龍ノ口山の裾元で

2年ほど前から夏場が妙に忙しくなって、以来まったく乗っていないのだけど、夏から秋にかけて、よく旭川岡山市を流れる一級河川)でカヌーで浮いてた。
紅い、鉄橋とコンクリが合体したレトロ・フーチャーっぽい大原橋という橋の近隣にキャンプして、そこから漕ぎ出す。
その大原橋をくぐり、川が広くなると共に、そびえるようにして龍ノ口山が眼前をさえぎる。
川はこの山を迂回するカタチで右へ曲がり、岡山市街を二分する。
龍ノ口山の裾元は、この旭川に接し、かなり良い感じな岩場が直立していて、毎年、その巨岩の上あたりで野生のフジが花咲く。
この景観は舟で寄ってみないと味わえない醍醐味があって、1度味わった者はたいがい、
「あそこ、最高でしょ!」
と、感嘆する。
(とはいえ、龍ノ口山の裾元まで行ける川沿いの道を歩めば、水門の所からでも見えるけども)
岩場の部分は、長い年月による水の流れで浸食されて深い。
アウトドアの達人でカヌーを毎年に調達してくれていた、大山氏はそこに何度も潜り、
「4〜5mはある。たぶん、旭川でイチバンに深い場所がそこ」
と、太鼓判を押す。
流れは緩やか。水深ゆえの水の深みある緑色。眼前の巨岩。水中深くに連らなる岩盤。
不思議なほどの静寂。
そこへ漕ぎ出すたびに、ボクはシガレットを一服。
ときに二服。
漕ぐのをやめたままボンヤリするのを、好んだ。
でだ…。
今日の夕刻に、今かかえている模型造りの資料となる本のページをめくって、関連事項を堀り進めてたら、ちょっと横道にそれ、旭川の記述にぶつかった。
次いでゆえにと読み進んでみると、
「ま〜!」
驚いた。
カヌーで親しんでたその場所が、お江戸の時代の、かの広重の浮世絵に登場しているのである。
「諸国名所百景」
安政6年(1859)というから、明治時代になる直前に… 二代目・歌川広重が、
備前龍ノ口山」
なるタイトルで1枚の浮世絵にして… 後、明治期になって米国ではかなり評判の"絵"だったというのだ。
「あらま〜〜」
ビックリした。
こんな事を知らなかった不明を恥るけど、鮮烈な風を吹き込まれたようで、なんだか嬉しくはある。
当時の川の様相はそのまま今のそれではなく、中州も際立つ奇岩の在りようもかなり相違してはいるらしいけども、江戸時代にあっては、玄人っぽい文人やら墨客(日本画をやってる人のこと)には好感が高い、いわばヒット・ポイントであったようだ。
木舟を浮かせて、一句ひねったりと、優雅、風流を愉しんでいたようだ。
それがお江戸に伝わった。
備前に名所あり、と。
広重がこの大原橋界隈に出てきてスケッチしたとは思えず、伝聞なり岡山から墨絵を送ってもらってイメージを膨らませたのかも知れないけれど、ともあれ、なじんだ場所がそんな浮世絵になってたのを初めて知って… なんだか気持ちがよい。

左側の茶の部分が、カタチは違うけども、今も、カヌーに乗れば、ボクを愉しませてくれてる場所… とも思えば、この絵に強い親近をおぼえる。
当時この辺りは渡舟(わたし)が川を横切り、他に川を渡る術がない。
川の中程に州がある。
なので、描かれた人物は、船頭かもしれない。
州の中で、雨と水かさの量をみて、舟を出そうか出すまいか… 思案中なのかもしれない。
明治になって、大原橋が出来た。
出来たのはいいけど、有料の橋で通行料は2銭。
これが不評で次第に不満が逆巻き、大正3年に、当時の若いモンたちが立憲青年党という団体を造って、懸の議会にねじこんだ。
それで橋の通行は無料になって今にいたる。
歩いて渡ると、その長さに少しばかり驚く。
そんな場所を… 153年も昔、全国区の有名絵師が浮世絵に描いてたんだから、素敵だ。
けど、それにしても… これだけの、いわば"地元モノ"があるというのに、過去にこの地元たる"岡山市の文化機関"はチャンと紹介したコトがないのではないかしら?
そう、訝しむ。