TASPO

近頃というか、この5月からスタートしたタバコの自動販売機「TASPO」というヤツはアホ〜なもんやね〜とコンビニエンス・ストアでタバコを求めつつ思うのだった。
ごたいそうに写真を要求し、写真を貼り付けての個人認識めいた雰囲気を醸すカードなれど、ま〜るで役立たない。
試しに、このTASPOなるを導入した知友のそれを借りて自動販売機に挑んだら、な〜んのコトもない。
ラクラクとタバコは買えるのだった。
この日本には、タバコを吸わない人と吸う人の、たった二種しか存在しなくって、近来はタバコを吸わないに属する方が増えたもんだから、そのパワーバランスが崩れて、吸う人は吸わない人から迫害を受ける。
吸うな、吸うな、の大合唱。
他者への種々の迷惑を思えば、歩きタバコだの、子供の前だの、ではボクは吸いはしないけれども、嗜好として喫煙しているという事情なんぞは許さんという勢いには、かつてのナチス焚書やら迫害に似た狂妄があって、いささかタジタジとなる。
ついこの前、映画「アイム・ノット・ゼア」という映画を観た。
ボブ・ディランの、その多面性あるカタチを造形せんと、黒人や女性を含めた6人の俳優がディランを演じるという・・ 映画でしか出来ない表現法でもって構成された、なかなかの力作なのだったが、描かれた60年代や70年代のカタチの随所にタバコがあって、誰も彼もがタバコをくわえ、指でいじくり、指にはさみ、軽く吸い、深く吸い、淡い煙の虹を幾重となく重ねるものだから・・ 喫煙者であるボクは、
「ぁああ、どいつもこいつも美味そ〜やな〜」
羨ましげにスクリーンを眺めるのだった。
スクリーンを見ながら一本タバコが吸えたら、いっそ強毅にこのディランの映画に馴染めるのにな〜とシミジミ〜と思うのであった。
60年代末頃の人類というのは、果敢にして盛大にタバコを吸っていて、ミュージシャンしかり巷の市民しかり、智な方も痴な方もであって、例えば、アポロの打ち上げ管制官達の動向を写した映像記録なんぞをチラッと一瞥するや、それはも〜、誰も彼もが吸って吸って吸いまくっているのであった。会議であろうが管制室であろうがトイレであろうが、タバコは濃く深く浸透しているというのが60年代なのであった。
それが今や・・ トホホな惨状なのである。
吸わない方の気持ちは重々に判りますけどね。
敷地内は禁煙、と病院や学校や役所は喫煙者をけむたがる・・。
で、話を戻すけど、「TASPO」なる仕組みだ。
こんなものは早々にヤメちまえばいい、とボクは結論する。
正直なところ、それで未成年者の喫煙率が下がるとはとても思えないし、喫煙者が禁煙者に変じるとも思えない。
そもそも、自動販売機を止めるのが本筋でありましょうぞ、とタバコを吸うボクをして思わさせるのだ。
自動販売機なんぞは要りません。
タバコは対面で販売すりゃよろしいのです。
コンビニエンスであったり、近頃はめっきり減った「角の煙草屋」でタバコは売ればよろしいのです。
60年代や70年代には、タバコ屋の看板娘って〜なものがいましたな。
たいがいは・・ おばあちゃんだったりはしましたけどな。ごくたま〜〜に、綺麗なお姉さんがいたりはして、わざわざ遠回りしてそこに買いにいったら、彼女はいなくって、かわりにオバサンがいて、
「ハイライトかい?」
老眼鏡を鼻にかけて、そう申されもします。
近来は、1ミリだの6ミリだのと、ニコチン含有の少量加減を誇示した製品やら何もかもがメンソール入りだのと・・ こざかしいのもイカンですな。
種類があまりに多過ぎる。
いっそ、「きつい」「普通」「かるい」「ちょいメンソール含む」くらいに分別しただけの4種くらいでいい。
それに加え、刻みタバコとしての葉売りもイイかもだ。
そうなると、タバコも箱じゃなく、バラ売りってのがイイ。
「おばさん。きついの5本とかるいの4本・・」
てな感じで小分けで売ってもらうのさ。
このバラ売り案は我がプランではなく、アーチストの小石原君が云い出したものなのだけど、とってもいいアイデアだ。
ともあれ、タバコという存在は吸わない人には忌み嫌うだけの百害モノだけど、吸う人間には、奥ゆかしいトコロやら滋味やら、吸わない人にはまったく判らない独自の豊饒もあるのであって、そもそも吸わない人は肺というのは酸素を吸引するだけの器官でしかないワケで、その一点のみに凝縮していえば、タバコを吸わない人は器官を未成熟のままに放ってるみたいな(ムロン、これは極論だ)ね・・ 舌でものを味わうように肺でもって味わえる"世界"もあるのだよね。
それはイケナイことだと今や大合唱なのだけどさ。(*^ ^*)
ともあれ、「TASPO」はいらんです。