閑話して休題


歴史の教科書なんぞで、「中世の頃はひどかった」みたいな、暗い時代の記述をみたりするけど、な〜に、今も実態は変わっちゃいない。
いっそ、歪みが増して、ひどさ増進増量なのじゃ〜あるまいか。
ニュースを幅広く即時的に摂取できるという点を加えると、いっそ今の方が末世的な酷さや非道さを知覚しているような気もする。
しかもそれが常態化しちゃってるから麻痺も起きる。
おとといの惨劇はもう古い済んだハナシだなんて〜ことになる。
言質に流されるまま、ガザは遠いし〜、ウクライナ東部も関係ないし〜、みたいな感の中、昨日おいしいサバ缶みっけた〜、みたいな享楽を書いていて、はたして、それでイイのか… と、自問したりもする今日この頃。

その昔、横山光輝に『マーズ』なる漫画作品があって、おそらくロバート・ワイズ監督の映画『地球の静止する日』に影響を受けての、その裏返しの結末… ということになるんだろうけど、その最後のマーズの怒りというか諦めの気分は… 判らないではない。
いっそ、もう人類は滅んでしまえ、とこの作品のラストはそれまで展開した平和への努力を中央においた物語を断ち切ることで終わってしまって、
「あんりゃ〜」
な、ガックリが現出する… ある意味で傑作なのじゃあるけど、この作品のおよそ20年前のジョージ・パルの映画『宇宙戦争』にも、やはり獣と化しゆく人類が登場して、主人公の科学者を翻弄し、全人類の最後の一縷の希望であった資料が暴徒の手でアッという間に散逸する。主人公の科学者は憤るも、もうなす術もなく、あげく、すがるように辿りつくのは教会のチャペル…。
けども、ご承知の通り、映画の中、教会の祈りがかの3色メダマの火星人をやっつけるワケじゃない。たまたま時期同じくして彼ら宇宙人は自滅するにすぎない。

なんだか結局は人は、右往左往するのみじゃんか… なアンバイなのだった。
悲観と楽観が交錯して達観が訪れるわけでもなく、右や左や真ん中にと、ただ流されだけの存在なのかもしれない。
ひどいニュースがとどくたびに、それとの距離をボクはついつい計ってしまう。
が、それでいて…、高名な作家がよく色紙に書いたという一言を信じたい気持ちはある。


『明日 地球が滅びようと 今日 林檎の木を 植える』


開高健のこの一言を、捨てられない。
そのあたりが砦になりそうである。

今年の2月。誰かさんが買ってくれたアップルパイを思い出す。
甘さでベッチャリじゃなく、生地の香ばしさの中に歯ごたえと酸味がしっかりした林檎がいる。
その絶妙な酸味と甘味のハーモニーが旨味として極上だったゆえ、いっそウイスキーにもあう、むろんそれはソーダや水で割るのじゃなく尖った氷1つのロックじゃなきゃいけないけども、断固あうと思った。
そういうものを創り出せる人間がいるからボクはまだ、希望のかけらを握ってるんだろう。
だからまたボクはサバ缶を含めた、小さな幸のことを書こうという気もおこす。
末世の時代に天変地異が重なっての苦難の連鎖に辟易しつつ鴨長明が『方丈記』を記してかろうじて悶々たる気持ちのバランスをとったように…。


ゆく河の流れは絶えずして しかももとの水にあらず よどみに浮かぶうたかたは かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし…


と、そのように美味く文章化できないけども、だ。
今でいう4畳半(方丈)サイズの、いわば仮設的住居に住まっての長明の眼の在りよう、そのスガタカタチに、ボクはいささか羨望する。4畳半にたてこもって彼がただ"逃げて"いたのか、それとも、流れに拮抗するための踏ん張りであったのか… そこは未だよく判らないにしても。虚飾を捨てる実践の中でのうたかたへの眼差しは透明であったろう… 思う。
彼は折りたたみ式の琵琶と琴を持っていたらしい。1人、ポロンと弾いていたらしい。
狭い草庵の中、この2つの楽器だけは手放さなかったようだ。
音楽に救済されることも、多く、あったんだろう。