ファースト・マン

 封切り初日に映画館のシートに座るのは久しぶり。いつ以来だろう?

 といって、とても楽しみにしていたから……、じゃない

 本年が月着陸50周年だから、ワクワク……、でもない。

 たまさか初日が都合がよかったという次第で、むしろ、この映画にはちょっと不安をおぼえてた。

「どこまで描けてるのかしら?」

 予告編をみるかぎり、何やら平凡な、かつて他のこの手の映画でも見たような感触がジミジミ沁み出てくるようで、だから期待せず、いささか上から目線的アンバイで着座したのだった。

 むろん、アポロ計画の話なんだから興味の高揚度は高い。

 

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 主演のライアン・ゴズリングという一点に眼を向ければ、悪くはない。

 そりゃま~、『ブレードランナー2049』はダメ映画じゃあったけど、それは同映画のビジュアルとステレオタイプの域をまったく出ない脚本のつまらなさから来るもので、ゴズリングが悪いわけでない。

 『ラ・ラ・ランド』は未見だけど、2016年の『ナイスガイズ』でのラッセル・クロウとの共演は良かった。1970年代後半が舞台で、当時流行ってたアールデコっぽいフォントを使ったタイトルなど、随所に気が効いたコシラエがあってなかなかの見栄えだった。ゴズリングは子連れのヘンテコな探偵役でメチャおかしい。モンティ・パイソン的辛辣ユーモアとアメリカン・ジョーク的大味とがうまく結合した妙味で、物憂げなその顔とは裏腹にこのヒトはおバカなコメディをこなせるのだなぁ、と妙に感心もした。

 で、今回は一転し、もの静かな、ニール・アームストロングを演じたワケだ。

 

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       実際のニール・アームストロング。ラングレー月着陸訓練センターにて

 

 アームストロングは月から帰って以来、意識的にその名を消去しようとしていたヒトだと僕は感じたこともあって、だから彼の没後にこうして伝記映画が出来るのは良いことだと思ってる。

 月面で、

「この一歩は小さなものだけど人類にとっては大きな跳躍だ」

 と発してからは、ニール・アームストロングが月に最初に立ったと云われるのをヤンワリ回避し、あくまでも人類を代表したに過ぎない個人という感覚をずっと持っていたかも……、とボクは彼を希望的に眺めてた。月着陸は人類そのものの業績ゆえ降り立った人物は匿名性を帯びた方が良いという風に。

 もちろん実際はそう単純でない。

 重圧を背負ったヒト特有の寡黙だったかも、しれない。

 アポロ13号帰還劇の当事者ジム・ラヴェルは80年代だかに、NASA関連の行事にも現れないアームストロングの隠遁者めいた沈黙に対し、

リンドバーグは私費で大冒険したから、その後の沈黙は自由だったけど、自分たちは公的資金でもって月に行った。そのことも忘れちゃいかん」

 苦言めいた発言もしている。

 

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               NASAのオフィシャル・ポートレット

 

 60年代の、ケネデイ暗殺の日とアームストロングが月面に第1歩を下ろした日は、60年代を生きたヒトにとっては大きな共通体験だったと、思う。

 だからまず誰もが、この2日の”事件”があった時、自分がどこにいたかをおぼえている。

 1963年11月22日のボクは津山の小学生であり、ケネディ遭難をきいたのは朝の寝起き。初の宇宙中継がもたらしたニュースでだ。

 そして1969年7月21日は、高校の職員室横の職員当直室でだった。部活は放り投げてその畳敷きの部屋に詰め、白黒テレビに大勢でしがみついてた。教師の1人が、

「オルドリンはまだおるどりん」

 くだらないジョークを飛ばしたが、そのお寒い13文字が自分にとっての月着陸の一部になって、もう久しい。それを耳にして50年が経つわけだ、今年の7月で。

 まったく同じことが、原作『ファーストマン』にも書かれてる。60年代を生きた米国人もこの2つの日は、深く刻まれた別格の何かなんだ。

 悲しみどん底の日と、ブラボ~月着陸の日は、月という球の上でバランスをとってる天秤の2つの両端だ……。

 ちなみにアームストロングはケネディ暗殺のニュースを、ジム・ラヴェルの車と並列で駆けながらヒューストンに向かうさいのカーラヂオで聴いたという。

 数多の訓練が詰まっている宇宙飛行士たちは身動きがつかず、代表としてジョン・グレンがワシントンDCの葬儀に参列したと同書にはある。

 

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 原作は史実たる経過を一歩一歩追いながら、当時関わったであろう多数の方々の発言を丹念にひろって、パッチワークみたいににしてニール・アームストロングという人物を浮き上がらせるのに成功しているけど、それでもまだ彼の輪郭の一部は見えていないような気がしないでもない。

 冷静。沈着。勤勉。忍耐。慎重。強靭。真面目……。

 それらはハタからみると素晴らしくあるが、つまらなくもある。微笑みたくなるようなキャラクター性に乏しい。

 が、一方では彼のユーモアは第一級で、一度味わうとしばらくは笑い転げてしまうとの証言も多い。

 幼い愛娘が症例の非常に少ない癌に犯されて亡くなったさいは、葬儀後はすぐまた飛行訓練に出向き、娘のことなど一言も触れずで、周辺の同僚は彼に娘がいたというのを知らなかったというヒトもいるらしきだけれど、その前後の彼の動向や言動には巨大な陰りとしての悲痛が、今となっては読み取れるというヒトもいる。

 このあたりのバランスが不可解で、判りにくい。

 

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          月着陸船の中継カメラ部分の操作訓練中のアームストロング

 その点で二番目に月面に立ったバズ・オルドリンは判りよい。

 ま~、彼は彼で二番目に甘んじた自分というものをどう表現するかで、大きく苦悩し、一時はアルコールにおぼれ、鬱になり、そこから抜けると逆説的にマスコミの脚光を浴びるべく務めだすワケだけども……。

 そういう次第もあって、アームストロングという人物の中の未知を、何事か”映画的に示唆”してくれるかしら? 映画館のシートに座りつつ、そのような期待はかすかにありはした。

 とどのつまり、ボクはアームストロングという人物に惹かれているわけなのだ。

 

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            石の採集を練習中のアームストロング&オルドリン

 

 で、映画だ。

 映画は淡々と彼の人生をなぞっていく。ジェミニの時代、そしてアポロの時代。多少そのあたりの進行を囓ったものには、ま~、さほど目新しくはない。

 ボクとしては、当時いた宇宙飛行士の中で何故に彼がアポロ11号船長に選ばれ、月歩行の第1番めに抜擢されたか、彼は数多の飛行士の中、1つの特異点があったのじゃないかしら? などなど複数の疑問の答えのヒントがあるかもな期待をそよがせつつの鑑賞なのだったけど、ま~、そこはやはりちょっと期待過多だった。

 監督デミアン・チャゼルは1985年産まれだから、アポロの時代は彼がオギャ~と発する前の歴史、昔話だ。

 でも、悪くないよ。良い映画だ。

 米国では、「星条旗を立てるシーンがない」とブ~ブ~云った若い議員がいたらしいけど、そういうナショナリズムでもってチャゼルはこの映画を組み立てていないのがまったく、イイ。

 今までのアポロ計画を描いた映画とは違うアプローチも、イイ。

 アップを多用し、ローアングルめなカメラ視点とかも、試みとしては、イイ。いっそ『2001年宇宙の旅』が想起されるようなシーンも散見。

 かつて他の映画で描かれなかった打ち上げ日早朝のステーキ朝食の様子や、帰還後の隔離施設の様子が出て来たのもポイントが高い。

 

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    実際のステーキ・モーニング。右の赤シャツは飛行士室室長のディーク・スレイトン

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            実際の隔離施設(Lunar Receiving LAB)の面会室

 

 ただま~、娘の死でスタートし、娘への気持ちを月面上で顕わにすという”起”と “結”は、いささかドラマ的過ぎると感じたし、アップ多用がゆえにジェミニやアポロの宇宙船の姿を堪能するというには、遠い。”勇姿”としての宇宙船などメカニカルなビジュアルは大幅にはぶかれる。

 X-15での飛行の意味や、ジェミニ計画アポロ計画と進んでいく開発史としては、これはまったく判りにくく、ある程度の予備知識がないと話にノッてけないようでもあって、良い映画だったけど、ウムムムッ……、加速度がついたボールの行方を懸命に追わされた感がなくはない。

 宇宙飛行士たちの配役も妙に悪い。当時の飛行士たちは皆な30代後半だけど、この映画じゃ皆な50に手が届いたオッサンに見えてしまうのが難点。

 けど、ダンコにお薦めしたく思ったのは、アームストロングの奥さんジャネットを演じたクレア・フォイだ。

 

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            『ファースト・マン』より ©Universal-Pictures

 

 この人が、この映画の最大のツボ、最大の見所。

 ボクがアカデミーの審査員なら、この女優に主演女優賞を贈ってイイと断言できるほどに存在が際立ってた。

 現実の月と地球が年に3cm程度ながらも離れていってるのと同様、次第次第にと乖離幅が増す夫婦の、その妻の目線がこの映画最大の肝だったとするなら、クレア・フォイは実にまったく素晴らしい演技でもって、その心のカタチを見せてくれた。ライアン・ゴズリングすらが、かすむほどに。

 感情を押し殺してスマートたらんとするのを既に血肉化させている夫と、夫がそうであるゆえに感情をむき出していくしかなくなっていく妻の、これは悲しみのラブ・ストーリーと云ってよく、輝ける宇宙フロンティアを眺める映画じゃない。

「この一歩は小さな」ものではなく、夫婦という単位にとって,

「大きな苦難のいっそうの跳躍」

 だったと、その大きな目はモノ申してた。

 そうであるなら、ニール・アームストロングは自身の言葉、「この一歩は小さなものだけど人類にとっては大きな跳躍だ」でもっていっそうに自己規制をかけ、そう振る舞わねばとの思いが空転してしまった不幸を人類史初めて味わった、まさに「ファーストマン」であったと、同情ぎみに思い返しもするのだった。 

 

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         ジェミニ8号帰還記念の式典場での実際のアームストロング夫妻

            離婚は月着陸から25年経った1994年だったという

 

 

花戦さ 余談

 前回記事で触れたムジンサイについて。

 ムジンサイは無人斎と書く。

 歌詠みの人でもあったから、これは号。正確には無人斎道有という。

 本名は武田信虎

 かの武田信玄に追放された、その実の父親だ。(信虎43歳・信玄(晴信)は20歳の時の事件)

 信玄は父を追放して甲斐の領主となって後、歴史上に名を残す快進撃を続けるワケだけど、あまりその父のことは語られない。

 

 息子の信玄に追い出される前、彼が躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた - 信虎の住まいで現在の甲府市の礎)の中の一室・竹ノ間にて猿を飼っていたことは、『武田三代軍記』にも載っているから事実だろう。

 「白山」という名がついた大きな猿で、一室を与える程に信虎は溺愛していたようだ。

 

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                  『武田三代軍記』の該当部分

 

 その「白山」の世話係の武士が猿のあまりの振る舞いに激昂して、ある日、猿を殺してしまい(上の該当部分、左側後半に顛末が記されている)、それで怒った信虎は武士を惨殺してその家督も消滅させたりと……、配下の者への手ひどい扱いが追放劇の一端だったとの説もある。

 襖という襖に竹林が描かれて豪奢であったろう竹ノ間は荒れ、掛け軸も襖も破れ、畳は糞尿で汚れに汚れて異臭を放っていたろう。そんな部屋の中の猿一匹を世話させられた末に殺されてしまった家来は、哀れ気の毒というほかない。

 

 けれど、息子に追放された信虎が野ざらしのフ~テン虎さんになったかといえば、そうでない。

 しっかり生き、駿河と京都に屋敷をかまえ、京都界隈の有力者六角氏や公家らと連絡を取り合っては何事か策動し、足利義昭とも結託したりのあげく……、追放した信玄よりもはるかに長生きしちゃったこともまた、事実なのだった。

 織田信長がなくなった後も生き、当時としては大変に長寿、81歳で没したというから、えらく元気だった。

 彼が京の都で何をどう密かに策動していたかは定かでないから諸説入り乱れて現在にいたる。

 追われた甲斐の国を取り戻したかったのか、あるいは実際は……、信玄とも連絡を取り合っていて、まったく密かに信玄と共に武田家覇権をホントは画策していたかも知れずで、いわば彼は逆境にあえて身を置いた武田の第1級なスパイであったかもと……、幾らでも想像できるホドに、彼の事績はよく判っていない。

 信玄没後にはその弟の信廉(のぶかど)と会い、久しぶりの親子対面で意気投合、信廉は絵師の才もあったから父親・信虎の肖像画を描いてもいる。信玄の跡を次いだ勝頼とも会って何事か談合した気配もある。

 

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絹本著色武田信虎像(武田信廉画 山梨県甲府市大泉寺蔵)

 

 信玄のあのデブっと肥えた体躯から来る印象とはまったく違って、信廉が描いた袈裟姿の信虎は細身。どこか冷暗な策謀家といったシャープさがあって、畏怖をおぼえるような凄みがある。

 ひょっとすると信玄以上に、甲斐の武田家を代表する人物であったようにも思われるけど、どういうワケだか認知度が低いのは、その取っつきにくく、気を許せない得体不明の雰囲気が遠縁にあるのかもしれない。

 下のアップをご覧よ。唇のカタチ、眼の凄み、僧形ながら襟の合わせを緩めにした野生味など、これらパーツが醸しだすのは負性なキャラクター性というもんだろう。

 眼球を白く描いているのはひょっとして白内障だったのかも知れないけど、たとえとして良くはないが、印象として、近頃の「スターウォーズ」シリーズの、ダークサイド側の親玉スノーク(だっけ?)とも相似する……。

 それほどに、この絵の人物は”魅力的”だ。

 

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 この謎の信虎 = 無人斎をヒントに、脚本家・森下佳子はそれを猿の絵を描ける絵師として『花戦さ』で使ったんじゃないかしら? そう勝手な想像をめぐらせているワケだ。

 もしそうであるなら、ものの見方を変え、人物を換えて、猿というキーワードを投影させたその秀逸が際立つのだけど、さて、どうだろ?

 

 黒澤明の『影武者』では、仲代達矢演じる信玄に、大滝秀治の山縣昌景が、

「お屋形さまはしょせん甲斐の山猿じゃ……

 可笑しみを誘う嘆きごとをいうシーンがあったけど、甲斐に限らず、かつて当時この国は山野だらけなのだから、猿の人口もまた多かったろう。あたりまえのように山に猿がいたろう、ね。

 ボクは猿が大の苦手で、子供の時、名古屋のでっかい動物園の猿舎前で嘔吐したこともあって、この1件で決定的に嫌猿家になったから……、猿人口が多かったであろう戦国時代はとてものこと生きづらい。

 そうでなくとも群雄割拠、戦国武将という名目でもって得体知れないボス猿みたいなヤカラがこれまた山のように生息していたんだから、とてものこと。

 だから織田信長が、いみじくも若い秀吉を「さる」と呼んでいたのはチョット象徴的だ、ネ。

 映画『花戦さ』での秀吉は、その「さる」の呼称を侮蔑と沁ませてコンプレックスの塊りと化した人物として描いてるようではあったけど、あたらずとも遠からず、秀吉もまた激しく猿嫌いであったに違いない。

 

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枯木猿猴図(こぼくえんこうず)長谷川等伯1539-1610)の代表作品 重要文化財

 

 信長は信長流の愛あっての「さる」の連呼だったろうけど、受ける本人は呼ばれるたびに赤裸な恥辱を浴びるようで苦痛であったろうし、そう云われてニコニコしてなきゃいけなかった我慢と鬱屈の堆積もまた大きかったに違いないだろうし、その克服がらみな対処として、マゾヒズムを一身に受け入れた果てにサディズムに転化燃焼させ、勇猛し、やがて、黄金の茶室だの、朝鮮出兵だの、派手な振る舞いに出てったとも云えるかもだけど、結局は他山を見られないサル山のボスでしかなかった感は、攻撃的な黄金の茶室というカタチに濃厚に出ている。

 簡素を極めるというカタチに向かう利休の飛翔に秀吉はついていけず、ついていけない自身の感性に怯え、利休が絶対に嫌うであろう華美をあえてその利休に造らせるコトで束の間は嗜虐に昂悦したろうが、彼は自身の山を出られない猿であることをも強く再認識もしたろう。

 その一点において信長がつけた愛称は正鵠を射たものだったかもだ。

 

 『花戦さ』では信長を中井貴一が演っていて、ま~、悪くはなかったな、1つのサル山のボスの顔としては。

 ただ中井さんは良い意味で云うけど何を演っても中井さんだ、邪気を孕んだような凄みはない。いわば ”中井貴一”というネームのフード・チェーン店みたいなもんで、褒めて云えば、実に安定の味わいを醸す存在なんだ。

 

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 どの店もトンガリ屋根の「長崎ちゃんめん」。どの店も同じ味だから好もしい。なのでボクのリピート率が高い。中井貴一さんにはそういう味わいがありんすね。

 

 ところで、戦国の時代、戦争に出向いたさい徴兵されて最下層の立場に置かれてる人たちには、昼食を含め食事は毎日支給されていたのかしら?

 何だかどうも、チャンとは届いてないような……

 道中、食べられる廉価なチェーン店があるでなし、小銭あるでなし。自分用の米をどうにか掻き集めて持参してたり、そこいらから略奪して来なきゃいけない行軍もあったんじゃなかろうか?

江戸時代になった頃に書かれた『雑兵物語』では、たしか、戦場にかりだされたら仲間の飯でも躊躇なくぶん取らないと生きていけないみたいなコトが書いてあったような気がするけど、この本、書棚のどこに置いたかみつからない。

 文庫本って、見失うと実に見つけにくいカタチだと思いませんか?

 

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 ともあれ、そういう悲哀を帯びた末端の兵士さんが行軍の道沿いの草むらで、モソモソと何か喰ってるのを、その界隈にお住まいの猿やらキツネやらタヌキは、クツクツ笑って見てたんじゃなかろうかしら。

 ならばいっそ、化かしてやろか……、アン饅頭に見せかけて馬糞なんぞを1つ丸くにして転がすとかで。

 池坊専好が花をいけてたのは、野山あって獣も多々いて自然は活き活きながらも、ヒトの争いたえずなワヤクチャな内乱時代だ。そんなさなかに花と向き合うというのは、なかなか出来ないこと。

 なので、興の尾がなが~くひかれる次第。

 芥川はそのあたりを含むであろう気分をば……、こう書いてたね。

 

童話時代の明け方に、――獣性の獣性を亡ぼす争ひに、歓喜する人間を象徴しようとするのであらう、日輪は、さうして、その下にさく象嵌(ざうがん)のやうな桜の花は。

 

『Paul Smith』と『花戦さ』

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 日本の専売特許みたいに昨今しきりに用いられる「クール・ジャパン」は、労働党トニー・ブレアが首相だった1997年から10年間に渡って彼のスーツを担当したポール・スミスたちの『クール・ブリタニア構想』がオリジナルだ。

Cool Britannia - Creative Industries Task Force: CITF  ブレア政権時代の産業振興の一翼として提唱された)

 ベチャっといえばカッコいい英国みたいな感じをワールドワイドに発信し推進させようという試み。ポールやヴァージン航空のR・ブランソン達がメンバーでこれは政治的にも商業的にも大きなヒットだった。

 けど、ブレア時代は良かったものの、政権も変わってポールらが抜けたその後、ジワジワと概要が変質し肥大していって……、いまだオリンピックだのレガシーだの、その模倣をやってたらヨロシクはないぞ~、という指摘となるのが『文化資本』という本だけど、最近のポール・スミスの日々を追ったドキュメンタリー『Paul Smith』を観た。

 で、ポポンと膝打って感心したのは政治がらみな話でなく、純然たる服の事、時代による生地の硬さのことだった。

 

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 ご承知の通り、彼は60年代のホックニーの明るい色彩や、60年代半ばから70年代半ば頃に台頭著しいブリティッシュ・ロックのミュージシャンたちのファッションに着目し、そのテーストを隠し味的に、それも丹念かつ丁寧に取り入れるというスタイルをとって成功したけど、ではその頃の英国ロックの衣装がどういうものかといえば、それは時代をさらに遡る生地たちによるファッションなのだった。

 当時のアート気質なトンがったミュージシャンは、たとえば、スタピルフィールズの朝市でもって20世紀初頭の花柄なんぞの古いカーテンやらテーブルクロスをタダ同然で買ってくる。

 それをサビルロウの仕立て屋に持ってってスーツやシャツにしてもらってた。

 意外なことにスーツ造りの職人らはそれらヘンテコな依頼を拒否しない。頑固で律儀で保守的と”ジョンブル気質”はいわれるけども、

「ワイは着ぃへんけど、オモロイやん。よしゃ、造ったるワ」

 新規でケッタイなコトガラに首を突っ込みたがる性質もまた濃くあるんだろう。

 コンサバティブの表とプログレッシブな裏という意味で、それは現在のポール・スミスもまたその通りの気質を持った人の直系だろうけど、そうやって当時、例えば花柄のスーツだの、衿や袖のみにカラフルな他生地をあしらうみたいな、”非常識”なファッションが登場して時代の先端を泳ぎだし、その自由感が、戦争はもうウンザリだのの、いわゆる”フラワー・チルドレン”の装束母体となってった。

 

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 この格好にのみ注視して現象を探れば、時代がカクテルされた装いというコトになる。60年代という時代の生地に、より過去な布地がミックス、色彩と図柄が混ざった状態が現出したのだった。

 ただ、60~70年代ミュージシャンはエエ格好で奇抜を装うが、なんせ古いカーテン地やテーブルクロスの布などなど、ゴワゴワして硬くもあり、けっして着心地良いもんじゃなかったハズ。

 そのことをポールはドキュメンタリーの中で言及してる。

 彼は当時の若者文化の表層を見事に切り抜くが、当時の素材まで真似はしない。今は素材加工の技術が違う。同じ明るいストライプ柄でも素材も加工の琢磨も進んでより人体に馴染む生地が出来るから、そこが決定的に当時のモノとは違ってる。

 

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 2017年の映画『花戦さ』で感じた違和感は、その素材感だったのかもしれない。

 天正時代、すなわち信長が興隆の頂点と奈落に落ちた時代の京都の町並みと人の往来が本作には登場するけど、その町衆の装束にボクは妙な違和感をおぼえたもんだった。

 それがポール・スミスのドキュメンタリーで何ととなく氷解した気がするんだ。

 後期室町時代の装束でありながら、どこか違和があるのは、その素材の柔軟さにあると、みた。

 早い話、見た目、柔らか過ぎるんだよ。

 麻、葛などが主体の当時の着物は、実体はよりゴワゴワしたものであったはずなんだ。

 ひどくゴワゴワじゃないけど、しゃがんださいのシワの寄り方とか、肩部分の張りであるとか、かすかであるけど絶対的に現在の”製品としての着物”とは別物だったはずなんだ。

(木綿は天正時代を終え、いわゆる戦国時代を抜けてから流行りだす)

 そこが映画じゃ難しい。

 

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 今の衣装は今の素材で作られたものなんだから、柔軟性が違う。

 映画で使われた衣装にまさかそれは混ざっていないとも思うけど、今は麻とレーヨン、綿とポリエステルといった混紡でもって生地は柔らかさを出していたりもする。その違いのような感触がいみじくも映画の中に出てしまってる……、と薄々に感じるんだ。

 それに何より、背景にいる町衆の着物が皆、綺麗すぎる。

 主役クラスの方々の衣装は着古した感じや襟部分のほつれなど上手く造られていたけど、背景の方々がほぼ総員、「よそ行き」な感じ……、新品同様じゃ~いけないんじゃなかろうか。

 

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 もっともイケナイ違和だったのが、ヒロインの衣装だ。

 彼女は河原で拾われ、尼寺に預けられるものの、絵師としての力量を迸らせるこのヒロインの着物が華美過ぎだ。

 

 この当時の実際の記録として『おあむ物語』というのがある。

 石田三成配下の武士の家に生まれたおあむという女性が、高齢になった江戸時代の初期、尼僧になってから語ったのを筆記した、いわば自伝で、一民衆の生活史として天正期の戦国末期の貴重な資料となっている。 

「さて、衣類もなく、おれが十三の時、手作のはなぞめの帷子一つあるよりほかには、なかりし。その一つのかたびらを、十七の年まで着たるによりて、すねが出て、難儀にあった。せめて、すねのかくれるほどの帷子ひとつ、欲しやと、おもふた……」

『新・木綿以前のこと』 永原慶二著 中央新書 

 三成の下にいる武士(300石とりだったというから決して低い所得でもない)の娘であってさえ、この有様が実態なんだから、野村萬斎演じる池坊専好に河原で拾われ寺で保護されることになるヒロインが、下写真のような浴衣をあたえられるワケがないのだ。

 ちなみに、はなぞめというのは花をあしらった図柄じゃなく、何かの花から抽出した色で染めた麻をいう。麻は浸透性が高くて染まりやすい。おあむは思春の盛りをそのただの一枚で夏も冬も過ごしていたようだ。

 

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 この映画の最大の見所は、佐藤浩市演じる利休だと思える。いや正しくいえば利休を演じた佐藤浩市だ。

 演出上、狂言的な顔演技を願われたと思える主役の野村萬斎はややリキみ過ぎで、さほど自然体でないのが惜しまれる。むろん坊主頭になっての熱演ではあるし、かつての『陰陽師』を彷彿する所作が出てきてニヤリ北叟笑んでもしまうし、微細な表情の変化など素晴らしい演技なれども、佐藤の抑えきった利休へのアプローチの前では、いささか比重が違うような気がしないでもない。

 物覚えの悪い池坊専好の言葉に困惑やらプライドの矛先を失ったさいの絶妙な表情や、庭先に立ってジッと一点を見つめて棒立ちしている利休-佐藤の格好良さは、ポール・スミスを着たから見栄えいいだろうのレベルでなく、もうそこだけ切り取って額に入れてよい程に見事、存在が極まっていた。

 

 根掘り葉掘りすればこの映画の欠陥はいくらでも出てくるけど、けどもいわゆる華道のスタート地点に着目し映像化した一点はブラボ〜、素晴らしい。

 もちろん、だからこそ激しいほどに物足りないんだけど……。

 

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 物足りない最大は、花でもって秀吉を諌めるという原作の陳腐さが映画となっても引きずられるままで、花をいける、その精神の昇華と抽象化はこの映画では前面に出てこないコトだろう。

 なぜに、「生けはな」か? 

 なぜに、生花と書いて「しょうか」というか?

 なぜに、花は「立てる」のか?

 だから惜しいなぁ、と思うんだ、せっかくの題材ゆえに。

 それは概ねで室町時代の後期、池坊専応にはじまり、やがて初代となる池坊専好によって飛躍するという次第なんだろうけど……、その飛躍と定着をもっと花そのもので描けなかったか……、と惜しむのだった。

 京の河原にゴロゴロ死体が転がってる貧寒の時代さなか、なぜに花に向かうのか、その辺りの消息をこそ前面に打ち出して欲しかった。

 太閤を諌めるという程度の形而下で話を進行させるのは、いかにも花の存在を貶めるようで……、そこがハナじらむわけだ。

 

 もちろん見所あり。

 かつて実際に前田利家の京都邸宅に作られたらしき松を主体にした大砂物を映画の中でクッキリ見せてくれるし、事実、ものすごく迫力ある造形。

 

f:id:yoshibey0219:20190128181155j:plain           ※ 「花戦さ」オフィシャル・ホームページより

 

 ルネサンス期の天井一面の絵画同様、規模に制約されない伸びやかな昇華を見せられる。

 それは現在の華道家池坊が全面強力な協力しているから出来たモノだろうし、それはそれで素晴らしい。ノコまで用い、自然な感じを"作為"する「造型妙味」をこの映画では見せてくれる。

 が、逆にいえば、その関与があるゆえに映画的冒険が出来なかったとも思える。遠慮な気配を微かに感じる。

 コンプレックスを背負い込んでいる秀吉(市川猿之助の絶妙な演技が冴えてる)の、その哄笑でもって家臣一同も笑い出す顛末には、たとえそれが哄笑であって爆笑のそれではなかったにしろ、そこでもって思考停止しちゃってるようでいただけないし、ヒロインが生き返ってるラストは、あまりにひょっこり唐突で漫画チックじゃなかろうか。

 終わりのスタッフ・スクロールでの池坊への配慮には、野村萬斎が力演して云う「花の中の仏さん」には遠い、家元制ピラミッド構造が透けて滑稽、巻頭であげた『文化資本』に描かれる、

「少数の人ではなく多くの人に」

 との当初のクール・ブリタニアン構想がやがて、

「少数のために、多くの大衆のためでなく」

 という流れとなったとする指摘と重なって、妙な既視感をおぼえるのだった。

 たぶんもっとも残念なのは、ラストの河原シーンでCGで花を咲かせたことだろう。池坊の全面協力があるに関わらず、デジタル描画の花で映画を閉じちゃ~イケナイんでないのかしら?

 

f:id:yoshibey0219:20190128181256j:plain               ※ 劇中に登場の見事な立花。

 

 ことさら、花を生ける行為を神聖視するワケもないけど、しかし、日本の出版業界というのは……、1本映画が出来ると速攻でムックを出すから便利だね。

 入門編として実に重宝。でも一方、こういうのを眺めて学んだような気になって自己完結しちゃうコトもまたデッカイのが難点。

 

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 表紙でもって、「豊臣秀吉に戦いを挑んだ戦国乱世の花人」とあるのは、あくまで映画のこと。この辺りの虚実の曖昧が問題だ。

 実際の池坊は時の権力にぴったり寄り添うて生息し、またそのことでもって華道家としての地盤をかため、免許皆伝という巧妙でもって花いけを商業化していったとみていいだろうから、ファンタジーとリアルを一緒にしちゃう本造りはいささか……。

 

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 原作は開栓した発泡酒を一晩置いてしまったような、キレなくコクなく、さらにあげれば、背表紙が装画の色に重なって読めないという最悪部類の本だったにしろ、映画の脚本(森下佳子・「JIN-仁」を脚色)は原作の薄っぺらをかなり上等にグレードアップさせてる。

 彼女が、ムジンサイという新たな人物を創って背景に置いたことでちょっとしたフカミを醸させるのに成功しているようにも、思える。

 このムジンサイというのは、当時の戦国武将なら誰もが知っている人物で、そこに着想を得て名を借りたと思えるが、もしそうであるなら森下氏のワザありと云わねばなるまい。まっ、それは別機会にでも。

 

 ま~、けどもされども、次なるを期待するという導火線役として『花戦さ』は、異議ありじゃなくって意義あった。

 華道をテーマにした映画は他にないんだし、読んでつまらなかったけども原作もまた、この映画で面目を得た。

 ポール・スミスを持ち出して衣装に言及したのは、室町前期の花いけの興隆にヒョットして当時の方々が着衣した着物の、そのつまらなさが影響していたかもという疑念めいた感じも受けたから……、だ。

 花ぞめとか、アレコレとアプローチしてみても、依然として実際の花や葉の活き活きたる華麗に及ばないがゆえにの、人の、花への憧憬が濃くあったんじゃなかろうか? と思ったのだ。

 憧憬は常にそれを越えたい願望がからんでくる。そうであるがゆえ、人は花をいけようとする、掌握したくって……。

 もしそうであったなら、こたびの映画での町衆の方々の衣装はやはり今風に出来上がり過ぎて、花よりも華やかに見えもして……、華道のスタート地点を描くには眩い過ぎる存在だ。京の町衆の装束はもっと色のない粗末な感じを前面に出すべきものだった、と思うんだ。

 ともあれ。ま~ま~フゥフ~、願えるなら花をテーマにした映画にまた会いたいもんだ。『2001年宇宙の旅』っくらいのブッ飛んだのに会いたいもんだ。

 

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 なが~くなった次いでだから……、紹介。

 某ダイニング・バーに置かれてる本。池坊で修行したらしき筆者が日々毎日にいけた花の作品集。

 ちぎれて枯れかけた一葉をあえていけてる。これは鮮烈だった。

 川瀬敏郎『一日一花』 新潮社

 

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 これは、某バーの片隅。

 花をなりわいにする某Mちゃんの初春モードの逸品。

 写真におさめるにはヤヤ難しいけど、「東海の小島の磯の白浜……」と啄木が詠んだ情けなさではなくって、どこか鶴と亀が潜むような長寿安泰めいた風合に好感させられた。都合よくも右手の万成石のアート小品が海辺の岩場のようにも見え。

 

 

 

ミカン

 ミカンの中に種が出て来るようになると、いつもきまって、チョイ淋しいようなシーズンのうつろいを意識させられる。

 それが冬の終わりとイコールではないのが、心地よくない。

 あいかわらす寒いのだから、もすこし冬味覚として食べていたいから。

 

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 歩いて3分半ほどの所にジョイフルがあって、年に2~3回利用する。

 チャチャっと食べるに都合がいい。

 この店では、数年前に某スポーツ系大学の大きな寮が出来てから、やったら学生が多くなった。

 たまさか昨日の昼下がりがそうで、前の席、後ろの席、横の席、その向こうの席、いずこも若い子たちなのだった。

 単位取得のレポート提出だか何だか知らないけど、ノートやら資料を広げてる。

 女の子が多い。真面目そうで、ややおとなしい。

 チラリ盗み見るに、本にはピッチャー投球時の分解写真やらが載っていて、フォーム理論? 何だかよく判らないのだけど、Wi-Fiがあるし、窓際の席では電源も取れるし、たいそう便利だろう。

 たいがい、1番安い299円のポテトとか枝豆を発注し、それにドリンクバーをセットにしての安上がり。

 で、途中でドリアとかオーダーしてる子もいる。それが昼食か?

 この子らはきっと2~3時間くらいは、冷めるとまずいポテトフライかじりつつ、寒さを味わうことなくヌクヌクお勉強を続けるんだろう。

 いずれも1回生か? なかなかかわいらしいけど、でもどこか子供っぽい。私服の中学生程度にしか見えない。

 そういうのに囲まれてモグモグ食べると、若さを頂戴できる……、ワケはない。

 ミカンの皮と実のように薄い被膜で隔絶され、ただ同じ店内にいるだけのこと。若い人たちが住むようになると地域の活性化につながる、なんて~コトもいわれるけど、そんなの卓上の夢想。単純でない。

 

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 はるか昔、義務教育を受けてる子供だった頃、弟がミカン1箱を1晩で喰ってしまい、両親激昂という修羅になったことがあるけど、実際は弟と共に兄のワタクシめも加担して大いに喰らい、叱られるさいは、

「ボク、知らない」

 そしらぬ顔。罪を弟に全部きせたのだからタチが悪いというか、そういう子の方が子らしいと……、云えばいえなくもない。

 この正月に弟にその話をしたら、彼は彼でしっかり、自分が全量食べたと思い込んでいて、

「えらく叱られたなぁ」

 大きく笑ってる。

 遠方では光が曲がるらしいが、事実もまた虚実を通せば曲がる。ま~、そんなもんだね。事実というのは脆弱なもんだ。

 

 

 

 

〆鯖とファーストマン

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 思う程には皿が積み上がらないなぁ。かつては20皿くらいは楽勝だったよう思うけど、今年初の回転寿司……、12皿でもう充分なお腹に年齢を意識しないわけでない。

 ラストオーダーは〆鯖とシャレてみても、気持ちはもうチョイ食べたいけど、お腹はも~イイも~イイの二律背反。いけ好かんなぁ。

 しかしま~、アチャラもコチャラも「恵方巻」。

 

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 うちの近所のスーパーの「恵方巻」に至っては高名な某最上稲荷でお祓いを受けたノリで巻いてるってわざわざチラシに写真を載っけてる。

 そうまでしてカツいでどうする、縁起? 

 国民そろって東北東に向かわせ黙って巻き寿司喰ってネ~って、気味悪いし、みっともないな~。

 

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 某日。

 敬愛してやまぬ方の墓に参る。

 飄々と真摯と諧謔を見事均等に身体化させていつつ、時にヤンチャで一点張りな頑強主張まで含め、ま~ヒトコトで云えばカッコ良かった方。教わるコト大であったマ~ちゃん。

 なんとも奇遇ながら、我が家のと同じ霊園。

 父の墓から歩いて数秒、電話しなくともチョイ声を高めりゃおしゃべり出来るご近所づきあい。

 けったいなハナシながら、妙に嬉しい。

 

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              お掃除中のEっちゃま

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 お参り後に、これまた近場なコメダ珈琲で一服。

 といっても店内でシガレットを吸えるワケでもなく、もう死語になるんだろうなぁ、一服という表現は。

 一服しようか → お茶しようか

 何か……、これって絶妙に違うなぁ。一服しようかの一服は含有されるアレコレが大きくて包容力が高いんだね。お茶しようかはどうも限定的。

 ま~、どうでもよろしいが、シガレットな文化の消滅はお言葉の端々にも影響が出るって~ワケだね。

 

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 2月になれば、『ラ・ラ・ランド』の監督と主演がコンビを組んだ『ファースト・マン』という映画が公開される。原作は月に最初の一歩を刻んだ故ニール・アームストロングを描いた伝記。

 60年代という時代はとにかく盛大にシガレットが消費された時代。なにしろアポロ計画をスタートさせたケネディの基調演説(1962年9月。NASAに広大な地所を寄贈したライス大学での屋外演説)でも、

「あなた方の吸うシガレットや葉巻の税金でこの計画は充分にまかなえられる」

 晴れやかに云ったもんだった。

 実際、当時の映像を見るとNASAの管制室をはじめに、アチャラにコチャラ、皆さん盛大にスモーキング・ブギーしちゃってる。

 トム・ハンクス主演の『アポロ13』やこの映画から派生したTVシリーズ『フロム・ジ・アース・トゥ・ザ・ムーン』でもその片鱗はたっぷり味わえた。制御卓の灰皿にタバコがあふれ、かつ卓に灰がこぼれ散ってる辺りの描写が実に細やかで当時のスモーキーな様相をよく再現してた。

 

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           1969年のNASAアポロ管制室での実際映像

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           1995年の映画『アポロ13』での映像

 けど、近頃はたとえ60年代の事を描こうが、タバコがシーンに登場することが少ない。

 WHOの「たばこ規制枠組条約」(2003年決議)が登場して以来、不健全を増長させるな!との声がジワジワ昂ぶっての波動砲攻め。映画製作に出資のスポンサーを大いにビビらせたから、自ずと喫煙シーンに影響が出る。自主規制をかけるようになり、またそうすると、それが当たり前ダ~的流れとして比重が増す。

 だから来月に観ることになる『ファースト・マン』では、そこはどう描かれるかしら? いささか気がかりだわネ。

 大量に吸われ、いわば当時の典型的光景だった事実は、おそらく、ごくごく一部の背景にチラッと登場程度に卑小化されてるだろう。マーキュリー計画での軌道計算などに大いに活躍した黒人女性たちを描き、邦題のトンチンカンっぷりが話題になった『ドリーム』でも、スモーク・シーンはほぼ隠蔽されていたからね……。

 観る前から心配したってしかたないけど、あった事がなかったように扱われてくのは、嬉しくない。今風に云えば、それこそが「フェーク」、「捏造」じゃあるまいか?

 侍を描いた時代劇なのに刀を腰に差していないって、それはないでしょう……。

 ことさらに大きく、いまさらに強調しなくともいいから、ほどほどな「時代のまぶし」を願いたいなっ。

 

 しかし、なんで邦題タイトルは『ファースト・マン』と、ナカグロ入れてるんだろ?

 オリジナルは『First Man』で、「・」はない。原作とて『ファーストマン』、区切ってない。

 『スーパーマン』を『スーパー・マン』にしちゃったようなもんで、日本の配給会社って余計なことを加えてくるね~。変だね~。

 

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フライト

 過日、夢で空を飛んだけど、これが喝采したくなるホド見事な飛びっぷりだったんで、目覚めてもしばしボンヤリ追想に耽るようなアンバイだった。

 仙境めいたのどかな庭先に希林さんみたいなニコヤカな老女がいて、お手伝いさんがいて、2人と会話した後、「それじゃ~チョット行ってきますわ」てな感じで庭の境界から眼下へとパ~ッと飛び降り、しばし両手を飛行機の翼みたいにマッスグ伸ばし滑空、ついでそれをユルリ羽ばたかせ、速度を落として今度は旋回……

 極めて自在に飛んでるんだった。

 夢見つつ、その自在っぷりに大いに喜んで、左右にシャキ~ンと両手を伸ばした金属モードと、ユルユル羽ばたかせる生物ハトポッポなモード切り替えを堪能しつつなフライトなのだった。

 息子がグレて家出しちゃい、今は1人住まいの老人宅が崖の上にある。

 そこにちょっと降り立って安否を気遣ってあげたけど、老人の姿はない。

 灯りがついてるから、ま~いいか、とまた飛んでく。

 

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 はるか眼下に肌色と朱色に塗り分けられた昔風味な2両編成のディーゼル車輌が鉄路を駆けてるのが見えるが、それは実物でなくって9ミリゲージの模型ディオラマだと、夢の中ではそう理解し、

「うまく造ってるなぁ」

 笑みて感心するのだった。

 でもって自在に飛べるもんだから、崖のさなかにトンネルがあるのを見つけるや、そこに滑りこんでくのだった。

 トンネルは長い廊下に変じ、奥の方でジャズフェスの司会をやってくれてる早ちゃんが、メガネの太った人物と話してる。

 そばに寄って聞くに、『シンドバッドの航海パート3』という映画とのタイアップ企画となるイベント司会を依頼されたけども、今年サイコ~の出来栄えと映画を褒めちぎるように主催側から云われ、

「そんなんやってられませんよ」

 断ったというようなハナシで、ひとしきり彼の口から映画のウンチクがこぼれ、ただのヨイショはしないぞな気概にあふれ、これまた頼もしくって笑みてくる。

 

 と、以上のような楽しくってしゃ~ない夢を見るのは久しぶり

 あんまりナイことなので書いておく。

 しかし、ヒトの夢の話ほどくだらないものもないだろう。そこに参加できるワケでなし。

 

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 幾つかあった年始パーティのほぼファイナルな席。

 同席の中に3人、昨年11月末の講演を聴いてくれた方々あって、方々ともに、

二宮金次郎のハナシがオモロカッた~」

「いっそ特集でやればイイのに」

 など、告げてくれる。

 実は年始の他会の席でも同じコトを云われた。

 木材史を語り、そのテーマに沿って里山に話題を運び、その里山で焚き木拾いつつ本を読んでる、明治期に全国の小学校に登場した金次郎の像に触れたワケだけど、大ヒット祈願で売り出したシングル盤としての『岡山木材史』が、フタをあけるとB面『金次郎-今昔像』に人気が集中しちゃって、あれ~? みたいな想定外。おもしろいな~。

 

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 パーティ翌日、毎年新春になれば会合してるK夫妻との茶話会。

 今年も我が自室にて。

 週末となればどこぞの高原だか山中で星を覗く天文家のハナシは、聞くたびに興味深い。

 遠方の星を観察するというのは、時間旅行に出かけてるようなものだ。星は過去の光、ライブで眺めつつもその光点は遠い過去の光景だから、自ずと過去へのフライトというワケだ。

 日々の恩恵がビッグな太陽とて、その姿は8分ホド前のもの。肌が感じる暖かさは8分前の熱……。

 どうにもボクにはそこが気になってしかたない。もどっかしいような妙ながつきまとってしかたない。

 以前にも書いたことだけど、今見てる星、例えばオリオン座のベテルギウスで例すると、ベテルギウスはひょっとしてもう存在しないかもしれない。阿鼻叫喚の断末魔の叫びをあげつつ崩壊し、超高温でもって分解しきって元素と化し塵となって宇宙空間に巻き散らかされてるかもしれない。

 地球で金(Gold)が価値あるのは、それが太古の昔の星が炸裂して超々高温になって生じた元素が、たまさか成形中の地球内部に閉じ込められ堆積したものだからで、地球産まれのモノじゃ~ないからだ……。

 だのに、地球上では終焉を迎えた星の顛末はまだ知れず、輝く光点として見えている、同時ながら同時でないその不思議……。

 ライブを見てるはずなのに実は記録映像をみているという奇妙に興をひかれてるわけだ。

 

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 天体望遠鏡を抱え持ったヒトは、たぶんその辺りの消息に1番に通じてるヒトのはず。それゆえ余計、K氏の話を聞きたがるボク。

 とはいえ毎度ながら、ベチャ~っとした話もオモチロイ。足が夜中に攣るとか、両足攣ったとか、でっかいゴジラ模型をどう収納してるとか……、楽しくも同情相憐れむな時間はいつもながら「あっ」という間に過ぎちゃう。

 

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 一方じゃ、ほぼ日刊なグダグダな楽しくないニュースの連打。

 グッタリするねっ。

 ニュースの発信元がグッチャラケなのが、さらによろしくない。

 首相の「辺野古のサンゴ移設」を真意の検証なく放映した事に関し、

「番組内での政治家の発言について、NHKとしてお答えする立場にありません。また、他社の報道についてはコメントいたしません」

 との公式コメントは、

『当方は報道機関じゃございません』

 と公言したに等しくはないか。

 けどもっとも尋常でないのは、NHK以外のマスコミ機関がこの重大事をさほど大きく扱わないという点だろか……

 ぅ~~ん。こういうのが束の間の風みたいに通り過ぎてってイイのかぁ?

 

 それでせめて夢の中じゃ自由でありたい……、みたいなことで空を飛んだのかしら?

 昔、モンキーズに「I Wanna Be Free 」ってのがあったなぁ。

 かの「モンキーズ・ショー」はベトナム戦が泥沼化してるさなかでの放映。

 ティーンエイジ向けなアッ軽い~番組で戦争もなくタバコも出てこないけど、彼らのデビュー曲「恋の終列車」はベトナム徴兵の忌避の歌だったし、総じてこのバンドの楽曲はラブソングに託しての、当時の若者の鎮痛な声の代弁だったかも、あるいは不安の焦燥をつかの間まぎらわすものだったのかも、と今は思えたりもする。

 


Davy Jones: In Memory "I Wanna Be Free"


恋の終列車 / Last Train to Clarksville  

 

 藤田淑子さん。天地総子さん。市原悦子さん。梅原猛さん……。訃報が続く。

 この前、12月31日には、小学校の同級生も1人。残念。

 

年始のお寺

 君来訪。

 お正月を実家のある福井で過ごし ての土産をば届けてくれる。こういう不意打ちはメチャ嬉しい。

 岡山と福井は縁あるようで意外と希薄。こういう機会に福井を知るのはイイことだ。

 ついぞ今まで知らなかったけど、「とろろ昆布」と「おぼろ昆布」の違いなども知らされて、

「あらま~」

 知恵をつけられお利口さんになったような気も。

 

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 年が明けて今日で、10日……。

 神社の賑わいはまだ継続して、駐車場も車で埋まっている。

 護国神社では拝殿の脇にて、ふるまい酒が施されてたりもしたけど、さて、お寺さんはどうかしら?

 

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 概ねで正月近辺のお寺は閑散。中には三箇日が過ぎるや、ニット帽をかぶり、趣味のゴルフに出向いちゃうようなオチャラケな住職もいるけど、一方では、凛としたお寺さんなんぞもある。

 数日前に曹源寺に行ってみたけど、このお寺さんなんぞは凛たるの代表。

 駐車場はほぼ空っぽでこの時期訪れる人はいないようじゃあるけれど、見事に掃き清められた境内が清々しい。

 枯葉1つ見いだせない圧倒的な清掃。実に清々しい。

 

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 高名な禅寺でもあるから、ひょっとしてと思ってたら、あんのじょう、ひょっとしてだった。

 およそ10名ほどの僧が揃って座しし、禅行のさなかだった。

 この日はいささか冷気が濃くって、シミシミと冷えるようなアンバイだったけど、窓は全部が開かれて外気と変わらない道場にて、身じろぐことなく座しての沈思黙考が行われているのだった。

 だから静まりかえってる。

 

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 広すぎるほどの境内を箒ではいたのも、この僧たちであろうことは間違いなく、それも夜明け前からの清掃であったはず。

 一般来訪者は朝9時から夕刻7時までと門限があって、それ以外の時間は門をくぐれないけど、僧侶たちはその眼にはとまらない時間も研鑽をつんでらっしゃるのは自明。

 (ほとんどが海外から来てる修行僧のようだけど、詳細は知らない)

 浮世の流れにのっかるワケでなく、付和雷同の気配もみせず、冷気の中での禅座の姿を見ると、ハッとしてグッな佇まいの良さにいささか頭が下がるというか、ただもううたれるようなアンバイなのだった。

 ボクにそのような精進は、ない。ないから余計に新鮮をおぼえるし、そも、禅行が自身のためなのか他者のためなのかも……、よくは解っちゃいない。マラソンランナーやボクサーの孤独な日々の精進と、禅僧の精進はどう違うのか……、解っちゃいない。

 

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                 鐘楼のそばで蝋梅が花をつけていた。

 

 久しく愛用した椅子が壊れちまった。

 ギシギシ音をたて支柱が折れかけている。

 しかたない。新調でグレードアップ。

 佇まいがチョット変化でこれはコレで新鮮ながら、まだ馴染んでいないから座ってるというより座らさせられてるみたいな感もチロリ。

 椅子がコチラに馴染むのか、コチラが椅子に馴染むのか? たぶん双方の歩み寄り。

 

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 中区円山の曹源寺を訪ねた晩に、新たな椅子に座って『禅 ZEN』を観る。

 高橋伴明監督の2009年作品。

 巻頭部は今1つながら、中国に渡れば言葉はちゃんと中国語だし、総じて前半は小気味よい。

 町のカタチ、人の往来、貧寒の度合い、僧兵もどきの跋扈など、鎌倉時代初期の世情が映され、あんがい良かった。

 けど後半でダウン。よろしくない。CG活用での悟りの境地への運びが噴飯もの。

 監督高橋がイメージした禅というのはこの程度かい……、大いにガッカリさせられた。

 

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 けどもま~、道元に扮した中村勘九郎と売春でかろうじて生活をつないで一児を育てるおりんに扮した内田有紀が、全般を通じて好演だったのが救い。

 丸坊主中村勘九郎には凛々とした気配があって、自身を律することで欲から遠ざかるその哲学の求道者にふさわしい演技と思えたし、それゆえの道元のエゴイズムのようなものすら垣間見せてくれたような所もある。ま~、それだからこそ監督の力量不足にガッカリしたワケだけど。

 

 いまだ「これだ!」と云える仏教映画、僧侶の伝記的な映画ってないねぇ。数も少ないけど……、惜しいなぁ。実に面白い題材と思うんだけどね。

 

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             曹源寺本堂にて。コインを置きたがりますね〜。