隣家のさつき


隣家のさつきが綺麗なのだ。
白と紅みのある色合いが鮮烈で否応もなく吸い寄せられるように眼が釘付けられる。
記憶をまさぐってみると、このさつきは20年ばかり前には50センチにも満たない小さなもので、隣家のささやかな庭にあってもめだたないシロモノであったのだが… 歳月が流れると、大の大人が3人くらい手をひろげ、その手がかろうじて届いて輪形を描けるくらいな大きさになっていて、今や隣家の"大きな顔"なのである。
隣家のそれは、とにかく花数が多いのが特徴で、みっしりとかギッチリと形容してもよいくらいの凝縮ぶりなのだった。
それが綺麗なドーム形になっているから眼に入る鮮やかさが増す。
このように美しく咲かせるには余程に日頃から丹念な手入れを施しているのであろうと、そう普通なら予想するのだけども、実はそうでもない。
隣家の住人が、隣家に請われた職人が、さつきをつっついているというのをボクは見たことはない。
監視しているワケではないけれども、ほぼ毎日、隣家の庭の先を眼に出来ているんだから、そこに職人がいれば… 一つの印象としてそれはボクの中に定着するワケだけれども、それがない。
だから、このさつきは、季節が来たので勝手に咲いております。それがたまたま綺麗にドーム形になっております… という感じなのだ。
もともと、さつきというのは渓流の脇で育っていたらしい。
花が見栄えして綺麗なので、江戸時代には観賞用として町中でも育てられだしたとモノの本にある。
容易につぐ事が出来るので、種としての種類も多い。
ネット上でお手軽に調べてみると、さつきはなんと1500種もあるそうな。
強い生命力をもっているので、昭和の頃からは道路公団などが積極的に道路脇の"飾り"として用いだし、それは今も続いているそうだから… 花という括りでいえば、さつきは日本で一番に多い花だ、という説もあるそうだ。
ともあれ、隣家のそれだ。
我が宅にもささやかな庭があって、それなりの草木が配されているんだけも、我が生活圏における窓からの眺めとして、イノイチバンに飛び込んで来るのがこの隣家のさつきなのだから、有無をいわせない…。いわせてくない。
花という典雅は人にとって、一つのアクセントでもあるから、隣家のそれはボクにとっての、日々日常の句読点のようなもんだ。
起き出して2階の窓からそれを見たり、白昼にさりげなく一瞥したりするたびに、ボクの中に"テン"や" マル"が浮かんだり明滅したりするのだ。
"マル"を置き、ちょいと改行してみようかと… 文学したり出来るのだ。
だから、なかなか、ありがたい。
意識するしないに関らず、我が日常の底辺に華やぎが置かれてるワケでもあるから、ありがたい。
でも… あくまでも隣家の花なのである。
ブロック塀の向こうの花なのだ。
愛でつつも笑しみをおぼえる。
隣家のそれに近寄ってみると、さすがに旬の時期が過ぎ、花から勢いが失せていて、もう数日もすれば、花は落ちはじめ、やがてもう間もなく、ちょっと汚らしいアンバイになると予想出来るのだけども、この1週だか2週の合間、我が眼をなごませてくれていたので、ここに"感謝"として記しておこう。  
(o^_^o)