九郎稲荷は、界隈の活気のコアとなる場所なのだった。

 成功の秘訣は、小説『史跡甚九郎稲荷』が、背中に貼ったホッカイロの温もりみたいに影でジンワリ効いたからとも思える。いわば小説が情報戦略の先導者として踊ってくれたわけだ。

 

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      2017年7月25日撮影:甚九郎稲荷のお祭り 現在の家屋は戦後のもの

 ま~、そういうヒストリーを思えば、こたびの「たま大明神」も柳川周辺の躍動の1つの波動として、この先、おもしろいカタチの波を見せてくれるような感がなくもないし、タマちゃん嫌いじゃ~ないんで……、亡くなって久しいけど、大明神としてのポジションでもって大いにニャ~ニャ~してもらいたいな……、ともボクは念じるのだった。

 明治の時代と違い、祭の創成などしなくとも、たま大明神を設置したというニュースそのものだけでも両備グループにはご利益ありでしょうし。

 

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 案内看板はまだ何もない。1階のスーパー横手のビルの自動ドアを入ってエレベーターで4階にあがれば、現状は神社空間を独占出来る閑散っぷり。ま~、それもまた良し。

 しかし思うに、これをビル4階に設けた両備グループはある種の責任を担うことになる。タマちゃんを神さんにしちゃって岡山に運んで来た以上、この神さんの居場所をもはやおろそかには出来ないワケで……、むろん、そこの覚悟あってのコトだとは思うけど、またそれゆえ、何だか密かに応援したい次第でもあって、週末のみ営業のタマちゃんグッズの販売などあれば……、より面白かろうとも期待を持って眺めてる。

 ビル1階のスーパーに、すでにその萌芽があって……、『猫珈』という、ネコ図柄のかわいいパッケージの、カフェイン分がないコーヒーを売ってたりする。

 

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           現状、境内で”買える”唯一の販売物 

Spring has come

 3年ほど使い続けた Mac pro を新たな Mac pro に交換。新たなといったって、ゴミ箱の筒みたいなあの応用性の悪いヤツでなく、旧型のモノ。

 昨日まで使ってた Mac pro とて何の不具合もなく、本体交換の必然も実はなかったけど、我がコンピュータ環境のほぼ一切のメンド~をみてくれてるChikaちゃんが自分の Mac pro を新たにし、それまで使ってたヤツを、ボクのところで、

「使いませんか?」

 となった次第。昨日まで使ったものも同じ経由。

 同じ筐体ゆえ、一見は何も変わらない。

 けども中身はチュ~ンが施されて快適性増量のカスタマイズ仕様だから、当然に悪かろうはずもなく、せっかくの申し出だし、

「では、お願いね」

 ということでデータ移行含みの取替作業。

 

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              作業中のChikaちゃん

 

 ま~、次いでゆえにとSSDを容量のでかいモノに買い替えもしたけど、ともあれ、一新。キーボードやモニターやらは従来のままだし、デスクトップの図柄も配置も皆なそのまま移植だから、強烈に変わった気はしないけど、昨日までボクが使ってた Mac pro は、さて? 誰かさんが使ってくれるかしら。何やらそっちの方が、た・の・し・み。

 

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  この先コンピュータはこういったデスクトップな、いわば大和やミズーリみたいな巨艦なものから、カスタマイズを拒絶するiMacに代表されるオールインワンに向かい、よりモバイルな携帯電話的なモノとの合体が進んでダウンサイズされ、コンピュータという単語すら廃れるような日常物品の中に埋没していくのだろうけど、巨艦は巨艦、据え置かれた門松みたいな粛然とした麗華があってボクは好き。

 けど、巨艦であれ小艦であれ、何もかもがクラウド依存になって、プライベートな領域の諸々までが仮想な空間に置かれて管理される流れは、好感出来ず。

 

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 3月の週末は何かとイベント多し。

 過日の土曜は、城下公会堂でのTetsuya Ota Piano Trioライブ。開催2週間ほど前にドラマーのJON君が左手首骨折のアクシデント。こりゃ中止かな……、とはならないのが、さすがプロフェッショナル。片腕でタイコをこなして見事2時間やり抜いた。

 

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                  リハーサル中のJON

 

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 某日。某委員会の年度末会合。

 しかし、このシーズンになるといつも思うけど、3月末をもって「会計年度末」、4月1日をもって「年度始期」ってのは、どうも身体具合にそぐわないような気がしていけない。

 江戸時代までは経済活動も暦年とリンクし、1月がスタートで12月に終わるようになってたから、なので12月末はお師匠さんまで出納簿とニラメッコで慌ただしいから「師走」なのだったけど、明治政府が変えちゃて、そこから変なアンバイですなっ。

 

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                江戸時代の暦

 

 英国を真似てしまった。

 英国じゃ、「会計年度」を4月スタートとし、3月が「年度末」だ。明治政府はそれを模倣した。

 加えて、新たな国造りに挑んだものの税収不安定がはなはだしい。徴収の対象は多くが農業だ。秋に収穫のお米が売られ、その現金が農家に入ってくるのは12月を過ぎてからが多くって、税の取り立てを図るのは2月やら3月が都合良し……、という次第もからんでた。

 けど実は、当時の英国は年の始めは3月25日。暦と経済活動のケジメはズレてないんだなぁ……

3/25を年始とするのがユリウス暦グレゴリオ暦に改暦以後は1/1が年始)

 だから日本で適用すると、何だか変だった。暦での1年のけじめと、経済の1年のけじめ……、年末年始が2度あるワケだ。

 変だけど、明治以来そこを直さないままに今に至ってる。慣例と慣習が居座って動じない。

 ドイツやフランスやロシアなど欧州諸国は暦と連動して1/1が会計年度始めだから、この点はスッキリしてんのね。元旦のモチを食いつつ帳簿も一新なワケだ。ま~、モチは食べないだろうけど。

 なワケゆえ、3月も半ばに収支決済確定報告の年度末会合に出ていかなきゃ~いけない。

 直後に急浮上した亜公園のとある資料。個人で買える額面でない……。その購入費用を組み入れてもらい、来月には現物と対面できそう。ニッタリ。

 

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               会議前の静穏

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 某夜。奉還町の馴染んだ店にて飲み会……。親しんだ顔ぶれでチャカポコ・チャカポコ。

 お仲間とお気軽気さくに呑んでケラケラ笑っちゃ、

「よっ! ほっ!」

「たは~っ!」

「プピィ~!」

 なんて嬌声あげてる時間って、酔いヨイ良いね。

 3月11日前後にyou tube津波映像を何本か観て、逆説に、生ある現在を実感したゆえ、チャカポコ皿小鉢たたいて笑える時間が、いとおしい。

 

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                    鯨のヅケが小鉢に

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 過日の土曜。岡山市文化振興課とNPOアートファーム主催の街頭劇『まち歩きシアター』。

 市内複数箇所での過去と今を結ぶパフォーマンス。そのうちの1つ、路面電車が駆ける繁華な街の一画にて、我が古市福子大先生が朗読。創作は昨年末に一緒に講演した岡山中央図書館元館長の大塚氏。

 これは聞き逃し出来ない。

 似通う試みは、やはりアートファームさん主催で、かつて犬島であったけど、演出に難あってチビッとも面白くなかった。さてこたびは……、各会場を見学したわけでもないけど、古市+大塚という組み合わせが妙味。おまけに話の内容が明治時代の饅頭屋なんだからボクの興味温度もチョイ高かかりし。

 

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 場所は大手まんぢゅう伊部屋の駐車場。大勢のギャラリーの前、若いパフォーマーを従えての朗読は講談調。すぐそばを駆ける路面電車の騒音を逆手にとっての話の運びは、さ・す・が。

 観覧後、KちゃんEっちゃん-かしましシスターズやらやら総勢8名で、お茶。地域バナシでいささか盛り上がる。全ステージを観たかしましシスターズやらの話を統合すると、幾つかのステージ・パフォーマンスが上出来だったようで、こりゃチョット逃したかもと、観てない部分が口惜しや。

 

 大都であれ小都であれ、ヒトは自分が住まってる場所から視線を巡らせるしかないワケで、その住まってる場所をチビリっとでも掌握したいと思うようになるのは、ある程度に年齢がかさんで来なきゃいけないのかしら? お茶しつつ感慨がわく。

 少なくともボクの場合はそうだったな……。もっと早くに足元の魅力に気づくべきだったと思う。ま~、そういう次第あって明治の一地域のことを執拗に探ってるワケだけど。

 

 数日前だか、今年の「幸せの国ランキング」(国連の諮問機関「持続可能な開発ソリューション・ネットワーク(SDSN)が7年前から毎年まとめている。ブータンが提唱国)が発表され、日本は昨年より順位が下がってた……

 政治、経済、治安、自由度、信頼度、寛容性、自然状況、などの総合点数での順位づけじゃあるけど、1位のフィンランド(去年もそうだ)に対して日本は58位。ロシアに近くなってる(ロシア68位)

 

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 Spring has come

 お彼岸ゆえ坊さんも来る。

 仏壇の阿弥陀如来に向け、チャチャッと拝んでもらい故人を偲ぶ。 

 雨の翌日、一気に開花したユスラウメ。

 開花というより噴火の勢い。世界幸福度の58位というトホホっぷりながら、花咲けるシーズン到来はこれはこれとして喜ばしい。

 

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サバ缶 百花繚乱

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 何10年もさほど日の目やら脚光を浴びることなくお過ごしであったサバ缶たちが、いまやメチャな活気ワールド。新缶あいつぎ、乱世繚乱のせめぎあい。

 価格抑制のためか、奇をてらったか、缶オープン部分が紙製になったモノも出て来て、ハチャメチャの賑わい。

 サバ缶風味を提供というコトでビニール袋入りな廉価なモノまで出てきちゃってる。(なのでサバ缶じゃないけど)

 新造は濫造につながり、缶のプルトップ部分が硬すぎて、指で引っ張るだけじゃ開かずで、プライヤーでオープンし申したというテイタラクな新参粗製缶があったりもする。

 

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                      紙製の蓋

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               開けるのに難渋する缶
 

 新発売続々で、サバそのものの漁獲が需要に追いつかずで品不足になってるともいい、必然として原材料の値が上がり、なんだか実に嘆かわしい。

 ついこの前には、こんなのまで、出た。

 

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 ロング缶だ。

 缶ビールじゃあるまいし……。缶詰というカタチは、手のひらサイズが普遍的価値有りとボクは思ってる。

 その大きさをば無視しての、逸脱。

 神戸の巨林ジャパンという会社が販売で、中身は韓国製造。(韓国輸入のサバ缶はこれが唯一と思う)

 ブランド嗜好も国産指向もないけど、ゥムムム。ブームに便乗するには目立つに限るという発想でのロング・サイズかしら?

 ツナ缶みたいなオカズの一部分になりなさいとの……、家族団らん数名の夕食の一品として用いることを想定してのものじゃあろうけど、「売るがための新提案」というだけの代物にみえないコトもない。

 “缶を開けたらそのまま食べる”で50年一筋の原理主義者には、これは困った弱ったなロング缶。

 1人の孤独な缶喰らい、として苦言するなら、

「食べ切れないじゃないか」

 ということになるし、そも、こんなサイズで缶詰めなんて、

「美しくないじゃんか」

 ともブ~たれる。

 特に後者の、「美しくない」のウェィトがでかい。

 このロング缶では、箸を缶内に突っ込まなきゃいけね~。シラサギが長いクチバシで餌を突っつき喰らうようなアンバイになって、この挿入、まことにみっともね~、と思う。

 家族団らんの夕食の一品としてか、缶裏に「さばのキムチチゲ」とかのレシピが書かれてたりもして小さな親切も含まれてるけど、サイズゆえに滑稽で、何やら貧相で貧寒、

月天心 貧しき町を 通りけり』

蕪村が眺めた寂しき情景の中に置いていいような、

「侘びしい夕食じゃなぁ」

な感が拭えない。ならばいっそ、ビニール袋に入ったヤツの方がこの場合、経費はもとより、寒中水泳の我慢の高徳ありっぽくで、いさぎよい。

 

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 なんて~コトを思ってたら、さらにまた出たロング缶……。

 これはニッスイ、国産だ。

 けども、

『コク旨みそ煮』

 は、ま~よいとしても、

「CANから惣菜」

 というような余計ゴトが書かれてるのが、好かん。

 さらに、

「ごはんのおかずに」

 だなんて……、お節介が過ぎるロング缶。

 とにかく売りた~い! の気分が缶周辺20センチ四方に漂ってやしないか。

 

 しかしま~、ブ~ブ~云いつつも、缶詰という存在は大好きでありまして、ヒトの発明品の中では筆頭に置いていいのじゃないかしら? そう思って久しいし、わけてもサバ缶というのは特段にイケてますなっ。水煮のクセある風味、骨までサクサク味わえる歯ごたえの妙味、味噌煮のお汁の旨味……。飽きませんね。

 

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 上写真、福井生まれのS君がついこの前にギフトしてくれた2缶。

 福井県西部の小浜オバマの産、いわゆる北鯖、お江戸の時代にゃイチバン重宝されてたサバどころの缶。

 サイズといい控えなパッケージの色彩といい、こういうのが王道だ。とはいえ今は、需要に供給が追いつかずでノルウェーのサバを原材料としてるようだ。惜しいが、ま~、しかたない。ノルウエーのサバであれ、小浜で味付けた缶というところを感じるべきな逸品だ。

 

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 これまた先夜にKちゃんがくれた逸品。一見は鯖寿司だけど~、実はカマボコの上にホントのサバがのって、絶妙に美味しいというお品。以前にも紹介しましたが、サバ缶ではないけどサバつながりで語るに価いする長崎は天草の特産品。

 

 で、このサバ缶爛熟期にあって、ボクにとっての”良いサバの缶詰”とは何か?

 そこをホントは、掌握しなきゃ~いけないワケなんだ。

 新缶出るたび「おっ!」っと右往左往してたんじゃ~ヨロシクない。ボクらにとってではなく、ボクにとってが肝要だ。

 缶詰に対して、「ボクはあんたが好きだから」の理由付けを申せるだけの、『顧客』としての位置掌握が出来てないとダメだと思ってるんだ。

 たかがサバ缶とあなどっちゃ~いけない。そうでないと、”いいね”ボタンを押しちゃうだけの、欲望社会の波に浮くだけの、『消費者』という名の情けない身の上に落ちちゃうぞ。

 あえてしっかり意識的に偏屈なばかりに、己のが嗜好の指向を思考し、いつナンドキでも、

「あ~だこ~だ」

 と云えなきゃいかんね、サバ缶に。

 コンシューマー(消費者)とカスタマー(顧客)は近似はしてるが、別物だ。

 サバ缶から見たボクは、平均化された群像の中のただの消費者か、サバ缶そのものが恐縮する顧客になりえるかが問われてるんだ……、などと形而上っぽく云ってりゃ、サバ缶の旨味の質具合がミリ単位で測量出来るように思ったりもしているワケで、ま~、そういうコトで云えば、ロング缶は今後2度と買わない立場に立ってサバ缶ラブの旗を振ろうじゃん缶。

 

 

 

ミルキーソフトのキャラメル味

 1ヶ月ほど前のことだけど、フジヤのミルキー・ソフトにキャラメル味というのが新登場で、これが珍しくも近場のスーパーに早々と入荷しており、買ってしまうのだった。

 バターみたいにパンに塗るスプレッド。

 すでに”普通”のミルキー味のものは販売され(これは以前に書いたね)、いまさら目新しいわけでもないけど、ま~それでもバリエーションが増えたのが喜ばしや、速攻で食べなきゃいけないモノでもないけど、手に取ってニタリ、ベロをだして微笑むのだった。

 

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 けども、スーパーの棚をよくよく見るに、パッケージ違いも置かれているのだった。

 何が違うって、ペコちゃんが、「あちゃ」ってな顔でベロだして頭コンという図柄……、だけが違うのだった。

 

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 これはいったい、ど~いうことであろう?

 

1) パンスプレッドなミルキー商品第2弾としての、いわば便乗的追加に対してのペコちゃん的自虐、それゆえ左目をあらぬ方向に向けて頭コンなのか……?

 

2) あるいはただ単に地域限定な別パッケージなのか?

 

3) あるいは、ペコちゃんフアンならきっと両パッケージを買うだろう、の思惑的事業展開なのか?

 

 などなどなど、考えるというホドでもないけど、

「ま、いいかッ」

1)が示唆するところも呑み込んで、密かに軽度なペコちゃんファンである当方は 3)に適合し、両方ともを買ってしまうのだった、フジヤの思惑通りに。

 で、さらに数日後には、旧来のミルキー・ソフトもパッケージ違いが販売されている。

 

 自明ながら、このような販売&購入は室町時代では考えられない。

 パッケージ違いだけでモノが売れるワケもなく、そもパッケージの概念は、茶道具の箱に名を入れることで茶碗の価値が高まるという局所的な”発見”に留まって、まだ一般化に遠い。

 むしろ箱書きがすわるコトで何で茶碗が高くなるのか不思議でしかたないというアンバイの初期の初期。茶碗に名と作者なり推奨者の名(めい)を加えると儲けが飛躍する旨味を知った堺の商人らがニッタリ北叟笑んでる程度で、むろん、そこに利休もいるだろうけど……。

「要冷蔵の商品」があるワケなく、冷蔵庫なんて夢想も出来ず、ペコちゃんもまだいず、これは室町時代をいきたヒトに較べてズイブンにお得というか、進んでるというか、ズイブンに未来な商品経済の爛熟話。お気軽太平楽なハナシなのだった。

 むろん今が平和な社会であろうわけもなく、その点は室町時代とあんまり変わらないと思うし、日々のニュースというカタチで届くアレコレな情報に翻弄されっぱなしなのは室町時代より、おそらくかなりヨロシクないけど、選択幅が大幅に増した庶民生活を感受できるという1点では、やはり現在の方が上なのだった……。

 当然に、それは上なだけで、良くなったという意味じゃないけども。

 

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 これまた最近のことだけど、上写真のハンバーガーがワリアイとお気に入りなのだった。

 とても旨いというホドでなく、

「ま~、悪くはないにゃ」

 程度が根底にありはすれども、それでも従来のスーパーなんぞで売ってる安い既成品に比べるとウンデンの差ありの商品なのだった。

ハンバーガーを喰ってる気分がする」

 という1点で、これは珍しいモノに思える。

 もちろん生野菜なんか入っていない。あくまでも既成品。

 いわゆるバンズでなく、丸っこいだけでパンがいかにもパンなのがちょっと惜しまれるような気がしないではなく、サイズと相まって、あっためて写真に取ろうとすると下のように、カバが口を開けてます~みたいなフニャケ姿になっちまう。

 

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 が、

「2度と喰わんぞ」

 なマズイものでもない仕上がりに星マーク1つ半くらいは進呈し、3週間に1ケくらいならオッケ~な商品なのだった。

 
 最近はどこのスーパーでも手作りパン工房がしつらえられて”焼き場”が可動し、香ばしい匂いと相まってなかなか精彩ありだけど、ビニール袋に入れらた既成品が積まれたパン売り場も捨てがたい。

 トングとトレイでやや上品に扱われるオートクチュールめいた品よりも、いささか雑に扱われて平積みになってるレディ・メイドの方が断然に好きとは云わないけども、スーパーに出向けばパン売り場を一巡する癖は、ある。さほど買いませんけどな……、商品がいっぱい並んでるのを見ると直にオナカに入れずとも、メダマが喜ぶの。

 上記の品はどういう次第か近場のスーパーになく、ヤマザキのディリーストアでしか見かけなかったけど、ごく最近になって類似品がスーパーにも置かれだしてる。

 

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「完熟トマト風味&マヨネーズ」ではなくってぇ、「バーベキューソーズ&チーズクリーム」と、チョイっとお味を変えている。

 けども、舌に嘘や誇大は通用しないのだ。

 これは……、1段安い同社のハンバーガーと同じ味わい。確認のため同時に温めて食べ比べてみたけど我が舌では相違なし。感じるところナシ。

 

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 こういう場合、知恵あるヒトは、スライスチーズを加えたり、ケチャップを少量混ぜ入れたり、レタスを添えてみたりと一工夫を加味してチンすりゃ美味しいよ~ん、となるのだろうけど、サバ缶はオープンしたら温めも不要、そのまま食べる、を規律化させて早や50年越えのシンプル原理主義で生きてる身の上、ヤマザキのパンも岡山キムラヤのパンなどなどいずれもご同様、

「既成品は既成品のままに」

 無加工イートが基礎の基本なのでありましたから、まっ、これでいい~と。

 この原理主義をかつてお友達のM君がカラカラ笑ったけど、な~に、

「これぞ王様の道なり」

 ケラケラ笑い返して既に久しい。

 ま~、もっとも、裸の王様ってな感じもないワケでもないけど~~ン、

「 赤裸でもキングはキング」

 胸に手をあて意固地を擁護す今日この頃。

中村兵衛 ~明治の作家~

 S新聞社のS女史から連絡。

 会わせたい人ありとのことで早速にお膳立て。某日午後、喫茶ダンケにて会合。

 お会いしたのは、同社の社史編纂にたずさわるK氏。おしゃべりし情報交換したのは、明治~大正時代の1人の作家のこと。

 

 中村兵衛、という。

 国会図書館にはこの人の本が29冊もある。

 明治末の作家としては異例に多い。なにしろ書き幅が広い。

 

  • 『魔の池 : 秘密小説』 1907(明治40
  • 『探奇小説:志士の恋』1908(明治41)
  • 『蛇屋敷 : 怪異小説 
  • 『左甚五郎 : 名人奇談 
  • 『侠客浦賀の山三』1909(明治42
  • 『血染の手巾 
  • 『児島長年 : 勤王志士』
  • 『お俊伝兵衛;実録講談』1910(明治43
  • 『女侠水月尼』
  • 『怪傑振袖太郎』
  • 『敵国の妻 : 事実小説 
  • 『狸心中 : 事実小説』 1912(明治45/大正元年
  • 『妻の罪 : 家庭小説 
  • 『史蹟甚九郎稲荷』1914(大正3
  • 『父なき子.
  • 『二人の影』1917(大正6
  • 『人格と趣味 : 修養道話 1924(大正13
  • 『成功は修養より : 修養道話』 

 

 すべてを記載しないけど、ざっとこんな具合。

 講談もの、探偵小説、怪奇小説、メロドラマ、伝記もの、ノゥハウ本……、なんでもござれな勢い。

 で、問題なのは上記リストの大正3年刊の『史蹟甚九郎稲荷』という本だ。

 これは大阪の樋口隆文館から3部作で発売された、ちょっとファンタジーがらみな時代劇なのだけど、タイトルが示す通り、岡山は上之町に明治時代に出来た甚九郎稲荷の由緒話なんだ。

 講談という枠組みでいえば、この本は声を出して読み上げるのがベストだ。

 

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 明治38年の暮れに亜公園の天満宮と合祀したことでヤヤ大きくなったとはいえ、全国的には無名な小さな神社の物語が、しかし、なんで、大阪の出版社から出たのか?

 なぜに、史跡とアタマにもってきて、それを公然たる歴史のように記したか?

 

 数年前、その謎を半分ほど解いた状態で岡山シティ・ミュージアムにて講演し、この小説と甚九郎稲荷の関係をおしゃべりしたけど、半知半解な解けない謎は謎のままに残って、それが気がかりというか、現在進めてる亜公園に関してのテキスト化にも甚大な影響があって、この部分がゆえにお筆が進まず弱ってたところなのだった。

 なんといっても……、中村兵衛という作家の素性がさっぱり判らないんだ。

『明治大正・文学美術人名辞典』という本が大正15年頃に出ていて、お花の先生までも含み入れてその生年没年など、ドエライ網羅力ある文字通りな辞典なんだけど、なんとその本に中村兵衛の名がないのだ。

「なんでじゃ?!

 訝しむものの、手がかりがなく、途方にくれていたのだった。

 

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 さて、一方のK氏は社史の編纂をやってるから当然に明治の時代にも降りていく。

 S新聞社(何もSと書かずともいいけど)は、明治12年に起業。当時は「山陽新報」といって、けっこう主張が明白な新聞だったから、国やら県に睨まれて、発行停止とか編集者が数週間の禁固刑をくらうとか、なかなかラジカルで元気な新聞社だった。

 で、K氏は当時の数多な関係者の名から、中村兵衛の名を見出して、

「おやっ?」

 となったワケだ。

 S女史が以前にボクのことを書いた記事を思い出し、それでS女史経由で会合となった次第で、これはブラボ~、めっちゃ有り難い。

 

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        『史跡甚九郎稲荷』。見事な挿絵は折り畳まれて入ってる。

  

 わずか150年ほど前の人物が、それも30冊前後の本を出している、それなりに名が通っていたであろう作家の生年没年が判らないという、この一事には、なにやら人の生涯の虚しさみたいなものも感じないワケでもないにしろ、ともあれ、会合できてホント良かったんで、ここで紹介する次第。

 

 結論を先に云うと、やはり……、判らない部分が幾重とあるのだ。

 K氏の知る範囲、ボクの知る範囲、両方を付け合わせ、かき混ぜてみても、輪郭のない未知が横たわっているのだった。

 でも、けれど、新たな知見を多数得ることが出来て、これはビック、立ち上が~れビッグエックス~な驚きもまた味わえるのだった。

 

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      挿絵の一部。なんとエンボス加工されておりキツネの毛並みが手にとれる。

 

 K氏に教わるところによれば、中村兵衛は一時期、この岡山の新聞社に勤め、小説を担当している。

 それも「山陽新報」ではなく、同時期の岡山にあったライバル紙「中国民報」という新聞社でだ。こちらもラジカルな新聞で明治33年には主筆田岡嶺雲が官吏侮辱罪で投獄されたりもしてる。

(昭和11年に両社は合併。しばらく「合同新聞社」の名で続け、戦後の昭和23年に山陽新聞社に改名)

 小説『史蹟甚九郎稲荷』は講談ものというカタチで「中国民報」に連載された後で大阪の出版社から刊行。3部作というか、3冊に分けて販売された。

 この時点で中村兵衛は在岡山ではないようだが、ボクはかねてより細謹舎(市内表町にあった出版社ケン書店)を創った北村長太郎が、この小説執筆の仕掛人ではないか? 亜公園が閉園した後、地域(上之町・天神山界隈)の集客力アップを担う場所として甚九郎稲荷を大いに活用という、地域興しとその創生のキーを握る人物とみており、それでもって甚九郎稲荷を語ってみようと企てていたから、この新事実の提示は、

「おっ!」

 あらたな1章を編む好材料となった次第なのだった。いわば、お料理のための良い具材が入ってきたみたいな感じ。

 なので今、ちょっと興奮させられている次第。こういう昂ぶりは、いいね。

–––––––––ということで、作家・中村兵衛と甚九郎稲荷の関連話はまた別機会にお伝え申し上げ候ぅなれど、ちょいと前進した喜びをば今回は、おすそわけ。

 

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  会合後、表町でKちゃん・Eっちゃん、かしましシスタ~ズとバッタリ鉢合わせ。

 移動し、禁酒会館でお茶。ぁ〜しまったなぁ、K氏はかつてS紙上で同館のことを書いた人だった……、誘えば良かったなぁとアトで後悔したのをここで公開。

 Kちゃんから面白いカタチのオチャケのおつまみドッサリ頂戴でニッコリのボクちゃんは感謝かんげき柿の種。そ〜、これはオカキやらのセット。この先しばし、我が部屋からは夜毎、カリカリポリポリ、歯ごたえ良さげな音が続くだろう。