トマトにイチゴ 〜甘い生活〜

ボクが紅顔の美少年であった頃を思うに、トマトもイチゴも… とても酸味強気なものだった。
少年が津山に住まっていた頃、ショ〜ガッコの帰り、路地横農家の、自分の背丈ほどに育ったトマト畑で紅く実ったのを、モギッともいで、その場でガブリ…。強い酸味に顔をしかめながら、"トマトの成る季節"を味わったもんだ。
むろん、こんな無謀は農家にとって許し難いし、今はそんな犯罪は犯さない。他者の作物をモギッったりしない。
が、ともあれ、およそ50年前のトマトもイチゴも、それはゼッタイ的に酸味が強いもんだったんだ。



イチゴの場合は、イチゴミルクなどと云われる通り、40〜50年前は砂糖たっぷり混ぜいれたミルクをかけてイチゴを味わうという次第が、ごく当たり前だのクラッカ〜なのだった。
酸味勝ちというのが、イチゴというモノの通念なのだった。
それで… いささかの不満として、も少し酸味がなかったら… という声がアチャコチャで浮かびあがるのだった。
この次第あって、農家というか農事業者はイチゴの改良、トマトの改良に励みに励み出した。
酸っぱさより甘味ある食物にしようと… アタマをひねり始めたワケなのだ。


で、四季流れるが何年も経つ内、今や気がつくと、トマトもイチゴも、
「甘さこそ最高!」
な、感じになっちまい、糖度が増し、昔の酸味あるイチゴもトマトも、その影は薄いのだった。


それで今さらながらだけど、
「ありゃ?」
と、すでに紅顔美ないオジチャンになったボクは、眉間に皺寄せ、
「イイのか… それでっ」
この食物改良に懐疑するのだった。


なるほど、ボクは、ごく一部の… ボクの理解者からは、
「おまえさんの舌はお子チャマね、ウッフッフ」
嘲笑混じりのラブリーなお言葉を頂戴して久しいのだけど、しかし、そのお子チャマの内面では、確かに酸味に顔をしかめ、苦みに顔を歪めはするけれど、そして、結果として、そういう食材を避ける傾向にあるものの… かつての、トマトの酸味、イチゴの酸味を忘れているワケはないのだ。
そこにこそ、オリジナルがあったと強く濃く意識しているのだった。
が、それを今や、味わえないのである。
たかが50年ほどの間で、トマトもイチゴも飼育改良されてしまって、岡山弁で言うところの、
「すィ〜〜〜ッ」
ものではなくなってしまったんだ。
これは、たぶん、なんだかきっと、本質的なトコロでの大問題じゃ〜なかろうかと、密かに思ってたりするんだけど、どうかしら?



例えば今、『シュガートマト』という名のトマトがあるそうで、これは高知発、産地じゃ「トマト街道」なるものが出来るくらいけっこうな人気なのだそうで、名からして大変に甘いもののようだ。
なので、とても売れてるようだ。
ようだ… とアイマイなのはボクがそれを食べたコトがないからだけども、いや、はたしてボクはそれを食べたいのか? と自問すると、実は、
「欲しくありません」
なのだ。
前記の通り、ボクの舌はなるほどお子チャマなのじゃ〜あるけれど、ホントのお子ちゃまの時期に酸っぱいトマトを囓っていたもんだから、大人になっても舌はトマトに酸味をおぼえ、時にそれを濃く求めるのだった。


といって、子供の時に、その酸っぱいのを悦んでいたかといえば、実はそうでない。
舌の感性も研がれちゃ〜いないんで、苦いもの・酸っぱいものを味わう感覚は、なきに等しいのだった。
その感覚の上昇は、何度か苦いもの・酸っぱいものを口にし、失恋を繰り返すみたいな… 回数重ねる修練が必要なのであって、その経験値がやがていつの日だかに、旨いと感じる味覚の向上に結ばれる。
酸っぱいトマトに塩をふりかけるというワザも、知ったりする。
塩がトマトの中の酸味とは別なものを引きだし、ただ酸っぱいのではなく、いわばバラエティ、バリエーション、のふくよかさを拡大して、トマトの中に多様の宇宙を醸し出してくれる。
そこではじめて、お子ちゃまは、
「美味しい~!」
と、つい口をほころばせたりもし、ちょっと成長をした。


だけどしかし今、その酸味高きなトマトはどこにもないのだ。
お塩をふりかけるに価いするトマトが、ない。
「消費者のニーズにお応えして、品種改良を重ねまして、糖度を増しております」
との… 生産者の、むろん、それは努力として認めるにしても… トマトから酸味は失われているのだった。


それはイチゴも同じだ。
"消費者のニーズ"とは何か?
それは、未開の舌を持った人間が成長しないままにワガママを言い募っただけの、でかい声に過ぎないのではなかろうか? 
そこに生産者がうっかり応えてしまったがゆえ、今、トマトもイチゴもひたすら甘味街道を爆走中という次第なのではなかろうか。
結果、甘いばかりのトマトにイチゴを幼少時から接してりゃ、なおいっそうに、酸っぱいトマトやイチゴは、
「こんなのトマトじゃな〜い」
そういう人がこの世に跋扈するであろうし、事実、もはやそうなってしまっているとも思えてきて、何やらいささか胸苦しくもなる。



実は、リンゴもそうらしい。
いや、実はリンゴこそが、その甘味追求の最初の餌食となった果物であるらしい。
およそ100年前の、ソール・ベローの『森の生活』を読めば、かつてリンゴがどれっくらい酸っぱいものであったかがよく判る。
なるほど甘味もあるけれど、それは濃い酸味の背後で控えめにしている脇の味なのであって、基本はアタマがシャキっとする強烈な酸っぱさこそがリンゴの持ち味なのだった。
だから『聖書』の中でアダムとイブが囓ったリンゴは、「知恵の実」と呼ばれてた。
神サンとしてはアダムとイブに、アタマをシャキっとはさせたくはなかった。
シャキっとアタマがしっかりするのは主人たる自分だけに属するもので、アダムとイブはいわばペット的なところに居て欲しかった。
なのだけど、アダムとイブは囓ってしまう。
神さん、怒った。
シャキっとして知恵をつけたと懐疑して、楽園から地表に放っぽり出したんだ、ネ…。


ま〜、神サンもイブもサンローランもアダムもここでは置いといて、実の人間世界じゃ、だから酸味を抑えて、背後にいる甘味の方を舞台中央に引っ張り出すべくな努力をリンゴに向けて励んできた。
シロップ漬け、ジュース、あるいはパイナップルと一緒に煮る… といった、とにかくリンゴの性格を甘チャンにすべくな加工を初期段階にし、やがて違うリンゴ種を接ぎ木したりで、リンゴの木そのものに変化を強いてった。


今、どこのスーパーでも売っているフジという種類のリンゴはその代表例だ。
品種としてのリンゴ遺伝子が、いわば強制的に矯正されたものなのだ。
そのフジから、さらに今は矯正が進んでいるようだが、品名は詳しくは知らない。
その先端現場で何が行われているかといえば、いわば自然界では生じない「雑種去勢」でもって、"優性"のみが生命をあたえられるという、F1という改良策だ。


これは必ずしも悪ではない。
けれど、その結果として、人に例えるなら、イケメンのみが活かされ、アトの顔の悪いのや足の短いのは"雑種"と見なされ淘汰されるという次第なのだ。
今、ホームセンターや園芸店で買える種や苗は、ほぼ全てがこのF1製品だ。


ベチャリといえば、そこで売ってるリンゴ苗もトマト苗も、オリジナルのリンゴやトマトとは違うんだ。
ニュートンが自宅の庭先で見たあのリンゴの木は、現在のリンゴ産地のリンゴの木とは、もはや違うのだ… と云ってもいいかもしれない。


人間の欲望願望として、リンゴ・イチゴ・トマトなどなどが、もはや本来のソレではなく、人間の舌を悦ばせる、それも"真の意味でのお子チャマ甘味"なものにサイボーグ化されてしまっているというのが、21世紀の昨今だ。
ま〜、そういう意味で、まっこと、これは21世紀的未来の光景なのかもしれない。
チューブ状の動く道路とか、アシモフ風ロボットとか、ドーム都市的な未来社会のカタチは…、実はリンゴやトマトに見いだせるという次第なのだ。


そこで疑念が浮いてくるワケなのだ。
「いいのかな〜?」
と。



いま、ボクは実家の小さなガーデンにトマトを植えてるけど、実のところ、これとて、もはや、ボクが小学生の時に囓った、あのトマトじゃ〜ないのだ。
植えるがための種であれ、苗であれ、それは量産化された「ハイブリッド種」なる"F1製品"なのであって、50数年前のソレでは、もはやないという次第なんだ。なので… ボクはオドロイてる。


このことを肯定も否定も出来ない。
なるほど、その種(苗)は畑にまかれて従来同様に栽培されるワケだけど、基礎の中の基礎たる種の製造は、もはや、農業というよりは化学工業のそれなのだった。
この種から育ったものが交配すると、その時点で雑種になる。
尋常でない甘さは、この1代こっきりというカタチの中にのみある。
文字通りF1は、一代限りのものなんだ、ね。


ニュータイプとしてのハイブリッド種はもはや天然のものではないから、それが起因でミツバチが大量死しているという事も囁かれている。
しかしまだ因果が立証できない。関係を明確に証明できない。
ただ、極度の甘さ追求が、何か決定的に重大な弊害を、今、進行させつつあるんじゃなかろ〜か… という疑念が、すでに何冊もの本になっているトコロを見ると、ま〜、ボクの舌感覚も満更じゃ〜ないな… などと悠長な感慨に浸ってる場合ではない、ね。
ささやかな家庭菜園で育てつつあるトマトもそのハイブリッド種なのである。通常じゃ、も〜、それしか手に入らない流通経済で構成されているのが現在だ。
ナチュラルな生活を送りたい、との願望を支えているのは、化学と科学が育んだナチュラルではない工業化されたハイブリッド種なのである。
(したがって生産者農家たれども、翌年にはまた大きな資本で運営されている種苗会社から買い求めなきゃイケナイ… というのが、この流通経済の核心だ)



なんかナチュラリズムが意気消沈するようで、こういう事実はあんまり知りたくはないのだけど、ま〜仕方ない。まぎれもなく21世紀を感じられるというコトでもあるワケで。
絹(シルク)と思い込んでいるものが実はナイロンでございますのよ、オホホ… てなアンバイを感じないワケでもない。
ナイロンはナイロンで良しとも思えるし、しかしナイロンをボクは食べないと思うと、現在のトマトやイチゴは、はたしてどんな未来に向かっているのか… などと茫漠と考えつつ、しかし、まずは育ちつつある実家ガーデンのトマトに水をやるしか、ない。


参考文献 「種があぶない」野口勲著 日本経済新聞出版刊
     「モンサントの嘘」 ブレット・ウィルコックス著 成甲書房刊