燐光群-屋根裏


矢野顕子コンサート。憲法9条を柱にしたフォーク系コンサート。劇団燐光群の芝居。某公民館の講座。はたまた友人の父君の盆栽展。
週末のいろいろイベント。
けど身は1つ。イベント時刻に外せない用があったりする…。
という次第で天神山文化プラザにて燐光群の芝居『屋根裏』。


坂手洋二の名を高らしめた傑作。久々の岡山での再演。
おそらく今もってまだ破られてはいないであろう"世界で一番"に小さな舞台。
横幅、高さ、奥行き、いずれも2mに満たない小さな"屋根裏ボックス"にマックス13名もの人が出入いる流れは、壮観。
照明にワザあり。

狭いスペースにアレもコレもソレもがブラックホールみたいに凝縮され、当然に圧がかかって発熱する…。
近年の坂手芝居はやや政治がかってナマな感触が磨かれぬままに提出されるようで、そこがいささかボクにはシンドイと感じることがあるけど、このリライトされた2015年版『屋根裏』にもそれがチラリ。
もっと削ぐことは可能だったと思う。
けれどやはり、屋根裏という名のボックス1つが舞台という形は、この作品が書かれて13年経つけどまだ新鮮。オモシロイ。
オモシロイというかスゴミを感じる。
ロシアのあの人形の中にさらに人形が入っているのに似た縮小と多様を同時に味わえる。
「けっきょく、ボクは芝居に何を求めているんだろう?」
そのような素朴をあらためて感じさせてもくれる凝縮の濃厚味。

けども… そこで見いだしたいのが、ゆるやか春の海なのか、波浪波動高きな嵐海なのか… そこがトンとわからない。
わからないから… 芝居に接してる。
といって、たとえば劇団四季的な多くの人が魅了されるといった大掛かりには興味がわかない。
人が多く足を運ぶほどに例えば「橋下劇場」とか「小泉劇場」と呼ばれた筋合いなものに近寄るようでメッキしたプラスチックみたいで、オモシロクない。
やはりどこかマイナー指向か嗜好だかが、息づいてる。そのアングラ的空気を望むようなところが消せないでいるのを長とするか短とするかさえ… よくワカラナイから困ったもんだけど、といって、この『屋根裏』をアンダーグラウンドな芝居とは露とも思っちゃ〜いない。
いっそ、これぞ芝居の王道と思ったりもしている。
映画やコンサートは、ある意味、放っておいても向こうから何かがやって来るけど、こういう芝居は… こっちがそっちに向かわない限り、ほぼ何も感じられない。
得るところが難しいのがオモシロイ。

などと…、観念的になるのが芝居見学の悪いところだ。
美術館で神妙な顔をして作品にイチイチ接しなきゃいけないような空気の汚染に似たのを感じないわけでもない。
けどまた一方、そんな情動がうごめくトコロがいいのかもしれない。


"世界一"狭い空間で演じられるこの『屋根裏』に… ボクはまたヴェルヌの『海底二万里』を思ったりする。
ノウチラス号を芝居にしたら、どうだろう? どのような手法があるかしら? 舞台装置としてはただ操舵室があるきり… がいいだろう。いや… はたしてそうか? 操舵輪は不要、いっそ丸窓1つの壁を装置として用いたがいいのではないか。あるいはもっと象徴的に…、あの数万冊の蔵書でぎっしりの船内図書室がいいか。あるいは海の食材のみのあの船内食堂がいいか…。
登場人物は4名。ネモとその副官、教授と銛打ちネッド…。
長いのはいけない。せいぜい50分のドラマ。
(『屋根裏』は2時間15分だった… うむむ)
アレコレ妄想し、束の間チョット楽しくなったり難しくなったりしつつ、5月半ばの1日が過ぎてゆく。



写真は谷本玉山氏の盆栽。
『屋根裏』の極小に通じる小さいが大きな宇宙。
盆栽の奇妙は、時間が止まっていること。そう見せること。
けども生き物だから手入れしなきゃ葉は伸びもするし枯れもする。水をあたえ陽にもあてなきゃいけない。なので常態として常に注視し徹底して手を加えなきゃいけない。時間を消去するために膨大な時間を費やす。
絵画に近い見せ場を呈しつつ、実は演劇なのが盆栽。