一本松古墳

 

 か細くて量もしれたけど執拗に続いた雨天やらドンヨリから、ようやく昨日あたりで抜けたかな?

 晴れて欲しいもんだ。

 庭池中央に島を造ったものの、雨天連打でセメントがまだ乾かない。

 セメントは強いアルカリ性ゆえ魚や水性植物に適さない。ゆえに乾燥させ、含有の水酸化カルシウムを炭酸カルシウム化させなきゃイケナイ。

 要は晴天時、陽光に晒して、大気の二酸化炭素水酸化カルシウムを結合させるワケだね。

 けども水中に没する予定部分は厚塗りで、外パリパリ中トロトロなスィーツを造ってるんじゃないんで、中までカラッと乾いてくれなきゃ困るんだ。なので陽射しと風を待ち望んでるんだ。

 日干し乾燥させた後に水を張ってミョウバンを溶かし入れてさらに中和、その水を排水後にまた日干し……、という繰り返しが理にかなう手順なんだったけど、長雨だぁ~~。お陽さんお隠れのままじゃ〜セメントは乾かないんだ。

 

 

 くわえて当方の腰がギックリ。アウトドア作業は中断のままなのだった。

 幸いかな歩行できないようなもんじゃ~なく、急に前屈みしたり腰にチカラを入れたりしなきゃぁ、ヘッチャラだ。 

 まだ腰痛ベルトを締めているけど、あくまで用心のためで、もうかなり治った。

 

 過日はリハビリテーションを兼ねて、半田山植物園を散歩したりもした。

 同園はまったく平坦じゃ~ないので、スイスイ歩くような場所じゃないけど、緑のアレコレを見遣りつつてっぺんの「一本松古墳」にヨタヨタ、辿り着きもした。

 古墳前に立ってると雨が降り出し、早々に帰還したけど、古代をしのびながら現在を眺めるというコトも出来ちゃった。

 

 

 

 5世紀頃の、その前方後円墳

 全長が65mもあって、かなり大規模。

 古墳時代を示す典型的なカタチながら、この立地がもたらしたであろう当時を憶うと、大きな勢力をもった一族がこのあたりで大きな顔をし、大勢の人に山のテッペンに盛り土をさせ、多量の石を運び上げていたんだな……、と否応もなく想像できる。

 吉備王国というカタチが部族の連立で営まれていたなら、有力な一族がここに根をおろしていたコトを示している。

 

   2つ、こんもり盛り上がってるがこれは別の墳墓。65mのでっかいのは右奥の茂みの向こう。

 

 5世紀当時の半田山付近の旭川は、より近くまで、その流れがあったはず。海と連動した汽水域ではなかったか?

 その川とも海ともつかない水面から見上げる山の頂きに首長(?)一族の墓がデ~ンと置かれ、表面の石組がまばやく輝くワケだ。

 壮観であったに違いないし、水面からおよそ100m近くも高い場所での輝きゆえ、威圧的でもあったろう。墓ではあるけど同時に、その一族あるいは集団の存在をよそ者に向けて誇示する警告灯的ランドマークだったワケだ。

 

 けども1500年も経てば、一族の栄光も威圧もあったもんじゃない。

 鉄器製造の鍛冶集団が界隈にいたらしい、というコトのみが薄っすらと伝わっているきりで、規模も名前すら、もはや判らない。

 明治・大正・昭和初期に時代が変じると、まだ考古学が全国の大学機関に波及しているワケでもないから、発掘調査されるや埋葬品はすべて東京に運ばれてしまった。

 現在は東京国立博物館が所有者だ。一極集中の悪しき例のような気がしないではない。

 埋葬された一族の霊があるとするなら、

「おいおい、俺らの鎧、どこに運んでんだコラ~」

 憤ったに違いない。

 

 

 まして戦中、この古墳後円部の中央に穴を掘り、高射砲を設置して遺跡を破壊するというテイタラクなんだから、霊達もその踏んだり蹴ったりにハラワタを煮えくり返したに違いない……。

 高射砲陣地を造るさいに縦穴式石室が出土したけど壊してしまった。

 今もその後は残る。

 いかんせん雨が降り出して、ボコンと凹んでしまった部分の写真を撮れなかったけども、何を守ろうとしている戦争だったか皆目わからない当時の、戦時空気の不具合っぷりが、そのポコンに象徴される。

 

 ちなみに岡山大空襲、78年前の6月29日の夜中の惨事に、この高射砲は機能しなかった。

 1発も撃つことなく、眼下で燃える市街を前に砲手は恐怖で竦み泣いていたというハナシを、はるか以前、某病院勤務の方に、“目撃談”として聞かされたコトがある。

 当時12〜13歳で近隣に住まい、家族と半田山へ避難して、高射砲はどうなってる? とお爺さんらと頂上に登って見た、という。

 

 で、今は植物園だ……。

 頂上界隈は植物園というより樹林といってよい程に木々が育って鬱蒼としている。

 

 

 一本松古墳直ぐそばの松林で、松籟を聴いた。

 ザワザワともゾワゾワともズワズワとも、何とも書きにくい独特の音。

 ゆえに松籟(しょうらい)という独自の単語があるワケだけども、詩的にいえば、雨天と相まい、泣き声のようでもあり、また一方では、

「雨足強くなるでぇ。早よ下山しなせ~」

 囁くようでもあった。