明日は中銀前

 

  年輪を重ねに重ね、60代後半になると、アレコレ衰えが著しい。

 バッコバクパクと大食らいグルマンだったはずなのに、今や一膳のご飯ですら時に食べきれない。

 筋肉の萎え速度も早い。

 近年は自転車にもほとんど乗らないから、余計に萎え萎えが早い。「萎え」は英語じゃ「wither」だけど、むしろ「Wizard」に逢い、老いの魔法をかけられた感じ。

 

 数日前の雨中、中国銀行本店広場でのイベント『中銀前ジャズナイト』の準備の1つとして、近隣の町内会長さんとか宇野バス本社さんとかとか、複数の施設や個人さん宅に、岡山市の担当さんと一緒に、お願いをかねて挨拶廻りしたけど……、歩き廻ったとはいえ総距離は2千mほどとたいしたコトはないのに、なぁ~んと終えた後に、足が攣った。

 コロナ禍で1回のみ中断したものの、20年近くこの挨拶廻りをやって来たけど、ふいの、足づり眉間しわよせイタタのタ~に、老いの存在をくっきり意識させられた。

 少々の運動じゃ~、身体の衰えを補えないんだろね。

 

 なにより顕著というか変なのは、朝起きると、首が痛いのだ。

 枕との相性が悪いとか寝相が悪いとか、アレコレ考えられ、youtube とかで対処方法を学んで、夜具と枕の狭間にタオルを丸めて宛てがうとか、数年前には味わいもしなかったヘンテコリンに直面して、困惑がらみの衰えを意識するんだった。

 赤ん坊は首がすわってないワケだけど、何のこたぁ~ない、この年齢になると、身体は赤ん坊の方向へ退行するんだな。

 とかいって、がんばって運動しよう、鍛えよう……、という気には直ぐにはならないワケで。

 でも、一方でこっそりamazonなんぞで室内用フィットネスバイクを眺め、

「あんがい安いじゃん」

 ポチっと購入ボタンを押したりはしないけど、そういうのも視野に入れてる自分をハッケンして、

「ぁあ、ナンギなもんじゃね」

 長嘆息するんだった。

 

 

 さぁさぁ、そのイベントは、明日だわいね。

 本番は夕刻だけど、裏方は早朝より会場で準備作業有り。

 1日前の本日は、鋭気と英気を養うべく、ここまで記して、はいオシマイ。『中銀前ジャズナイト』にお越しくださるようなら、お気軽にお声をおかけくださいね。

 詳細はコチラ

 

チョイっと修復

 

 コロナ以前、岡山シティミュージアムの鉄道関連イベントや自身の講演などで展示した模型。

 ほとんどの車輌はまだミュージアムに保管されているけど、数輛は手元にある。その内の1輛をば修復。

 破損しているワケでなく、製作時に手抜きしていた部分をば、レストア。

 ペーパー・モデルゆえ、ノリとハサミだけで概ねの作業が進む。

 

 戦中戦後(1945年前後)岡山市内を駆けていた岡山電気軌道の100型路面電車の、この模型塗装は、まったくヨロシクない。なのでこれは1度だけ展示に使ったきり。

 ほぼ、真っ黒にペイントすべきだったと、今は概ね判っているんだけど、製作時にはそのカラーリングがいまひとつ、了解しきれていなかった。

 製作時に参考にした当時の資料に、

「空襲に備えて路面電車はすべて、目立たぬよう、くすんだ色に塗り替えた」

 という記述があって、カモフラージュ的迷彩みたいな色が念頭に固着してしまった。それと、戦後の泥のような荒廃にも気をつかい過ぎ、結果として、ダメな彩色車輌になっちまった。

 

 ペーパー・モデルは、作図+カラー彩色をパソコン上で行い、それをプリントし、切ったり貼ったりで立体物にする流れゆえ、ボディ・カラーはもはや変更できない。

 これがヒリヒリする嫌ぁ~な気分を沸かせるけど、しかたない。というよりも、失敗作ゆえに逆に愛着と執着が入り交じった気分もあって……、そうでなくば修復したいとは思いもしないでしょう。

 

 本模型を作ってから、ちょっと後に入手した資料写真があって、それは米軍が岡山を空襲する1ヶ月ほど前、事前に岡山上空を偵察飛行して撮影したもの。〔1945年5月13日撮影)

 路面電車がくっきり映っている。この当時、この路線を駆けていた車種は判っている。100型という二軸車輌。

 上写真の通り、おそらく屋根まで真っ黒にペイントしていたのだろう……。けど、どのように色を変えようが、ダメね。空から地表を眺めりゃ、電車だと即行で判っちまう。

 逆に、真っ黒にしたがゆえ、夜中はいざ知らず、白昼だと目立ってしまうワケだ。

窓ガラスは近所のスーパーで買ったお弁当のフタ部分を流用。工作用プラ板より薄くって適度な透明さなので重宝する。工作用のそれはクリア〜過ぎて逆に使えない。昔のガラスは均一性に欠けて景色がちょっと歪んで見えるんで、そこを考慮してのお弁当のフタ……

 

 一方で、この100型は戦後に改装され、カラフルに塗装され直し、なが~く使い続けられているのも承知している。

 戦後は驚くほどに、色彩が戻るんだ。ヒトの衣装も路面電車も、皆な一様、色が復活するんだ。

 戦争さなかは華美を避けざるを得ない空気が圧倒し、黒や紺のみの着物で過ごしていたのが、敗戦と共に、タンスに横たえていた赤や青や黄……、自慢の着物を引っ張りだして袖を通し、町にでた。路面電車にも明るい色がつけられた。空気の組成が激変したわけだ。

 

 戦後に塗装が変わった番町線の100型電車。マックロからホワイトと淡い空色のツートンカラーに大変身。戦時でなく戦後となった空気感が見事に反映している……

 

 昭和30年代半ば頃からはカラー撮影も出始める。1965年(昭和40年)頃のカラー撮影の普及率は10%程度ながら、5年後の1970年にはそれが40%にまで上昇したのは、同年の大阪万国博覧会の影響だ。

  なんせ6500万人近くのヒトが吹田の会場に出向き、一生の思い出にと、一家に一台のカメラに高額なカラー・フィルムを入れて持ち込んでるんだもの。

 我が宅もそうで、ボクが映ったカラー写真の最初は、万博会場内でのものだ。

 模型製作の資料としてカラー写真は申し分ない情報があって、色彩に関してはほぼ、変にアタマをひねらずとも、忠実に再現できるんだから、ありがたい。

 

 今はもう、知ってる人の方が少なくなったけど、岡山には「番町線」という路線があった。

 岡山駅から城下に向かい、そこを左折し、就実高校の端っこまで駆けてまた左折、裁判所のある交差点近くまで進んで、そこが終点。(上の米軍が撮った写真を参照されたし・新鶴見橋は番町線廃止で出来たんだよ)

 番町線は、日本のみならず、世界でイチバンに短い鉄路として、鉄道マニアには有名な路線だった。(城下交差点から番町まで900m弱の路線が番町線。岡山駅から城下までは東山線東山線にとって城下交差点は途中の駅でござい)

 

 ボクはマニアでも鉄道オタクでもないけれど、資料を収集したさい、意外にも、昭和40年代頃には、関東方面の高校の修学旅行先には、岡山・広島というコースがあって、その頃に鉄道マニアであった関東圏のごく一部の高校生にとってはヨダレものの、萌え萌えの岡山旅行だった……、らしい。

メインは広島原爆ドームの見学で戦後の平和教育ゆえのコース設定だったんだろう)

 そんな方々が年とって、インターネットの時代になって、若き頃の岡山旅行で撮った写真をネット上に公開してくれている。

 これが、とんでもなく素晴らしい資料になるワケだ。

 地元のニンゲンは、毎日、眼にしている路面電車なんか、誰も撮影しない。だって、あまりに日常のモノだからね。撮る対象にならないんだ。

 で、番町線が廃止されると、県外の方々が撮った写真が、途方もなく価値ある、

1級資料

 として輝くワケじゃね。

 おかしなもんです。

 

 ↑ 昭和43年(1968)に修学旅行で岡山にやってきた方(当時高校生だね)が撮った番町線の100型103号車。左背景は岡山東警察署。現在は岡山県立美術館でございます。

 

 同103号車を再現した模型。赤色マットの上で撮影のこの車輌模型たちはミュージアムに保管されているので、手元にない。

 番町線が廃止された1つの理由には、モータリゼーションの波及で市内への車での乗り入れが希求され、新鶴見という新たな橋の建造に線路がジャマ……、という次第で、世界でイチバンに短い番町線は姿を消すコト(昭和43年)になったけど、惜しい気がしないではない。

 番町線はその短さとあいまい、黒字の路線でもなかったけど、亜公園が閉園して7

年後、現在のオリエント美術館の場所に本社と車庫を設け、明治45年から運営された鉄路(番町線という名は大正10年から)。空襲にも耐えて生き残り、存続させようと、当時の岡山電気軌道社は奮闘し、経費削減として車掌の乗車を廃止、日本初のワンマンカーとしたのも、この番町線だ。

 全国の路面電車の会社は番町線のその成果をみて、右へならえで追従。車掌という職業がなくなる発火点ともなっている。

 だから、いささか不思議な感もある。Aを成し遂げるにはBが不要なものとなるという、天秤のバランスが崩れていくのをマノアタリにしたみたいな妙な感触。結局はその番町線も車社会の押し寄せに負けてしまったワケで、いまはこうして模型でもって当時をまさぐってみるコトしか出来ない。

 修復の模型は、彩色の基本部分で間違っていたけれど、模型工作と史実の狭間の深みをこれで勉強させられたワケで、なのでま〜、戒めというか、チョイっと大事にはしている次第。

 

台風直下と国葬

 

 数日前、彼岸参りにやって来た弟の子供の1人から、

「ぉいちゃんの一番好きな映画、なぁ~に」

 と問われて、くだらない質問にゲンナリしつつ、同時に、即答できない難問だなぁ~、とも思わざるを得ないのだった。

 だって、そうでしょ。観た映画は数多ヤマのようにあるんだし、好んだ映画もまたヤマのようにあるワケで、そのヤマの中より1本をナンバー・ワンと断言するのは……、とても難しいんだから。

 

 絵画や音楽にも、それはいえる。

 頑張ってベスト・テンくらいなっら、云えそうな気もするけど、それとてあくまで頑張ったりオマケしたり四捨五入したりという操作が必要で……、けっこう難しい。

 あんまり真剣に考えたこともないから、余計、ハードですがな。

 

 サルバドール・ダリは毎年、9項目ほどの設問をもうけ、自分、ダヴィンチ、ラファエロフェルメールやマネなどなど、名だたる画家に点数づけして、それを公表していた。

 傲慢な彼が、ほぼ常にダヴィンチとラファエロを自分よりはるか上位において点をつけているのが、面白かった。フェルメールはダントツで高得点。同時代のピカソは自分より僅かに下。モンドリアンにいたってはほぼ零点。

 9つの項目の点数は毎年変動し、ダリの1年での気分の在処がそこに反映していて、興味深くもあった。根っこは真面目なダリさん……、という印象が浮く。

 

 

 映画もそうだね。観返すたび、評価は変動する。だから、「一番好きな映画」というのは最悪の愚問だと思うのだけど、ズバリ即答できない憂鬱もまた……、チビ~ッとは味わってしまうのだった。

 なので、

「去年観た映画でイチバンは?」

 と期間を限定し、そのうえで項目があれば、答えやすいとは思うんだ。今度、甥っこにあったら、そう促そう。

 

 ダリの「採点表」の項目は下記の通り。

 技術・霊感・色彩・主題・天才度・構成・独創性・神秘率・真実味

 映画にも応用できそうだが、ま~、天才度とか神秘率は変更だな。

 霊感は絶妙。某政党をむしばんでいる統一なんたらの霊感とはムロン、ちがいます。

 ダリゆえに超自然的なものとしての第六感的なものなのだろう。でもインスピレーションととれば、そのままでもイイような。

 

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  女王の国葬をライブ映像で見つつ、哀悼する。寺院から宮殿、そしてウェリントン・アーチに向けての2.5Kmにおよぶ、ながいながい葬送の行進と行進曲……。

 チャールズ新国王も妹のアン王女もその2.5Kmを歩き続けていた。

 国葬というカタチの意味と国葬に価いする人物の大きさを今一度かみしめ、黙礼する。

 

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 台風は日本に大量の水分を運んでくれて山々を潤し、山はそれを蓄えとして保水して川や樹木を養いと、恩恵高き自然現象じゃ~あるけど、もたらす厄介もまた大きくって、一長あれど一短もあり……。

 

 

 これを書いている19日の23時現在、雨なく風もなく、最強クラスというから身構えていただけに、ヤヤ拍子抜け。朝にはケロっと収まってるんだろう、たぶん。

 こういう晩は、なんぞ映画をみつくろって観て過ごそうと思ったけど、いやいや、

神田伯山の講談youtubeで眺めるのもイイ。

 とにもかくにも圧倒され翻弄に近い驚愕を味わえる大型タイフ~ンが伯山。

 


 

 ここで紹介する「東玉と伯圓」は、六代目伯山となった彼自身もハナシの中に登場する驚きをからめた超絶話芸。騙されたと思って5分聴いてみんちゃい……、5分どころか最後まで一気がオチ。とんでもない弩級の台風が彼。

 ※ 字幕をONにして観るといっそう凄みと迫力が増加しますぞ

 

彼岸チョイ前

 

 さぁ、この土曜には、また坊さんがやってきて仏前に座る。

 お彼岸だ。秋分の日を真ん中においてその前後の3日、合計7日間が“正しい期日”らしいから今月20日~26日が該当するけど、お寺さんの檀家廻りの都合で、数日早い17日の土曜が指定されての前倒し。

 ま~、べつだん、早過ぎぃ~、と文句をいうホドのもんでなし。

 なので仏間を掃除し、ちょびっと準備しなきゃ~いけない。熨斗袋、まだあったっけ? 茶菓子は明日買いに行こうか……。

 せわしくはないけど、わずかにおちつかない。

 ちなみに、仏教系の本を読むと、お彼岸という行事は他国の仏教にはまったくないコトが判って、

「へ~っ。日本だけかよ~」

 ややあきれる。

 というコトは、何を意味してるんだぁ? お寺さん維持のための方便かいなぁ? などとヒッソリ思ったりもするんだけど、来てくれる坊さんに、そのむね、告げるワケでなし。 

 

 だけども、昨年9月のお彼岸参りではマイ・マザ~が健在だったことを思うと、彼岸と此岸、その二極の距離と、その幅の意味を、意識させられもするのだった。

 

 で、彼岸とは関係もないけど……、3枚組Blu-rayGet Back』の1枚めを観て、懐かしいはずのものが何故にこれほどに鮮烈で、かつ緊張するものとして眼前スクリーンに映ってるのか……、奇妙をおぼえている。

 しかも、全8時間に及ぶワケゆえ、一挙3本見て通過させてしまうのが、あまりに惜しいと……、ヘンテコな貧乏性めいた気分も味わいつつの、ゲット・バック。

 ジョージ・ハリスンがジョン以上にズバズバ意見する場面、あるいはギター奏者として自分はクラプトンのようにはいかない……、吐露する場面などなどなど、おどろき連打の4ビート。

 

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 その昔70年代、大学に、家がお寺さんという同窓生がいて、そのコいわく、ときどき真夜中、家の廻りをお墓全体がグルグル廻る……、んだそうで、高2の時に、またぞろその感覚に囚われ、窓を開けたらホントに廻っていると見えたんで、翌日の夕飯時、住職である父親にそれを話したら、

「ぁあ、ときどき、廻るよなぁ」

 平然と返されて、

「わたし、笑っちゃったわよ~」

 これまた屈託なく、そうボクに教えてくれて、こちらの方が面喰らったコトがある。

 

 彼女は今はどうしてるだろう?

 跡取り娘だったゆえ、婿養子をもらって、そのヒトが坊さんとして住職になってるのかな?

 で、あいかわらす、グルグルと墓は廻ってるんだろか?

 フッ、と懐かしく思いだすと同時に、Let it Bleedのジャケットが頭に浮かんだ。

 

 

 いいねぇ、なんど聴いてもゾクゾクするGimme Shelterの出だし。45回転のシングルでなくLPの33回転に実に似合っていた、あの出だし。

 ストリーミングじゃ、ヴィジュアルとして音が廻ってる感覚って~のは、味わえんわなぁ。CDも回転するけど、33回転のグルグルとは違うよねぇ。

 レコード盤へのノスタルジ~を云うのではなくって……、曲を聴くその感覚の違いを、いまだうまく言葉で表現できないのがもどっかしいけど。

 

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 4日後、エリザベス女王2世の国葬

 ボクが生まれる前より彼女は、英国とその連邦14カ国の君主として、世界を見つめ、誰よりも多くの諸々を見聞きしたはず。もてなされるままに最高で最良の諸々もまたたくさん、味わったはず。

 一方で、多くの権限を持ち、もっとも政治に近い所にありつつ、それに口出し出来ない立場の悶々、かつ、家族のアレコレをも抱えて、おそらく休まるところなき日々だったろうとも、思う。

 それら激動連打の中で、確固として揺るがない英国連邦の定点であろうと奮闘されもしたろう。

 その奮闘努力の痕跡を、彼女はあの微笑みでもって、見事、覆い包んでた。

 人類史の中で、たぶん、もっとも、そのスマイル顔が知られた女性でもあったろう。

 

 1965年10月に女王よりBeatlesに勲章(第5級勲位)がおくられたさい、ロンドンで販売された記念メダル。長髪の20代の青年4人に勲章授与というコトで同列の勲章をもらってた英国退役軍人さんたちが猛然と反撥というようなコトもありましたなぁ

 

 女王の国葬でもって、感触として、20世紀が真に終わるような感が、ある。

 すでに21世紀も20年ほど経過しているけど、さっぱり21世紀の味覚なく、彼女が去ったことを軸足に20世紀のエンドを意識すると、手から離れた風船みたいに、どこに向かっているのか判らんチ~ンの21世紀は、実にまったく頼りなくって危うゲ~。

 ぁあ、いやいや違うっ。20世紀とて危うかったんだけど、英国クィーンは渋顔見せず、眉間に皺よせず、モナリザめく笑み続けていたというトコロがよく、その笑みに鬱屈を緩和させられた方々もきっと多くあったろうと思うと、英国という一領域にとどまらず、存在そのものが希有な、文字通りの大粒の玉石だった。

 おつかれさまでした、と、20世紀と彼女を哀悼する。

 で同時に、20世紀が産んだBeatlesやRolling Stones、CreamやHollies、Pink Floyd、Bowieたち数多が自分の中で継続してガンゴン鳴ってるのを、ありがたがってもいる。

岡山の 太陽の塔

 

 過日、コマンドのNaoさんが、

太陽の塔 が、岡山にもありますぞ……

 と、雑誌記事のカラーコピーを手紙で送ってくれた。

 電子メールでなく手紙というのがイイのだ。情報の味わいと重みが紙の中からピースサインをおくってくれる。

 

 場所を調べると、真庭市落合と判った。

 しかもですねぇ、まったく奇遇ながら、いつか確認に出かけたいと思ってたボクにとっては謎の神社の近くじゃ~ありませんか。

 という次第で、台風一過っぽいカンカン照りとなった日、2つの目的地めがけ、落合方面に駆けたのだった。

 

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 まずは神社。

 箸立天満宮はしだててんまんぐう - 旧名・箸立天神)。

 思った以上に規模ささやか。駐車場もない。でも清掃が行き届き、日々、しっかり管理されている気配は濃厚。

 

 

 境内では、オリジナルの絵馬を販売している。お金は空き缶に入れ、絵馬1つを頂戴するという無人販売

 絵馬は直ぐに使われる。ここは勉学の神さん……、菅原道真を祀ってるんだ。

 お願いを書いた絵馬が境内の一角にけっこうな数、ぶら下がってた。

「○○大学に入れますように」

 とか、

「○○高校の○○科に弟が入りますよう・姉より」

 とかとか。

 

 だいぶんと前だけど、亜公園と菅原道真の関係についてを探索しているさなか、県内の道真情報の1つとして、この神社の存在に気づき、いささか気になっていた。

 神社庁が公開している由来書きを要約すると、

 

 道真が左遷の途中(901)に津山を経由して落合に立ち寄り、村人が敬慕して創建した。

 天安2年(858)、通御(つうぎょ-普通は天皇ないし皇太后がお通りするという意味だけど、ここでは貴人としての道真を指すのか?)のさい、そこで食事をされたが、使った箸が不思議にも根を降ろし、成木し、それをご神木とする。

 という2つだ。

 探訪するに、神社庁が記載した由来書きの元になったらしき石碑もある。

 

           

 

 しかし、かなり、変でしょ。

 左遷時、京都からわざわざ山間の地を巡って津山へ向かい、そっから落合に南下するというような遠回りは、いくら大昔であったとはいえ、わざわざ何で? といぶかしむ。

 なるほど、津山に住まっている人物たれば、落合に出て、そこから吉井川に沿って西大寺方面に出て、舟で備後国(広島)方面に向かうって~のはありそうだけど、京都からわざわざ津山方向に向かうよりは、大坂(当時はそんな名はないけど)に出て、平安時代以前から港として存在する難波津(なにわのつ)で舟を調達するのが、たぶん、当時の常套だったはず……。

 

 にしても、天安2年に道真が何歳かといえば、わずか13歳なんだから、これもねぇ……。

 せっかくの由来にケチつけるのは申し訳ないですがぁ、無理があるなぁ、と感想し、それで謎だったワケなんだ。

 そもそも、山間の地に、どうして道真伝承があるのか?

 

    

 この神社の、書くに価いする特徴としては、拝殿の後方に本殿がないことだろね。そこにあるのは、樹齢千年クラスのイブキの大木。

 この木が本殿そのものなのだ。神さんが宿る場所。

 見上げるまでもなく、なるほど霊験あらかた……、おそらくは、この立派な巨木に神を感じた昔々の当地の方々が、その気分に上乗せで、道真を借用したのだろう。

 そう思い決めて半ば納得しつつ境内を一周すると、やや真新しい、真庭市教育委員会の解説看板がある。大木の由来が書かれてる。

 

 

 伝説によると天安2年(858)春、美作国菅原是善とその子道真が高田庄(現勝山町)へ向かう途中でこの地で休憩し、昼食に用いた箸を立てたのが活着して本樹になったといわれる。

 

 この一文のおかげで、謎の一部がとけた。

 道真の父親である是善(これよし)が、京都より美作権守(みまさかごんのもり)として、この岡山県真庭界隈に派遣された地方長官職にあったことはマチガイなく、その子供の道真は天安2年当時13歳、ほぼ当然ながら、その父親のそばで育っていたろうから、道真と落合方面は、つながっていたのだった。

 

 

 ネット情報だけにとどまらず、やはり、現地に出向いて見聞するのが、正解だねぇ。この神社の場合、石碑に残した由来を、新たな看板で「内容修正」しているワケだ。

 こたびの探訪後にもうチョット調べてみたら、勝田美作市を中心に菅原是善を祖とする氏族がいらっしゃるのも知り、あらあらあら……、おどろいた。

 道真失脚でその氏族は京都から追放されるなど、ひどく冷遇されたけど、のち道真が怨霊化すると、朝廷は祟りを怖れ、神宮寺(現在の北野天満宮を新造、道真を神格化すると同時に菅原一族を復権させる。

 道真の曾孫の1人は落合方面に定住し、やがて美作管氏という氏族になり、美作方面では有力な武家になっている。思わぬカタチで菅原道真の血脈がこの地で継がれているワケだ。

 箸立神社の由来を「」だなぁと思って探訪したら、道真との「」が横たわっているのをマノアタリにさせられた次第。

 箸立天満宮は、明暗悲喜こもごもな菅原家の、その長大で大河物語めいた史実の中の1つの光点として今に残っているという感を、あらたに受けた。

 

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 さぁさぁ。もう1つ。

 岡山の、太陽の塔

 ありました。アリマシタ。

 箸立神社から、北上するコト、車で数分。

 県道313号線沿いの落合鈑金塗装(株)さんのお客様用敷地の端っこに、これ、ニョッキと立っておりました。

 

 

 さすが鈑金屋さん。驚くなかれ、オール金属。

 たたくと、カ~ンカン、乾いた音たてる。

 近くによってしまうと、リベット打ちとかの製作状況が見えてしまうし、風雨にさらされての傷みも見えるけど、よく出来てます。

 

 

 ホンモノのカタチの掌握がすこぶる良くって、しかも、金属ゆえでの滑稽味まで“創作”され、

「どうです。これ見て、笑顔になってくれますかぁ?」

 って~な、この鈑金塗装会社さんの、茶目っ気あるユトリが感じられるようで、良かアンバイでした。

 蝶番が付いていて、顔は左右に開くようになっております。このアイデアもステキです。

 黄金の顔部分がバネで結ばれていて、ビックリ箱っぽくもあり、これも微笑ましい。というか、このアイデアがいい。

 それが青空に映え、「落合の調和と進歩」が展望されているワケはないけど、ともあれ、アッパレ天晴れです。

 

 背面の黒い顔もしっかり作られ、これまた金属。ホンモノをしっかり掌握していなきゃ~、これ、作れませんわね。思いつきでチャチャっとは作れませんぞ、まして金属だもん。仕事の傍ら、複数の同社の方々が「工作の愉悦」を甘受しつつ、日数かけたに……、違いない。

 いや、違う。

 仕事は後回しにして、これを図面化し、金属を加工し、ペイントして、数週ほど、大いに愉しんだに違いない。

 モノ作りの「Hobby的醍醐味」の片鱗が窺えようというもんだ。

  

 塔のすぐ足元では、稲穂がたわわに実ってた。なので、よりいっそう、めぐみとしての太陽を意識させられた。 

 

 

醤油を買いに・たつの

 

 たつの市に出向く。

 はるか大昔、奈良時代以前の昔々のその昔、同地には出雲方面からの移住者が多く住まいはじめ、仲間が没すると出雲出身者たち一同が墳墓建立のために野にズラリと並び立ったという故事から、立野という地名が生じ、やがて龍野になったという。

 その龍野市がいつにヒラガナ表記の「たつの市」になったのか知らないし、なんで山陽本線の駅名が竜野なのか、ややこしいなぁと思いつつも、訪ねるのは初めて。

 

 たつのといえば、揖保乃糸と醤油。うすくち醤油発祥の地。

 さらに云えば、インスタントラーメンのイトメンと佃煮のアラが、たつの市の産。

 かねてより出向きたい場所だったけど、な~かなか出向けず、ようやくこたび……、お醤油求めて、仲間との小旅行とあいなった。

 

 念頭にあったのは、出雲に住まった小泉八雲……

 7~8年ほど前、集中的に彼の本を読んだ時期があって、意外なコトに気づいてた。

 あれほど良き日本の姿を描いたヒトが、日本食についての記述のみ、ゲキ的に少ないのだった。

 日本に来る前の彼は、ニューオーリンズの家庭料理をまとめた「クレオール料理」という本を出している。

        

    10数年前に日本でも翻訳版が出てる。ニューオリンズの地域特性ある料理のレシピ集

 

 それっくらい食に通じたヒトが何故に和食に触れなかったのか? 

 耳なし芳一の耳の大きさよりも、記述の小ささに、

「なんでや~?」

 と、思ってた。

                 

 そのごく僅かな記述として、紀行文「美保関にて」(角川文庫-『日本の面影II』がある。

 彼は、宿泊した美保関の宿の女中に、まことにオズオズと、

はありませんか?」

 と問い、その返事として、

「アヒルの卵がございます」

 と返答され、その驚きと鮮烈を書いている。

 けども、どう食べたかは、いっさい書いていない。

 この文から判るのは、彼がすくなくとも生卵を注文し、それを食べようとしていたであろうコトでしょう……。

 卵かけご飯なのか、生卵そのものを味わいたかったのかも判らないけど、それを、どう味つける? 

 醤油、でしょう。ほかに考えられない。

 

 ラフカディオ・ハーンあらため小泉八雲が、宿泊した旅館で生卵にお醤油をかけ、クルクルとお箸でかき混ぜて啜るスガタを想像すると、調味料らしきがまだまだ少ない明治日本のカタチも見えてこようというもんだ。

 ただ、明治日本の旅館の食卓に、醤油瓶が常時置いてあるという次第じゃ~ない

 今はどこの食堂でも小瓶がテーブルにあるのが“常体”だけど、ハーンが出雲で執筆していた明治半ばは、実は、醤油は高価で贅沢品の部類に入ってた。

 なので通常は、味噌由来のたまり(醤油同様に黒く、けど塩分がやたら高い)が調味料の王様だ……。

 はたして当時、美保関の旅館に醤油はあったろうか?

 

 加えて云えば、明治の時代、旅館は朝夕にゴハンを炊いていたか、どうか?

 電気もなくパナソニックのジャーもなく。保温できないんだから、当時、炊きたて以外は常に冷や飯なのだ。冷や飯に卵は……、かけて美味しいものじゃない。

 となれば、八雲が卵を求めたのは朝食時だったろう。小鉢に卵を溶いて、直に啜りたかったのじゃ……、なかろうか。

 

 こういう些末なコトを歴史の本は教えてくれない。

 江戸時代半ば、その江戸では醤油はかなり消費されていた次第ながら、これは江戸という巨大都市での特異現象。全国的に普及していたワケじゃ~ない。

 初物を好んだり美味珍味を愛好し、贅沢を贅沢と思っていない流行通信の最前線・江戸ゆえの醤油消費であって、地方にあっては、江戸での消費を担って醤油の素材となる大豆の生産は増えているものの、加工品としての醤油は庶民生活からはアンガイと遠い存在だった。

 概ね誰もが知るけど、誰もが使っていたワケじゃ〜ない。

 

 以上のコトがず~~っとアタマにあって、それで醤油といえば小泉八雲のスガタと生卵がセットになって浮かぶんだった。

 味噌を基調にした日本の味わいに、おそらくハーンは好感を持っていないよう思うのだけど、醤油テーストに関しては、彼の舌も拍手したのじゃなかろうか? 彼の舌の許容範囲の味わいとして……、生卵に醤油をかけて食べるのはオッケ~だったのじゃなかろうか。

 でなくば、旅館のお女中さんに「卵はありませんか?」とは、問わないでしょう。

 

 龍野と出雲は古来より往来盛んで、ゆえにその道は「出雲街道」と呼ばれて縁深い。

 龍野発の「うすくち醤油」(寛文6年(1666年)- 徳川家綱の時代に龍野で誕生)は、やがて京都へも出荷され、上品で淡麗な色合いと裏腹に塩分のあるシャキっとした味わいは、公家の眼と舌を悦ばせた。

 出雲方面にも、おそらくは荷が運ばれたろう、思う。まずは出雲大社の献上品として運ばれ、やがて徐々に浸透……。

 なワケで、明治期、美保関の旅館に、薄口であれ濃口であれ、醤油がなかったとは云いきれないし、あったとも断言できないにしろ、たつの方面と縁深いことは確か。その確かと不明のハザカイで小泉八雲が食事しているスガタがユラユラ浮かぶ。

 

 ともあれ、たつの市、初探訪。

 人影が尋常でないほど、少なめ。静かな町並み。車も人もスガタなし。

 

 ヒガシマル醤油が運営する「うすくち醤油資料館」などなど見学し、龍野城のごく近くにある末廣醤油を訪ねるんだった。 上:うすくち醤油資料館の外観。

 

 末廣醤油の外観。雨降りなので暖簾を外している。

 ヒガシマル醤油なら岡山市のどこのスーパーにもあるけど、規模ささやかな同店のは流通していない。

 ま~、あるトコロにはあるのかも知れないがぁ、いいのだ、わざわざに買いに出向いたという点を自分でヨイショしなくっちゃ~いけない。

 

 

 末廣醤油の創業は明治12年というから、今に至る143年間、うすくち醤油を造り続けているワケだ。小泉八雲がそれを使ったという証しなんぞは皆無だけど、何だかカンだか、たつの探訪で出雲の八雲がチビッと近寄って来たような……、勝手な気がして嬉しくもあった。上写真は当方が買った同社の製品。中央は伊勢丹のみに出しているポン酢。

 

 なにより嬉しくあったのは、対応してくれた若い職人さんの、そのコトバの端々からこぼれる醤油への深い愛情

 訪ねたさいは雨降りで湿気が高かったけど、おしゃべりしつつ、ずいぶん晴ればれさせられ、気持ちがよかった。めっちゃ、良かった。

 揖保川の水を使ってるのではなく、創業以来、地下水を使っているとのことで、たつの市の地下水は軟水で鉄分少なく、それで赤錆色にならず薄い色の基本が出来たというコトも聴いて、感心したりもさせられた。

 

 と、それにしても、たつのの佇まいは良かったなぁ。

 古い町並みと静かな空気。西の京都と云われるのも頷ける。けども、車で20分ほど駆けちゃうと海があるから、これは京都よりイイじゃ~ないか。

 

                道の駅みつから眺める、たつのの海

 

 西の京都などと、へりくだらなくってイイ。たつのはたつの。

 なによりヘンテコリンに観光地化されていないトコロが良かアンバイ。「うすくち醤油資料館」なんぞは、大きな規模での展示ながら、入館料10円だぞ。

 100円でも1000円でもなく、10円というのが、ま~、運営しているのはヒガシマル醤油という一私企業ではあるけんど~、見せてあげるからゼニ置いてけぇ~ではない、良性な「」を感じてしまった次第。

 ヒガシマル醤油のみをアピールするのじゃなく、たつので醤油を造っている全メーカーへの気遣いと同胞意識が展示の隅々に行き渡っていて、10円というプライスの奥に生息する「醤油愛」の深みに、これまた感服させられるんだった。

              同資料館に展示の江戸時代の大豆圧搾機

 姫路で1日あそんで来たぁ、というのはよく聞くハナシだけど、そのお隣であるたつのを訪ねたというハナシは聞かない。

 わたし自身そうだった。同行の2人もそうだった。でも、こたびの探訪で気分一新。また出向きたい場所だと強く感じた。

 

 さてもう1点。

 イトメンだ。

 高校生の頃より、インスタントラーメンといえば、当方にとってはイトメンのチャンポン麵が最上座にあり、今もかかさずキッチンに常備、2週に1度っくらいは夜食なんぞで、食べている。

 

 で、ひさしく、このイトメンという会社はこの即席麵のみを作っている小さな会社なんだろうと思い決めていたのだったけど、初めて訪ね寄って、ヤヤヤっと、面喰らった。

 大きな規模の工場を設けてらっしゃる。

 その直売所で、チャンポン麵以外にもアレコレ作って販売しているのをマノアタリにして、

「ぁんりゃま~!」

 大きな感嘆符を浮かせるんだった。

 岡山のスーパーでは見ることも見たこともないパッケージのアレコレ……。

 あさりだしラーメンとか、めっちゃ、そそられるじゃ〜ないか。

 たぶん関西方面じゃ、イトメン製品は普通に売ってるのかも知れないけど、岡山では断固見たコトないんだから、思わず買ったよ、自分宛のお土産に。

 しじみラーメンは帰岡した翌日に食べてみたけど。乾燥させたしじみの小粒がケッコ〜入っており、けっこうな滋味。こりゃまた食べたいぞ〜。

(後日、同社の「二八そば」という乾麺は近所のスーパーにあるのを知ったけどね)

 

 という次第で我がイトメンは、我が心のうちで規模がでかくなった。たつの市という町のささやかな規模に反比例して、その良性規模が拡大したのと同じく、

VIVA! TATSUNO !!

 なんか、そんなタイトルがついたロック・アルバム1枚が創れそうな感がムックムクとタツノ~~ってぇ感じ。

 知り合いのミュージシャン達と再訪し、帰岡したら、それぞれミュージシャンが感じたたつののイメージで1曲創って、それを1枚のCDに封印って~のどうだろ、ね。

 なんだかねぇ、たつのの佇まいに音楽がからむといっそう良さげな町になるような感じを、ヒシヒシ受けた。

                 

 ちなみに、イトメンのチャンポン麵パッケージに昔っからついてるマークは、たつの市に住まった童謡作家・三木露風の「赤とんぼ」がモチーフだ。

 ♪夕やけ小やけの 赤とんぼ 負われて見たのは いつの日か♪

 の、赤とんぼ。

 イトメンという会社は地域愛をしっかり持ってる会社なんだねぇ、とこれまた、またまた、感じいった。(創業開始時は伊藤麵という)

 現在のたつの市のキャッチ・キャラクターも赤とんぼだけど、イトメンは50年も前から、しっかり赤とんぼ……。す・ば・ら・し・い。

 三木露風の生家はお城入り口のすぐそばにあって、しばしその佇まいを眺めたけど、うっかり、写真を撮るの忘れたぁ~~のだけど、この「赤とんぼ」という存在が、音楽を意識させられる、たつのイメージの根ッコにある大きなキー、なのかもだ。

 

        龍野城の本丸御殿。雨天ゆえか、誰ぁ〜れもいなかった。

 余談ながら、揖保乃糸も味わった。

 たつのの中心部から揖保川をはさんで車で数分の所に、「揖保乃糸 そうめんの里」があって、廉価で極上のそうめんが食べられる。

 ランチはわずか900円で、下写真のボリューム。そうめんは3束か? 

 すすっても啜っても減らない量ゆえ、ゴハンは残しちゃったわい……。ぁぁ、でも美味しかったなぁ揖保乃糸。もちろんビールは別料金。

 そうめんもビールものどごし爽やか。ええぞエエゾ〜の二重奏にポークカツの重厚がかさんでのシンフォニー。喉も舌もが、大いに悦んだ。


 町の静かさに較べ、「そうめんの里」は繁華でヒト多し。駐車場には県外ナンバーが幾つか。

 食べ終えたのはお昼の1時前頃だったのだけど、たちまちソールドアウトになってたのには、おどろいた。

 そうめんって、皆さんお好きなのね。

 

 

 

 

8月もおわり

 

 あらあら、8月ももう終わり。

 日中はともあれ、気づくと、朝夕やたら涼しい空気になって、これはこれで、

「ちょっと早過ぎやしない?」

 妙な心配に駆られもするんだった。

 

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 諸星大二郎の『西遊妖猿伝』の最新刊が1年ぶりに出たので、ワクワクしながら読む……、のではなく、まずは、その前編、1年前の「西域編/火焔山の章」第3巻をば書棚からおろし、最初っから読み返す。

 ストーリーやらコマ割やら、6割くらいは覚えているけど、4割ほどはやはり忘れてる。

 なので、復習だ。

 これが、ま~、実に、愉しい。本番前の前戯と云っちゃ~何だけどぅ~、読みたい気持ちチョ~ゼツ・ビッグな新刊を横に置いて、我慢しつつの復習……、というのが……、イケてるわけだ。

 1年1冊のペースで進む諸星のこのシリーズは、我が数少ない愉しみコミックス。

 愉しむ時間を多く取りたくもあり、なので復習から始めるんだった。

 

 

 次の5巻は来年か? 読了後の、

「ぁあ、続き読みてぇ~」

 な、イジイジさせられる気分は1年後の楽しみだっ。これもまた諸星・時間と思えば、苦でもなんでもないわいな。

 こたびも、たっぷり味わった、諸星もたらす漫画愉悦。

 

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 過日のサンデー。ルネスホールでの「スチューデントジャズ」。

 馴染みある高砂高校・ジャズバンド部のステージを味わう。

 高校生の若さ……。

 良いねぇ。自分はもう通過してしまった年齢じゃ~あるけど、16~17歳だった頃の自分とステージ上の彼女彼ら達の演奏と振る舞いを眺めると、懐かしい感慨が湯のように沸く……。

 その年齢、ホントは、生意気なホドに良いのだ、ぞ。

 なぁ~んも判っちゃいないけど、判ってるような大きな顔が出来る特権ある年齢が、16~17というもんだ。

 なのでドンドン、ヤンチャであっていいのだし、ヤンチャであるべきなんだ……、と思う。「萎縮」とかいった単語とは無縁であるべき年齢なのだからな、な。

 

 ま~もっとも、上記のごとく教条っぽい云い方が出来ちゃうのが、こちとらの、老いたる証しでもあるんだけど、けどけど、それはそれで、やはり、老境という境いに分け入って、その未知なワールドを“戸惑いつつも愉しんで放っつき歩いてる”という証しでもあって、16~17歳では味わい知れない領域の醍醐味もまた、あるんだな、これが……。

 何のこたぁ~ない、10代とて60代とて、それぞれ特権があら~ね……、というだけのコトなのかもだよ。

 

 ただ……、1年生の時、2年生の時と、コロナ禍ゆえに発表の機会のないまま過ごさざるをえなかった不遇は、とても気の毒だ。

 味わうべきを味わえず、経験できたであろう機会を封じられるままに3年生となっているワケで、ようやくステージ上のヒーロー・ヒロインになれたとはいえ……、コロナで損した2年間は、60代の当方のそれよりはるかにでっかい大損だったろう。

 ま〜ま〜、だからこそ、もっとヤンチャで弾けてイイのだぞ……、とエールをおくってもいる次第。

 もっとも、ジュール・ヴェルヌの『2年間のバカンス(私が子供のころは『十五少年漂流記』という邦題だったね)では、エリート系の学校の生徒らが漂流し島に流れ着き、以後2年、その逆境の中で通常の学校生活では味わえなかった日々をおくって、逆にググ〜ンと成長する。

 そんな“事例”を思うと、高砂高校ジャズバンド部の連中とて、この2年間が「無」であったワケでもないだろうな、逆境がゆえに逆に得たものもまた、あると思う……、きっと。

 何人か、この先、グ〜ッと伸びそうな子がいたのも頼もしい。

 

 

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  明日の朝は粗大ゴミの回収に業者さんがやって来る。

 乗らなくなった自転車3台、マザ〜が使っていた座椅子セット、でっかく重いスキャナーなどなどをゴミとして、出す。

岡山市の場合は自転車1台500円、スキャナーなどは1ケ200円で、1回につき10品まで引き取りに来てくれる)

 そのうちの1品。台所の奥にあったサンヨーのトースター。

 かつてこれでパン焼いてたんだなぁ……。ほどよく焼けた頃合いに勝手にジョキ~ンって音たててパンを排出するアンバイとか思いだすし、花柄が時代を反映してもいる。真鍋博のパターン・デザインだっけ?

 捨てるには惜しいような懐かしみがあるんだけど、ま~、持っていてもしかたない。写真をば撮ってデジタルで残すことにしちゃう。

 すでにとっくにサンヨーという会社はないけども、いつでもどこでも、パンの焼ける良い匂いがあれば、このスガタカタチを思いだすのだろう、な。