声の狩人

 

 この前、久しぶりに店舗いならぶイオン岡山の中をブ~ラブラ歩いてみますに、マスク専門店が、あるのね……。時勢を思えば、ま~、そんな店も不思議じゃないけど、一方でようやく、マスクの呪縛から解放されるような流れが生じつつあるようで、それはそれでチビリ歓迎だ。

 誰かが書いてたけど、マスク着用がほぼ義務化された時でさえ感染増大が止まらなかったというコトは、結局はマスクをしていようが、いまいが、伝染る時にはうつってしまうという事実が逆にあぶり出されただけであって、効能ゼロではないにしろ、マスクは感染防止に大きく貢献する品物じゃ~ない……、というコトなのだろう。

 

       

戦前のマスクの広告。昭和の初期は黒いマスク。素材は革か布のどちらか。白いのは少なく、珍しかったそうな……

 とはいえ、だからといって、マスク着けずに外出は出来ない、ね〜。要は、気持ち、のモンダイなのだな。抑止力が薄いと知りつつも、気持ちがマスクばなれ、しないんだ。

 なので、30年くらい先の歴史書には、「マスクに翻弄された時代」と書かれるかもしれない。 

 

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戦争犯罪」という単語を容易に聴く今日この頃……、だからというワケでもないけど、アドルフ・アイヒマン関連の映画を数本、続けて観る。

 複数のそれら映画で、やっと、戦後ドイツの空気の一部を味わって、

「あらまっ」

 不明を恥じたり、した。

 戦後ただちにドイツ国民がオール反省モードに入ったワケじゃ~断じてなかった次第を、複数の映画があぶり出してくれ、

「あらま~っ」

 連続アラマ~を発し続けた次第。史実としての時系列をいままで意識していなかったゆえ、時に、ハシゴを一段踏み外したみたいなショックも、おぼえた。

 

 ヒトラーの側近諸氏に対する「ニュルンベルク裁判」によって死刑を含めた重刑の数々が決定してから、さらにイスラエルでの「アイヒマン裁判」までの間の5~6年、ドイツではどのような空気が流れていたか……、そのあたりの実情を知らされ、

「ニンゲン、やっかいなもんじゃねぇ」

 小嘆息させられもした。

 兵士になって戦わざるをえなくなった1市民の、その戦争責任、とりわけ犯罪とみなされる行為についての抽出と立証といった法的モロモロな施行とその制約なども含め、1本ごと、映画をたいらげてくウチ、

「ウムムム~……」

 嘆息でなく、言葉でなく、呻きしか出せない気分に浸ったりもするのだった。

シンドラーのリスト』を観終えて、もう2度とこの映画はみたくないと思ったような生々しい直線的な重さはないけれど、戦後ドイツの中に温存しているイヤラシイ部分とそこを何とかしたいと迫害にめげずガンバッタ人物らの姿は、垣間見えた。

「もう済んだこっちゃ~ないか、蒸し返すなよ」

 との見解と、

「いんや、なにも済んじゃ~ない」

 との境界の狭間で揺れてぶれる、侵略戦争があったゆえのアレやらコレやら。

 

 

 以下、観た映画の邦題(多くの邦題が陳腐でヨロシクないけど)。自分の記録用に列挙。アタマのABCは印象の濃さ。映画評ではないデス。

 

C ■ ミケランジェロの暗号 2013

A ■ ハンナ・アーレント  2013

A ■ 検事フリッツ・バウアー ナチスを追い詰めた男 2016

A ■ アイヒマンを追え! ナチスがもっとも畏れた男 2016

A ■ 顔のないヒトラーたち  2016

B ■ アイヒマンの後継者 ミルグラム博士の恐るべき告白 2017

C ■ コレクター 暴かれたナチスの真実 2017

C ■ コリーニ事件 2019

B ■ キーパー ある兵士の奇跡  2020

A ■ 否定と肯定 2021

 

 2010年半ばにこういう映画が多く創られているのは、当時やおら、ナチズムに傾倒する若者がドイツを含めたヨーロッパ圏で台頭したことへの、その不穏と不安が、レッド・アラートのように点燈したゆえなのだろう……。

  再鑑賞の価値ありと思えたのは、2013年の『ハンナ・アーレント』と2016年の3本など。『ハンナ・アーレント』は封切り時にシネマクレールで観たけど、その時はピンと来なかった。でも今回の再見で印象変化。

「顔のないヒトラーたち』は、この作品のみが、アイヒマン拘束のために、アウシュヴィッツでおぞましい生体実験を行っていた医師ヨーゼフ・メンゲルをあえて取り逃がし……、その捕縛優先順位がゆえの政治的駆け引きのさなか、メンゲルは逃げ延び、逃亡先のブラジルで生涯をまっとうするといった、むず痒い箇所にも触れていた。

“正義の行使”とて平坦でないワケで、その平らでない状況を『否定と肯定』では1996年に実際にあった英国での裁判を再現して、グイグイ見せてくれた。

 

 いずれの作品もドキュメンタリー的に史実を確実に追ったわけでなく、ドラマとしての創作がふくまれてはいるけど、その部分が、足長の音符と短い音符が当初は絡まずだったけど、徐々に双方が覚悟し納得し、やがて和音的な一種の落ち着きが煌めいてくるみたいな……、良性な何かを引き出す触媒として機能し、成功しているようにも思えた。

        

 実際のハンナ・アーレント(上写真)は、映画同様に常にシガレットを離さないヒトだったらしいが、本作観つつ、彼女がそれに火をつけるたび、こちらも吸いスイ吸いで観てしまった。

 けど、タバコの味より、アイヒマン裁判を直に見ての、かの感想文『エルサレムアイヒマン-悪の陳腐さについての報告』を発表した途端、誹謗と中傷と批判を一身に浴びた彼女の、けれども、へこまない心情、その強さ、勇気の抽出量……、などなど大きく羨望させられた。

 

      



 ちなみに、女史と同じ傍聴席で裁判を見聞したヒトに、開高健がいる。

 開高もまた同様、感想を記している。

 けど当時、こちら日本ではさほど話題にはならなかったようだ。

 戦争と政治のルポタージュを彼は当時幾つも書いているけど、書けど誰も踊らない状況にガックシ肩落とし、かつ自身がまのあたりにした数多の紛争の酷烈にジワジワ疲弊し、やがてヒトのいない荒涼の中での、釣りというホビーに身を傾かせ、“釣果としてのフィッシュを通して自分と世界を語る” という方向に足を向けた感がなくもないけど、イスラエルでの裁判目撃は彼にとってもヘビ~極まりない現実だったろう。

 開高は、「裁判ではなく劇だった……」と書き、その上で、アイヒマンを死刑にすべきではなかったとも綴り、文の結尾で、彼の文章では希有なことだけど、叫ぶような生々しい声をあげている。

 アンナ・アーレントが得た感触と同じく、ごくごく普通で平凡な男としか見えないニンゲンの中にある、おぞましい事実に、開高もまたひどく衝撃させられたには、違いない。たぶん……。