『ハンナ・アーレント』

誘われてシネマクレール。
映画「ハンナ・アーレント」を観る。


哲学者ハンナ・アーレントアイヒマンの裁判を傍聴後にニューヨーカーに連載した裁判レポートをめぐる波紋。
時期は60年代初頭。盛大に吸われる煙草。
最初から最後までハンナも吸い続ける。
そこに主題はないけど、時代の空気は読み取れる。
60年代はスモーカーの時代なんだ。
事実、かのケネディの高名な演説においても、
「あなた達の吸うタバコの税でもって人類を月に運べるんだ」
と、後のアポロ計画に連なる予算についてを実にうまく説明していたっけ…。

さて、映画と史実。
戦犯アイヒマンを見据え、"悪の凡庸さ"を指摘し、悪とは何かを再定義し、ユダヤ人の当時の指導者たちが強制収容所への仲間の移送を知って知らぬフリをしていた事にも言及したことで… 彼女自身が糾弾されるという顛末。
苛烈な非難には、彼女自身がユダヤ人であるコトもまた大きい。
それで友をも失う。
それでもなお彼女は揺るがない。
揺るがず、ラストシーンでもソファで煙草をくゆらせる。


ボクは「しにざま」の反語でしかない「いきざま」という単語が大嫌いだから決して使いはしないけど、この映画に見るハンナの強さには、その嫌いな単語でしか今のところ彼女を形容する言葉を見いだせない。
ただ強い女、という次第ではなく、強さの反対としての弱さもまたこの映画には描かれているのだろう。
最初の"男"であった、かの哲学者ハイデッカーへの思慕とその後の決別の回想シーンにそれは色濃く映し出されているよう、思える。
そしてニューヨーカーの記事。
数多の誹謗中傷に耐えざるをえない彼女の、その喫煙シーンがだから印象として濃く残るのかもしれない。


最近、東京裁判を否定する声が昂ぶりつつあるように、この映画にも確かに、南米に逃亡したアドルフ・アイヒマンを非合法でもって捉え、イスラエルにおいて裁くという、それは正当なのか… という大きなクエスチョンも横たわっていて、だから当然に、ハンナという女性像を見ると同時に、人が人を裁く現実の残酷と重みをも見せられて余計に感想としての言葉が慎重になるのじゃあるけれど、こういった映画があるのは良いことだ。
今この瞬間を"凡庸"にいきているボクら自身の深いところに刺さるべくな、映画だと思う。
劇中で、
「考えることで強くなれる」
と、ハンナはいうけど、容易でない。
容易でないけど、確かに、ボクらは諸々ホントに考えなきゃいけないコトを考えずに過ごしてるわけで、時として醒めた視点も失っている。
重さを公平に測るべきな天秤の針の軸部分が、はなっから歪んでいもする。
歪んでいると気づいてもいなく、その上でもって醒めていない。
生きることの厄介さをあらためて感じさせる映画がこの「ハンナ・アーレント」なのかも知れない。


が一方で彼女が見せる夫への愛、友への愛… その深みにもまた大いに共感させられもする。
20代30代の若い愛ではなくって、どうやら我らニッポンの男性にはいささかに苦手に思える愛のカタチを、この映画はとても良く示唆していて、恥ずかしながら… 学ばされる。
ローリング・ストーンズの名盤「VOODOO LOUNGE」には、その名も「Love is Strong」というコッパズカシ〜のがあるけれど、それをコッパズカシく思う感性がそも… 歪んでいると、ここは思った方がよさそうだ。

思えば、アイヒマン裁判には開高健朝日新聞だかの特派員として現地で取材して… たしか、ハンナ・アーレットに似通う見解を記していたよう思う。
いわば歯車の1つでしかないアイヒマンを処刑出来るのなら、長崎・広島に原爆を投下する命をくだしたトルーマンはどうなのかと。
思えば開高も盛大に煙草を吸う人だった、な。
人に疲れはてながら、ハンナ同様、人に興味を抱き続けた人だった。
ただ近頃じゃ、その煙草もまた"凡庸の悪"に堕とされつつあるけどさ。