過日、某タウン情報誌の記者さん来訪。
亜公園がらみとはいえ副次的な取材。なので矢面でもないけれど、いまもって亜公園は3年ほどで閉園としたというような粗悪情報があるのを知らされ、当方いささか、
「う~ん」
小首ひねって苦笑するのだった。
記者さんに亜公園の特集でも組んでよ、などと軽口もたたくんだったが、まだまだ亜公園のことをアピール出来ていない当方もイケナイナ~、と反省もチビリンコ。
記者さんの、
「亜公園は、朝ドラになるほどのドラマとボリュームが有りますねぇ」
との一言が、けっこ~ガツンと来ましたなぁ。
という次第で、なんぞガツ~ンなものを食べたくもなった。
で、いきおいアタマに浮いたのが、魚肉ソーセージをはさんだ食パンだ。
なんでそんな貧相なモノが浮いちまったかといえば、それが好きで、マスタードたっぷり塗りつけて、ときおりヒッソリ夜中に食べたりするからだけど、当方の舌はこの程度のものでガツ~ン、悦んでしまうんだから、困ったもんだというか、チョンモリ恥ずかしくもあるけど、しかたない。
数日前からビートルズの、『Now And Then』を聴いている。
ジョンがニューヨークのアパートでふき込んで残していたテープをヨーコから託されたポール達が、90年代にアレンジしようとしたもののテープ音源の状態が悪くって断念していたものを、いまどきのAI技術でジョンの声のみを取り出すコトが可能となって、その90年代には存命だったジョージがこの曲のために刻んだリズム・ギターの音源もミックスし、リンゴとポールとジャイルズ・マーチン(ジョージ・マーチンの長男)が再トライした……、ビートルズ最後の“新曲”。
発売日に買い、3度4度、続けて耳を傾けたけど、意外なほどに淡々と接した。
そよぐような感がないではないが、総じて自分の”タンタン”にやや驚く。
ジョンが亡くなった時の衝撃が経年で遠のいているのは判っているけれど、この”タンタン”がどこか哀しくもあり寂しくもあった。
ガツ~ンと味わえていない自分が気にいらない。
が、そうであってもこの1曲が大事な宝であるには、違いない。
後半の、「 Now and then. I miss you. Oh, now and then I want you to be there for me」……
「ときおり君が恋しくなる ときおりボクのそばにいて欲しくなる」、の辺りでのストリングスの鮮やかさが、とりわけ沁みる。
「Now and then」という3単語を日本語に置き換えるのはアンガイ難しい。
上記をストレートに別訳するなら、
「今も前も君が恋しい。前同様、ボクのそばにいて欲しい」
と、ニュアンスが変じる。
ちょっとの違いに聞こえるけど、意味するところが大きく変わる。
終わってしまった彼女に向けての慕情なのか?
終わりかけつつもまだ未練のさなかを漂っているのか?
ふられたのか? ふってしまった挙げ句の心の声なのか?
……かなり意味合いが変わってくる。
ま~、そのあたりも含めて、今と変わらず今後も、聴き続けることになるんだろう。
Now and then は、Now and Future に繋がっていくわけだ。
音楽バナシ次いでゆえ、告知しておこう。
きたる12月3日の日曜の午後3時より、ごく小さい規模で音楽関連イベントをおこないます。
場所は私が超絶に好きなダイニング・バー「プチパイン」。
音楽普及の大きな役割を担った蓄音機、それもかなり初期のものを使ってのミニなイベントです。後日に詳細はお伝えしますが、音楽がごく身近なものになったその黎明時期のアレコレをお伝え出来ればと思ってたりしま〜すが、ここにもミニながら、Now and then が登場しますわいねぇ。フフっ。
12月3日のお昼は、スケジュールあけといてね。